思いがめぐる

2011年12月



一つの物語を思い出しました。

Shel Silversteinという方が書いた「The Giving Tree」という本です。

一本のりんごの木と一人の男の子のお話です。
それが物語の始まりで、そして終わりです。
一つの舞台が絵本になったかのようです。


TheGivingTree




りんごの木はある男の子と大の仲良しでした。
男の子はりんごの木に登ったり、枝にぶら下がったり、
りんごを食べたりして木と遊んで過ごしていました。
りんごの木はその子が大好きで、その子もりんごの木が大好きでした。


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男の子はやがて成長し、りんごの木と遊ばなくなります。
りんごの木はとても寂しくなりました。
ある日、成長した男の子がりんごの木に会いにやってきます。
りんごの木はとても嬉しくて「遊んでいきなよ」と声をかけます。
でも青年になった男の子はもう遊びには興味がありません。

「お金が欲しいんだ」

青年は言います。


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りんごの木はそれならりんごの実をもいでそれを売ってお金にすればいいと答えます。
青年は言われた通り、りんごの実を全てもぎ取って持っていってしまいます。

それでも木は嬉しかったのです。


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青年は大人になり家庭を持ちたくなります。

「家が欲しいんだ」

大人になった青年は言います。
木はそれなら枝を切って家を建てればいいと答えます。
大人になった青年は言われたとおりに枝を全て切ってもって行ってしまいます。


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それでも木は幸せでした。


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更に時が経ち、壮年期を迎えた青年は遠くへ行きたくなります。

「船が欲しいんだ」

かつての青年は言いいます。
木はそれらなら幹を切って船を作ればいいと答えます。
かつての青年は言われたとおりに幹を切って船を造り、遠くに行ってしまいます。


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それでも木は満足でした。

更に長い年月が過ぎ、すっかり老人になったかつての子供はまた木のもとに帰ってきます。
でも、木にはもう何もあげられるものが残っていません。
木は自分にはもう何もないとことを告げます。

老人は言います。

「もう欲しいものはないんだ。ただ、座って休む場所があればいい」

木はそれならと精一杯に背筋を伸ばし、残った自分である切り株に座って休みなさいと言います。
老人はそれにしたがって座ります。


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木はとてもと嬉しくなります。

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ストーリーはこれだけです。

ここから何を読み取るのかは読者に託されているのでしょう。

見返りを求めない無償の愛でしょうか?
与えることの喜びでしょうか?
求め続ける人間のエゴでしょうか?
或いはそれ以外の何かでしょうか・・・?

作者は何も語りません。

一つの物語を見せるだけです。









サンタの登場する物語はたくさんある。
また、映画の題材にも何度も取り上げられている。
どのサンタも大抵、優しくて、温かくて、気前がよくて、ホッホッホッと笑っている。
でも、私の一番好きなサンタはちょっとだけ違う。



fathere christmas 1




このサンタさん、とても人間臭い。
何より無類の寒がりやだ。
いつでも夏のヴァカンスを夢みている。
だから、年に一度のお仕事は難行苦行だ。
イブの朝はため息混じりに目を覚ます。
何しろ、大仕事が待っている。



father christmas 3




橇を駆って寒い雪の中に飛び出し(北半球では)、各家を回り、プレゼントを配らなければならない。
だから、ついブツブツと文句を言う。
煙突からお家にお邪魔するときにも、屋根の上でお弁当を食べるときにも、お家の中の長い長い階段を上るときにも、屋根にある邪魔っけなアンテナにぶつかったときにも…

お家にはサンタの為にミルクとクッキーがトレイに載って用意されている。
でも、それより、たまに気を利かせて置かれているアルコールに目を輝かせる。
小さなトレーラーのお家からバッキンガム宮殿まで、分け隔てなく贈り物を届けるお仕事をやり遂げると、家路へと急ぐ。
家に着いたら、まず、紅茶を一杯。(とってもイギリス人)
そして、クリスマスディナーの支度を済ますと(クリスマス・プディングも忘れない!)、ぬくぬくと熱いお風呂に入り身体を温める。
それから、エールを一杯。



Raymond Briggs Father Christmas 2




ワインを片手に食事を楽しみ、食後にはコニャックのグラスを傾ける。
クリスマスプレゼントを開けるのは最後の仕事。
そして、寝る前の温かな飲み物を持って(その前の入れ歯のお手入れも忘れずに)寝室に向かう。
そして、灯りを消して寝付く前に、ちょっとめんどくさそうに挨拶してくれる。

“Happy blooming Christmas to you, too!”

絵本には、ほとんど文字がない。
ストーリーを伝えるのは絵だけだ。
言葉は要らない。
絵が十分に語りかけてくれる。

私にとって、お伽話の中にしか存在しなかったサンタは、レイモンド・ブリッグスの『さむがりやのサンタ』との出会い以来、年に一度、冬の夜空を駆け巡るようになった。

今年のイブも凍てつく夜空を見上げよう。



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ひとつ前の記事「日本の原発労働者」 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183826.htmlでご紹介しました内容をイギリスのチャンネル4が映像化し、1995年に放送しています。

全部で25分ほどの長さです。こちらも是非、見て頂ければと思います。














ひとつにまとめられたものは以下でご覧になれます。
http://video.google.com/videoplay?docid=4411946789896689299#




以下は、エル・ムンド(EL MUNDO)というスペインの新聞に2003年6月8日に載せられた記事です。

http://www.jca.apc.org/mihama/rosai/elmundo030608.htm




調査報告/原子力発電所における秘密



日本の原発奴隷



 日本の企業は、原子力発電所の清掃のために生活困窮者を募っている。 多くが癌で亡くなっている。クロニカ〔本紙〕は、このとんでもないスキャンダルの主人公達から話を聞いた。

DAVID JIMENEZ 東京特派員
 福島第一原発には、常に、もう失うものを何も持たない者達のための仕事がある。松下さんが、東京公園で、住居としていた4つのダンボールの間で眠っていた時、二人の男が彼に近づき、その仕事の話を持ちかけた。特別な能力は何も必要なく、前回の工場労働者の仕事の倍額が支払われ、48時間で戻って来られる。2日後、この破産した元重役と、他10名のホームレスは、首都から北へ200kmに位置する発電所に運ばれ、清掃人として登録された。
 「何の清掃人だ?」誰かが尋ねた。監督が、特別な服を配り、円筒状の巨大な鉄の部屋に彼らを連れて行った。30度から50度の間で変化する内部の温度と、湿気のせいで、労働者達は、3分ごとに外へ息をしに出なければならなかった。放射線測定器は最大値をはるかに超えていたため、故障しているに違いないと彼らは考えた。一人、また一人と、男達は顔を覆っていたマスクを外した。「めがねのガラスが曇って、視界が悪かったんだ。時間内に仕事を終えないと、支払いはされないことになっていた」。53歳の松下さんは回想する。「仲間の一人が近づいてきて言ったんだ。俺達は原子炉の中にいるって」。
 この福島原発訪問の3年後、東京の新宿公園のホームレスたちに対して、黄ばんだ張り紙が、原子力発電所に行かないようにと警告を発している。“仕事を受けるな。殺されるぞ”。彼らの多くにとっては、この警告は遅すぎる。日本の原子力発電所における最も危険な仕事のために、下請け労働者、ホームレス、非行少年、放浪者や貧困者を募ることは、30年以上もの間、習慣的に行われてきた。そして、今日も続いている。慶応大学の物理学教授、藤田祐幸氏の調査によると、この間、700人から1000人の下請け労働者が亡くなり、さらに何千人もが癌にかかっている。


完全な秘密
 原発奴隷は、日本で最も良く守られている秘密の一つである。いくつかの国内最大企業と、おそるべきマフィア、やくざが拘わる慣行について知る人はほとんどいない。やくざは、電力会社のために労働者を探し、選抜し、契約することを請負っている。「やくざが原発親方となるケースが相当数あります。日当は約3万円が相場なのに、彼等がそのうちの2万円をピンハネしている。労働者は危険作業とピンハネの二重の差別に泣いている」と写真家樋口健二氏は説明する。彼は、30年間、日本の下請け労働者を調査し、写真で記録している。
 樋口氏と藤田教授は、下請け労働者が常に出入りする場所を何度も訪れて回り、彼らに危険を警告し、彼らの問題を裁判所に持ち込むよう促している。樋口氏はカメラによって―彼は当レポートの写真の撮影者である―、藤田氏は、彼の放射能研究によって、日本政府、エネルギーの多国籍企業、そして、人材募集網に挑んでいる。彼らの意図は、70年代に静かに始まり、原発が、その操業のために、生活困窮者との契約に完全に依存するに至るまで拡大した悪習にブレーキをかけることである。「日本は近代化の進んだ、日の昇る場所です。しかし、この人々にとっては地獄であるということも、世界は知るべきなのです。」と樋口氏は語る。
 日本は、第二次世界大戦後の廃墟の中から、世界で最も発達した先進技術社会へと移るにあたって、20世紀で最も目覚しい変革をとげた。その変化は、かなりの電力需要をもたらし、日本の国を、世界有数の原子力エネルギー依存国に変えた。
 常に7万人以上が、全国9電力の発電所と52の原子炉で働いている。発電所は、技術職には自社の従業員を雇用しているが、従業員の90%以上が、社会で最も恵まれない層に属する、一時雇用の、知識を持たない労働者である。下請け労働者は、最も危険な仕事のために別に分けられる。原子炉の清掃から、漏出が起きた時の汚染の除去、つまり、技術者が決して近づかない、そこでの修理の仕事まで。
 嶋橋伸之さんは、1994年に亡くなるまでの8年近くの間、そのような仕事に使われていた。その若者は横須賀の生まれで、高校を卒業して静岡浜岡原発での仕事をもちかけられた。「何年もの間、私には何も見えておらず、自分の息子がどこで働いているのか知りませんでした。今、あの子の死は殺人であると分かっています」。彼の母、美智子さんはそう嘆く。
 嶋橋夫妻は、伸之さんを消耗させ、2年の間病床で衰弱させ、耐え難い痛みの中で命を終えさせた、その血液と骨の癌の責任を、発電所に負わせるための労災認定の闘いに勝った、最初の家族である。彼は29歳で亡くなった。
 原子力産業における初期の悪習の発覚後も、貧困者の募集が止むことはなかった。誰の代行か分からない男達が、頻繁に、東京、横浜などの都市を巡って、働き口を提供して回る。そこに潜む危険を隠し、ホームレスたちを騙している。発電所は、少なくとも、毎年5000人の一時雇用労働者を必要としており、藤田教授は、少なくともその半分は下請け労働者であると考える。
 最近まで、日本の街では生活困窮者は珍しかった。今日、彼らを見かけないことはほとんどない。原発は余剰労働力を当てにしている。日本は、12年間経済不況の中にあり、何千人もの給与所得者を路上に送り出し、一人あたり所得において、世界3大富裕国の一つに位置付けたその経済的奇跡のモデルを疑わしいものにしている。多くの失業者が、家族を養えない屈辱に耐え兼ねて、毎年自ら命を絶つ3万人の一員となる。そうでない者はホームレスとなり、公園をさまよい、自分を捨てた社会の輪との接触を失う。


“原発ジプシー”
 原発で働くことを受け入れた労働者たちは、原発ジプシーとして知られるようになる。その名は、原発から原発へと、病気になるまで、さらにひどい場合、見捨てられて死ぬまで、仕事を求めて回る放浪生活を指している。「貧困者の契約は、政府の黙認があるからこそ可能になります」。人権に関する海外の賞の受賞者である樋口健二氏は嘆く。
 日本の当局は、一人の人間が一年に受けることが可能である放射線の量を50mSvと定めている。大部分の国が定めている、5年間で100 mSvの値を大きく超えている。理論上、原子力発電所を運営する会社は、最大値の放射線を浴びるまでホームレスを雇用し、その後、「彼らの健康のために」解雇し、ふたたび彼らを路上へ送り出す。現実は、その同じ労働者が、数日後、もしくは数ヵ月後、偽名でふたたび契約されている。そういうわけで、約10年間、雇用者の多くが、許容値の何百倍もの放射線にさらされている説明がつくのである。
 長尾光明さんは、雇用先での仕事の際に撮られた写真をまだ持っている。写真では、彼は、常に着用するわけではなかった防護服を着ている。病気になる前、5年間働いた東電・福島第一原発で、汚染除去の作業を始める数分前にとった写真である。78歳、原発ジプシーの間で最も多い病気である骨の癌の克服に励んで5年を経た今、長尾さんは、原発を運営する会社と日本政府を訴えることに決めた。興味深いことに、彼は、契約されたホームレスの一人ではなく、監督として彼らを指揮する立場にあった。「大企業が拘わる仕事では、何も悪い事態が起こるはずはないと考えられてきました。しかし、これらの企業が、その威信を利用し、人々を騙し、人が毒される危険な仕事に人々を募っているのです」と長尾さんは痛烈に批判する。彼は、許容値を超える大量の放射線にさらされてきたため、歩行が困難となっている。
 30年以上の間、樋口健二氏は、何十人もの原発の犠牲者の話を聞き、彼らの病を記録してきた。彼らの多くが瀕死の状態で、死ぬ前に病床で衰弱していく様子を見てきた。おそらくそれ故、不幸な人々の苦しみを間近で見てきたが故に、調査員となった写真家は、間接的にホームレスと契約している多国籍企業の名を挙げることに労を感じないのだ。東京の自宅の事務所に座り、紙を取り出し、書き始める。「パナソニック、日立、東芝…」。


広島と長崎
 企業は、他の業者を通してホームレスと下請け契約をする。労働者の生まれや健康状態などを追跡する義務を企業が負わずにすむシステムの中で、それは行われている。日本で起こっている事態の最大の矛盾は、原子力を誤って用いた結果について世界中で最も良く知っている社会の中で、ほとんど何の抗議も受けずに、この悪習が生じているということである。1945年8月6日、アメリカ合衆国は、その時まで無名であった広島市に原子爆弾を投下し、一瞬にして5万人の命が失なわれた。さらに15万人が、翌5年間に、放射線が原因で亡くなった。数日後、長崎への第二の爆弾投下により、ヒロシマが繰り返された。
 あの原子爆弾の影響と、原発の下請け労働者が浴びた放射線に基づいて、ある研究が明らかにしたところによると、日本の原発に雇用された路上の労働者1万人につき17人は、“100%”癌で亡くなる可能性がある。さらに多くが、同じ運命をたどる“可能性が大いにあり”、さらに数百人が、癌にかかる可能性がある。70年代以来、30万人以上の一時雇用労働者が日本の原発に募られてきたことを考えると、藤田教授と樋口氏は同じ質問をせざるをえない。「何人の犠牲者がこの間亡くなっただろうか。どれだけの人が、抗議もできずに死に瀕しているだろうか。裕福な日本社会が消費するエネルギーが、貧困者の犠牲に依存しているということが、いつまで許されるのだろうか」。
 政府と企業は、誰も原発で働くことを義務付けてはおらず、また、どの雇用者も好きな時に立ち去ることができる、と確認することで、自己弁護をする。日本の労働省の広報官は、ついに次のように言った。「人々を放射線にさらす仕事があるが、電力供給を維持するには必要な仕事である」。
 ホームレスは、間違いなく、そのような仕事に就く覚悟ができている。原子炉の掃除や、放射能漏れが起こった地域の汚染除去の仕事をすれば、一日で、建築作業の日当の倍が支払われる。いずれにせよ、建築作業には、彼らの働き口はめったにない。大部分が、新しい職のおかげで、社会に復帰し、さらには家族のもとに帰ることを夢見る。一旦原発に入るとすぐ、数日後には使い捨てられる運命にあることに気づくのである。
 多くの犠牲者の証言によると、通常、危険地帯には放射線測定器を持って近づくが、測定器は常に監督によって操作されている。時には、大量の放射線を浴びたことを知られ、他の労働者に替えられることを怖れて、ホームレス自身がその状況を隠すことがあっても不思議ではない。「放射線量が高くても、働けなくなることを怖れて、誰も口を開かないよ」。斉藤さんはそう話す。彼は、「原発でいろんな仕事」をしたことを認める、東京、上野公園のホームレスの一人である。

 原発で働く訓練と知識が欠如しているため、頻繁に事故が起きる。そのような事故は、従業員が適切な指導をうけていれば防げたであろう。「誰も気にしていないようです。彼らが選ばれたのは、もしある日仕事から戻らなくても、彼らのことを尋ねる人など誰もいないからなのです。」と樋口氏は言う。一時雇用者が、原発の医療施設や近くの病院に病気を相談すれば、医者は組織的に、患者が浴びた放射線量を隠し、“適性”の保証つきで患者を再び仕事に送り出す。絶望したホームレスたちは、昼はある原発で、夜は別の原発で働くようになる。
 この2年間、ほとんど常に藤田、樋口両氏のおかげで、病人の中には説明を求め始めた者達もいる。それは抗議ではないが、多くの者にとっての選択肢である。村居国雄さんと梅田隆介さん、何度も契約した末重病にかかった二人の原発奴隷は、雇用補助の会社を経営するヤクザのグループから、おそらく、殺すと脅されたために、それぞれの訴訟を取り下げざるをえなかった。


毎日の輸血
 大内久さんは、1999年、日本に警告を放った放射線漏れが起きた時、東海村原発の燃料処理施設にいた3人の労働者の一人である。その従業員は、許容値の1万7000倍の放射線を浴びた。毎日輸血をし、皮膚移植を行ったが、83日後に病院で亡くなった。
 労働省は、国内すべての施設について大規模な調査を行ったが、原発の責任者はその24時間前に警告を受けており、多くの施設は不正を隠すことが可能であった。そうであっても、国内17の原発のうち、検査を通ったのはたったの2つであった。残りについては、最大25の違反が検出された。その中には、労働者の知識不足、従業員を放射線にさらすことについての管理体制の欠如、法定最低限の医師による検査の不履行なども含まれた。その時からも、ホームレスの募集は続いている。
 松下さんと他10名のホームレスが連れて行かれた福島原発は、路上の労働者と契約する組織的方法について、何度も告発されている。慶応大学の藤田祐幸教授は、1999年、原発の責任者が、原子炉の一つを覆っていたシュラウドを交換するために、1000人を募集したことを確認している。福島原発での経験から3年後、松下さんは、「さらに2、3の仕事」を受けたことを認めている。その代わり、彼に残っていた唯一のものを失った。健康である。2、3ヶ月前から髪が抜け始めた。それから吐き気、それから、退廃的な病気の兆候が現れ始めた。「ゆっくりした死が待っているそうだ。」と彼は言う。

                         * * * * *
 この新聞は、インタビューを受けられた樋口健二氏より提供された。記事の訳内容の一部は、樋口氏によって訂正されている。なお、原文では、写真は全てカラーで掲載。
訳責:美浜の会


以上の内容に近いものが映像化されています。英国チャンネル4が1995年に放映したドキュメンタリー番組です。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183852.html

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 約三ヶ月の入院生活を終えて家に戻った時、母は、立ち上がるどころか、寝返りさえうてない状況だった。ベッド脇にある手摺に掴まれば半身を起こすことは何とかできた。ベッドに腰掛けた状態まで持ってくれば、そこから手摺を使って立ち上がることもかろうじて可能だった。立ち上がるところまで行けば、足を滑らせるように動かすことは出来たので、杖あるいは、誰かの支えがあれば、そろそろとトイレに行くことは出来た。が、半時間以上、椅子に座っていることも、ドアのノブを回して開けることも、500ml以上のペットボトルを持ち上げることも、ほんの少し重量のある洋服を着ているということも、何もできなかった。

 入院中も体を動かすことは奨励されていた。今は病院でも、術後、できるだけ早い時期に起き上がるよう、立ち上がるよう、歩くようにと指導されている。病院の廊下は、いつも、ぐるぐると歩き回る患者さんでいっぱいだった。体を真っ直ぐ立てることも出来ない状態で人の手に縋りながらようやっと足を進める患者さんから、点滴の棒に捕まり無表情に歩きつづける患者さん、大分回復が進み、変化のない廊下をつまらなさそうに一人でくるくると歩き回る患者さん。一目見て入院患者と分かる人々が、絶えず、院内を歩き回っていた。

 母も、手術の翌日には体を縦にした。縦にしたというのは、立ち上がったと言う訳ではない。ICUのベッドに体を縦に起こされて足を床に下ろし二歩、足踏みをした。ずっと後になって、母にその時のことを聞いてみたが、何も覚えていなかった。「立ち上がってみますか?」と質問されて「はい」とお母さん言ったのよ。と記憶を促してみたが、その日どころか、ICUに入っている間の記憶はほとんどなかった。

 一般病棟に戻ってからは、まだ、息も絶え絶えながら、できるだけ体を動かすという方向に持っていくよう努めた。最初は上半身を立てること。そして、次はある時間座っていること。それから、立ち上がること。そして、歩くこと。21日に手術を受け、約一週間後の27日、母は両脇を看護師の方に支えられ20メートル程歩いた。それから、徐々に、徐々に、歩く距離と回数を増やしていった。点滴の棒に縋るようにして立つ母の手を取って一体どのぐらい病院の中を歩き回っただろう。初めは牛歩の歩みに過ぎなかったが、やがて、病室がある階の廊下をぐるりと回れるまでになった。それでも、屋内の廊下をただ無為に歩くというのは、効果的に筋肉を使うのとは違う。しないよりははるかに良かったのだろうが、それで、十分なリハビリができていたとは言えなかった。

 リハビリは体だけの問題ではない。心と頭のリハビリも必要だった。特に母のように高齢の場合、頭を衰えさせないようにすることは必須だった。病室にはテレビもあったが、術後、母の視力はかなり落ちてしまい、テレビにも新聞にも全く興味を示さなかった。尚且つ、母には耳に障害があった。幼少の頃にかかった中耳炎が原因で、母の片耳は全く聞こえない。体力が弱まれば、まず、故障のあるところに支障をきたす。目の機能はかなり衰え、耳は常時、耳鳴りに悩まされるという状態になってしまっていた。

 元気であれば、例え一日でも新聞を読むことを欠かさない母が、全く興味を示さないということは、私にとって怖いことでもあった。私は、毎日、前日の夕刊とその日の朝刊を持って行き、母に読んで聞かせた。無論、聞いているだけでも長い時間はとても無理だったため、記事を選んでの少しずつの読み聞かせだった。次に心がけたのは、できるだけおしゃべりをすることだった。咲いている花の話、出会った人の話、会話した友人の話、覗いたお店の話、とりとめのない話ばかりだったが、とにかく母に頭を働かせて欲しかった。そして気分が悪くさえなければ、車椅子で病室から外へと連れ出した。外を押して回ることはできなかったが、病院の入口のところお花屋さんがあり、そこには何回となく足を運んだ。精一杯の努力はしていたつもりだったが、ひと月を過ぎた頃から、日に日に、母の表情が乏しくなり始めた。私の話にも反応が鈍くなり、相槌すら返さないようになってきた。元来、明るい性格である母が、いくら術後の回復期であるとはいえ、こんな風に変わってしまうのは普通ではなかった。私は冷静に観察した。母の表情、他人への態度、会話の受け答え、そして、母にどんな気分かを日に何回となく聞いてみた。どう考えても、典型的な鬱症状を示していた。私は早速医師に相談し精神科に回して欲しいと願いいれた。担当医がやってきて母を診てくれたが、それだけでわかるわけもなかった。私は、とにかく一刻も早い精神科での診察をお願いした。精神科の医師は、母に2、3の質問をし、私の方を見て抗鬱剤を処方して見ましょうかねと言いながら、二種類の薬を処方してくれた。家に戻ってからネットで二つの薬を調べ、翌日から母に飲ませた。

 最後に病院を去る9月の下旬までに、母は、一度退院しては一週間も経たずに高熱を出し、救急車で逆戻りということを繰り返し、二度の入退院をしていた。三度目の退院の間際になって、院内でもリハビリが行われていることを知った。できるのなら受けさせて欲しいと申し出、3度ほど指導を受けた。退院後のリハビリについても、そこに通えないだろうかという可能性を考えてはみたが、車を利用しても、その時の母にはそれだけの体力はあるように思えず、諦めざる得なかった。

 退院に当たって、担当医からの話が最後にあった。私は、家に戻ってからのどのように生活していくべきなのかというアドヴァイスを具体的にもらいたかったが、担当医の言葉は一言、「普通に生活してください」というものだった。寝返りもうてない半病人が、どうやったら、普通の生活を営めるというのだろう。私は途方にくれた。

 介護保険については、看護師の方から、入院中に伺っていた。退院までに手続きだけは終えていたが、申請をして実際に適用されるまでは、二月以上かかると言われていたので、すぐにの利用は無理だった。それでも、何とか、介護サービスを行っている介護士の方に連絡を取り、その方の助言を得て、退院までに、介護用ベッドとお風呂場で使用する椅子を用意することができた。介護認定のための査定が済み、認定を待っている間に、介護保険でもリハビリの指導が受けられるということを知った。無論、その申し込みも急いで進めたが、申し込めばすぐに始めてもらえるわけではなく、介護士からの連絡をただひたすら待つしかなかった。
 
 退院直後の母の生活は、ほとんど寝たきりだったといってよいと思う。まだまだ、腹部に不快感もあり、時には痛みもあった。もちろん食事などまともに取れる状態ではなく、当然、体力も全くなかった。退院の時点で母の体重は11キロ減っていた。母が腹部から除去したのは、十二指腸と胆嚢、そして膵頭だったが、そのために新しく連結しなければならない部分はゆうに6箇所以上あった。幹線道路をパイパスして6つの新しい接続が設定されたわけなのだから、最初からスムーズに機能すると言うこと自体が間違いで、様々な、滞りが母を苦しめた。結果、口から入れたものが順調に出口に到達するために様々な障害が生じた。その一つに、排泄があった。トイレには頻繁に通わなければならず、それは、夜中も同じだった。夜を通して眠れるということは皆無だった。私は母のトイレの度に起き、連れ添った。口から入れるものは食べ物だけでは間に合わす、栄養補助食などでカロリーを補給しながら、ただ、ひたすら毎日を送っていた。

 退院後2週間ほど経った10月の初旬、母は風邪の症状を訴えた。風邪は肺炎に繋がる恐れもあり、病院に逆戻りということも十分に危惧され、悪化は絶対に避けたかった。直ぐに大学病院に連れて行くことを考えたが、大学病院の場合、予約のない状態では一日待合室で待たされるということも稀ではなかったため、以前に他の病気でかかっていた内科を訪れることにした。

 医師は診察室に入ってきた母を見るなり、「歩き方を忘れましたね」と言った。そして、ようやく椅子に腰を降ろした母をもう一度立たせると、「ダメですね。筋力が全く衰えています。リハビリをしないと寝たきりになりますよ」と告げた。それから、母の現在の生活について質問をし、今のような生活では、やがて、寝たきりになってしまう可能性もあるといい、これからの指針を与えてくれた。横になって眠ってしまっていてはいけないということ。疲れたら横になってもいいから15分だけにとどめるということ。一刻も早くリハビリの運動指導をしてもらうこと。規則正しい生活をリズムを持ってすることなどだった。幸運なことに、その内科でもリハビリ指導をしていたため、介護士の方に連絡を取り、そこから指導員を派遣してもらえることになった。

 こうして、週3回、1時間弱の母のリハビリ指導が始まったのは、退院後ちょうどひと月を過ぎた10月下旬だった。

 母は頑張った。リハビリの指導をしてもらえるのは、週に3時間にも満たない時間である。それ以外の165時間は母の責任である。私はできるだけの協力をした。毎日、母は、欠かさず指導された運動をこなした。最初はゆっくりとした緩やかな運動であったが、どれも、効果的に、筋力を高めるように考えられているものだった。私は母の生活の管理をした。朝、起きてから眠る時間まで、母を必要以上に休ませなかった。洗濯、炊事、掃除なのど家事もできるだけ協力してもらい、自分でできることはどんなに時間がかかっても一人でさせた。疲れたと言ってベッドに横になると、時間をチェックし、15分後には母の名を呼んだ。まるで、鬼軍曹だった。それだけに飽き足らず、大人の塗り絵、クロスワードパズル、漢字の練習帳などもさせ、5分でいいからと本も読ませた。映画も一本の作品を何度にも分けて一緒に見た。その上、天気さえ良ければ、日に2度散歩に連れ出した。長くなくていいから、玄関まででも外に行こうと手を引いた。

 母は健気に努力してくれた。洗濯バサミをつまむことさえ出来なかった母が、やがて、洗濯バサミでハンガーに吊るした服をヴェランダまで持ってくるようになった。テーブルに座ってまな板を前にし、ゆっくり包丁を使っていた母が、短い間でも流しに立って包丁を使うようになった。水を入れた片手鍋を持てなくて嘆いた母が、500mlのペットボトルに水をいれお花に水をやるようになった。回せなかったドアのノブが回せるようになり、ポストから引き出せなかった新聞が引き出せるようになった。少しずつ、本当に少しずつ、母の力が回復していった。

 体操をする時も、日常の動作をする時も、その時していることに全神経を集中して行うように心がけた。お座なりに等閑(なおざり)にするのではなく、一つ一つのことに心を込め、丁寧にするよう努めた。立ち上がることも、座ることも、歩く一足一足も、上げる腕の一動作も、私は母と一緒になって真剣に取り組んだ。日常何気なくしているそうした一挙手一投足がどんなにたくさんの筋肉とそれを動かすための脳を働かせているのか意識することは、新たな驚きだった。湯呑み一つを持ち上げる動作、箸を持つ動き、歯を磨くためにする一つ一つの動き、どれもがはかりしれないほどの能の機能とそれによって指令される筋肉の動きとの相互作用によってなされている。全てを「意識」することの大切さを、私は母と共に改めて学んだ。リハビリテーションの語源はラテン語で「本来あるべき状態への回復」である。私と母のリハビリテーションの過程は、「本来あるべき状態」への新たな認識の過程だった。

 ある日、近くのスーパーまで母と買い物に出た。外を歩く時は、母は片手に杖を持ち、空いたほうの腕を私に支えられ歩いていた。まだまだ、一人歩きでは転倒の恐れがあり、介助は不可欠だった。店内でふと、母が「あ、そうだ!」と立ち止まった。そして「あのね、ほら、この間言ったお煎餅……」と私の腕を引いた。母の体が人一人分ほど私から前方に離れた。初めて母が自らの歩みを踏んだ一瞬だった。
 母の背中が滲んで見えた。



「母の闘病記  入院・手術・退院」
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183803.html





杏林大学病院
病院長 東原英二様

2007年7月21日


 私(〇〇孝子)は、2007年6月11日、消化器外科に入院し、6月21日、跡見医師執刀のもと、膵頭部腫瘍の手術を受けました。

 まず、何よりも初めに、主治医の皆様、看護に当たって下さっている全ての方々のたゆまぬご助力により、順調に快復に向かっておりますことを心より御礼申し上げます。

 入院当初から、手術、その後の、ICUでの数日、一般病棟での日々を通じ現在に至るまで、温かな心遣いのある看護を受けて参りました。患者の身にとりましては、的確な医学的処置は言うまでございませんが、精神的なサポートも大きな支えとなります。執刀医の跡見医師を始め、四人の主治医の方々、そして、看護婦、看護士の方々の、暖かな励ましや優しい心配りが、どれほど心の安定を保つ支えになりましたことか、とても言葉にはできません。
 ここに改めて御礼申し上げます。

 一般病棟に移りましてからも、担当看護婦の方々には手厚く看護をして頂いておおります。
杏林大学病院の「患者様の立場に立って、温かい心のかよう医療を提供する」という理念そのままの医療が実践されておりますことを、畏敬の念を持って日々感じております。

 ただ、その中において、二つだけ、心痛むことがございました。
どのような言葉で申しましても、「文句」或いは「苦情」に聞こえてしまうことは、致し方ないことであるかもしれませんが、起こったことを責めるのではなく、今後、このようなことがないようにという意味においてご報告させて頂きたく存じます。

 ICUから一般病棟に移りましたのは、6月25日、午後のことでした。手術前におりました消化器外科の4階ではなく、リハビリ病棟の3-1BHCU、3101号室に移されました。そちらの方が、看護の目が届くのでという理由からでした。そこで、一晩過ごしたのですが、その晩の三人の看護婦の方々の態度に大変がっかりさせられました。

 ICUから移ったばかりで、まだ、熱もあり、患部の痛みも強い時でした。身体を冷やすために氷枕等を使用させて頂いたのですが、横腹に置いたそれは、かなり冷たく、体が冷え切ってしまいました。看護婦の方をお呼びし、冷たいのでタオルを巻いて頂けないだろうかとお願い致しますと、碌に返事もなさらず、とても、面倒くさそうに、傍にありました濡れたタオルを放ってよこしました。

 自分で体が自由にできるときではありません。放られたタオルを取ることすら難儀な時です。大変、哀しく、途方に暮れ涙いたしました。

 もう一つは、4階の消化器外科に移ってからのことです。看護に当たって下さったほぼ全員の方が、大変優しく、親身に世話をして下さってきております。
ただ、たった一人、お願いしても、返事もなく、碌に顔も見ず、用便を終えた処置を頼んでも快くして下さらない方がいらっしゃいました。終いには、その方がまた来るのかと思うと、ナースコールを押すのが怖くなり、トイレや痛みも我慢したいように感じました。
 看護婦の方にお願いしなければならないのは、自分でできるのであれば、人の手など患わせたくないような用ばかりです。申し訳なく感じるとともに、自分自身としては、なんとも情けなく感じております。
特にそうした時に、申し上げましたような態度で接せられることは大変辛いものです。
人間ですから、完璧に全てをこなせるわけではないことは、重々、承知しております。でも、プロである以上、そこに誠意のある対応があってしかるべきではないかと思います。

 今日に至るまで、それ以外のことに、何の不満もなく過ごしてきておりますので、以上、申し上げましたことが、なおさら、残念に感じられます。
なにとぞ、建設的意見として、お聞き願えればと存じます。



                                                         
〇〇孝子



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 母が検査入院ということで大学病院に入院したのは、2007年の6月11日のことだった。30代で胆嚢炎の手術を受けて以来、癒着があり、月に一度、10日は寝込むという生活を長年送っていた。もちろん、ここに至るまで様々な医者にはかかってはみていたが、癒着による痛み以上の診断は下されないまま、74歳を迎えていた。

 2007年に入り、いつもの痛みに変化が生じた。母はかかりつけの医師に検査を要求した。初めは、どんなに言っても「癒着だから」と取り合ってもくれなかったが、再三の要求の結果、MRIの検査をある病院で受けさせてもらうことになった。

 ここで、母がもし、医師の言うことを鵜呑みにして、「ああそうですか。やっぱり癒着ですか」と折れていたら、今、母はここにいなかったかもしれない。検査の必要性を認めないと頑固に言い張る医師に自分の“何か変だ”という感覚を信じて訴えたからこその結果だった。

 結局、その検査結果が思わしくなかったため、大学病院に回されることになった。大学病院での検査が始まったのは、2007年の春頃。そこで初めて、膵臓疾患の可能性を示唆された。それから、各種の検査が行われたが、本格的な検査のためにということで、検査入院を要請されたのが6月11日、母の75歳の誕生日の翌日だった。その前の時点で私は日本に行くこと考え、提案もしたが、検査なのでまだ来なくていいと言う両親の言葉に、躊躇しつつも従っていた。

 が、入院したあくる日、12日には病院側から手術の可能性を示唆された。私はそのことを知るなり取る物もとりあえず飛行機に乗った。日本に着いたのが14日の朝、そのまま病院に向かった。母に病状、手術のことを聞いてもはっきりした答えが返ってこない。私は早速担当医からの説明を求めた。担当医は4人おり、その1人が夕刻、病室で待つ私に会いに来てくれた。

 手術の可能性を示唆されたようですがと話し出すと、手術は来週の木曜日21日に決まったということを告げられた。驚嘆してしまった。検査入院ということで病院に入り、手術の可能性を示唆されたところまでは聞いていたが、手術日が決定しているとまでは思っていなかった。患者側への打診というものはないのだろうかと納得できず、担当医に詳しい説明を求めた。私が知りたかったのは、膵臓の腫瘍と言われたがそれは癌なのかどうかということ。手術は絶対にしなければならないのか、他の治療方法はないのかということ。もし、手術をするのであれば、75歳になる母にそれに耐え得るだけの体力があるのかどうかということ。仮に手術をしなかったらどうなるのかということ。手術の成功率はどのぐらいなのかということ。手術をした後、回復する可能性はどのぐらいあるのかということ。などなどだった。医師は忙しく、中々まとまった時間が取れなかった。私は4人の医師の誰でもいいからと捕まえるたびに、以上の質問の投げかけたが、医師たちからは、明確な答えが簡単には得られなかった。「癌なのか」という問いには、「他の場所に移動しましょう」と母の前での対話を避けた。私は母にも癌であるならそうであると知らせて欲しいと頼んだがスムーズには受け入れてもらえず、話は中々進行しなかった。14日から、毎日、私は医師との面会を求め、様々な質問をぶつけた。19日には執刀医からの手術の説明が行われた。その時にはこちらからの質問というのはほとんどできず、説明を拝聴しただけだった。私は自分が納得するまで、手術に同意をしなかった。全ての質問にある程度の答えを得られたのは手術の前日の夜。あくまでもくってかかる私に恐らくあきれ果てただろう担当医は言った。
「開腹のメスを入れる直前まで手術を止めることは出来ますから」と。私は手術の同意書にサインした。

 6月21日、手術の朝。私は母を手術室に送り出した。生きて帰ってくる可能性を医師は明確にしなかった。手術をしても助かる可能性も明確にしなかった。しなかったのではなく、できなかったのだろうと思う。要するに開けてみるしかなかった。ただ一つわかっていたのは、手術をしなければ一年と持たないということだけだった。私は覚悟を決め、母を抱きしめ手術室に送った。そして、9時間以上に及ぶ手術の時間をまんじりともせず待機室で過ごした。6時間を過ぎた頃待機室の電話が鳴った。連絡があった場合には、緊急の決断か何らかの説明などがあるときと告げられていた。私は卒倒しそうになりながら電話を受け、手術室に隣接する部屋に駆けつけた。自分の足がガクガクと震えているのを感じながら、どうすることもできなかった。

 執刀医が現われ、患部を除去できたことを知らされた。母の癌はまるで杏仁豆腐のような色と形をしていた。私は思わず、「助かるのですか」と聞いていた。執刀医は、手術では取るべきと思われるところは取り、患部に化学療法もしました。後は、患者の回復如何ですと、淡々と語った。

 母がICUに移されたという連絡をもらったのは、夜8時近かった。朝9時に母を送り出し、11時間が経とうとしていた。ICUのベッドに横たわる母を見たときに、私は神に感謝した。そして、これからが母と私の闘いだと覚悟を決めた。生きて手術室を出てきてくれた以上、絶対に死なすものかと思った。

 5日をICUで過ごした後、本来の病室である消化器外科病棟に戻る前に、リハビリ病棟へ移された。今思えば、単に病室がなかったがための処置だったようだが、その時にはそれらしい理由を告げられた。が、そこで母は夜間勤務の看護士に邪険な扱いを受けた。術後の高熱に苦しむ母の体にはあちこちに氷嚢が置かれていた。脇の下に置かれた氷嚢があまりにも冷たいため、母は看護師にタオルに包んでくれるよう願い出た。自分でできることであるのなら人に頼みたいことではなかったが、まだ、身動きすらできる状態ではなかった母には選択の余地はなかった。看護師はその母に濡れたタオルを投げてよこした。翌朝、母の元にやって来た私に母は泣きながらそのことを訴えた。私はとにかく、一刻も早く元の病室に移してくれるよう交渉に当たった。その日の夕刻には手術前の病室に戻ることができた。

 次の日、病室を訪れると母の様子が普通ではなかった。反応というものがほとんどなくなっており、私のこともわかっているのかどうかさえ危うかった。術後、高齢者の場合は、せんもう状態に陥る可能性があるとは聞かされていたので、まず、その可能性を疑った。そういう状態であるならそうで、それなりの対処をしなくてはならない。が、様子を聞くために医師を呼んでも中々来てくれず、ようやく現われた時には、母は薬で寝ていたりした。私は母が、せんもう状態なのではないかと聞いたが、一目見て判断できるようなものではなく、様子を見ましょうということで片付けられた。私は、この状態がどのくらい続いた場合危険なのかだけを確認するのが精一杯だった。母のせんもう状態は2日ほどで回復したが、その間の不安というのは計り知れなかった。医師の診断がはっきりしていないため、どう考え、どのように心構えをしたらいいのかわからぬことが何よりも不安にさせた。

 それから二度の入退院を繰り返し9月の末に退院するまで、私は、毎日、時には一日に二度病院に通った。その間、どのぐらい様々な要求を病院側に或いは医師に、看護師にしなければならなかったかわからない。ここに全てを書くことはできないが、黙っていたらどうにもならないことが山のようにあった。

 私は医師や看護師個人を責めているのではない。ほとんどの医師が、看護師が、与えられた状況の中で精一杯に治療に、看護に当たってくれていた。そのことは感謝してもあまりあるほど感謝している。ただ、医療の体制に対する疑問が様々残った。

 一つには医師からの患者側への情報が十分ではないこということ。極端な言い方をすれば、患者は医師に従っているだけのように感じるということ。医師は患者という病人を見ているのではなく、患者の病気のみを診ていると感じるということ。それゆえ、心のケアが置き去りにされがちだということ。患部の治療のみに専心しているため総合的な患者の容態に関する視点が欠如しがちだということ。この問題の打開のためには絶対的な医師間での科を越えた横の繋がりが必要だということ。

 もちろん、それらのことがどれほど大変なことであり、今の医療体制の中で達成することが容易でないことも重々承知しているつもりではある。だから、現段階では、以上のような部分は患者側が補足していかざる得なかった。そのためには、要求し訴えるしかなかった。

 私は、看護師の改善を求める書状を病院長宛てに一度提出した。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183807.html
それは、先にリハビリ病棟で母が経験した看護師からの扱いも含めていた。医師の態度に関しては事務局にその都度陳情に出向いた。ある医師は、入院治療をしている対象以外(母の場合は膵臓癌以外の疾患)の不調に関しての治療をしぶった。それ以外、諸所の要求はその度に声を大にして医師に、看護師に訴えてきた。恐らく、私の名前は病院のブラックリストに載っているに違いないと思う。でも、そんなことはどうでもよかった。母の命がかかっていた。

 退院時に、お伺いしたいことがあるので時間を設けて欲しいと医師に願い出たら、医師は苦りきった顔で、「今度はなんでしょうか?」と聞いてきた。よっぽど、辟易したのだろうと思う。
 退院後の生活についての注意事項を求めたときには、「普通に生活してください」という呆れた答えが返ってきた。私は、これ以上、病院に求めても仕方がないと思い、そのことに関しては何も言わずに母を家に連れて帰った。


『母の闘病記  リハビリ』
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183813.html


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母の病室に飾ったお花、2007年7月3日
もっともっと飾ったのに、写真を撮る気持ちのゆとりなんてなかった・・








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とてもよく知られた詩ですので、ご存知の方も多いかと思います。
もしまだ読んでいらっしゃらない方がいらっしゃいましたら、是非・・・・。

(映像の最後、詩の解説に関して訂正があります)






『最後だとわかっていたなら・・・』

 Norma Cornett Marek (訳:佐川 睦 )


あなたが眠りにつくのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは もっとちゃんとカバーをかけて
神様にその魂を守ってくださるように祈っただろう

あなたがドアを出て行くのを見るのが
最後だとわかっていたら
わたしは あなたを抱きしめて キスをして
そしてまたもう一度呼び寄せて 抱きしめただろう

あなたが喜びに満ちた声をあげるのを聞くのが
最後だとわかっていたら
わたしは その一部始終をビデオにとって
毎日繰り返し見ただろう

あなたは言わなくても わかってくれていたかもしれないけれど
最後だとわかっていたなら
一言だけでもいい・・・「あなたを愛してる」と
わたしは 伝えただろう

たしかにいつも明日はやってくる
でももしそれがわたしの勘違いで
今日で全てが終わるのだとしたら、
わたしは 今日
どんなにあなたを愛しているか 伝えたい

そして わたしたちは 忘れないようにしたい

若い人にも 年老いた人にも
明日は誰にも約束されていないのだということを
愛する人を抱きしめられるのは
今日が最後になるかもしれないことを

明日が来るのを待っているなら
今日でもいいはず
もし明日が来ないとしたら
あなたは今日を後悔するだろうから

微笑みや 抱擁や キスをするための
ほんのちょっとの時間を どうして惜しんだのかと
忙しさを理由に
その人の最後の願いとなってしまったことを
どうして してあげられなかったのかと

だから 今日
あなたの大切な人たちを しっかりと抱きしめよう
そして その人を愛していること
いつでも いつまでも大切な存在だということを
そっと伝えよう

「ごめんね」や「許してね」や「ありがとう」や「気にしないで」を
伝える時を持とう
そうすれば もし明日が来ないとしても
あなたは今日を後悔しないだろうから




Tomorrow Never Comes

Norma Cornett Marek

If I knew it would be the last time that I'd see you fall asleep,
I would tuck you in more tightly, and pray the Lord your soul to keep.
If I knew it would be the last time that I'd see you walk out the door,
I would give you a hug and kiss, and call you back for just one more.

If I knew it would be the last time I'd hear your voice lifted up in praise,
I would tape each word and action, and play them back throughout my days.
If I knew it would be the last time, I would spare an extra minute or two,
To stop and say “I love you,”instead of assuming you know I do.

So just in case tomorrow never comes, and today is all I get,
I'd like to say how much I love you, and I hope we never will forget.
Tomorrow is not promised to anyone, young or old alike,
And today may be the last chance you get to hold your loved one tight.

So if you're waiting for tomorrow, why not do it today?
For if tomorrow never comes, you'll surely regret the day
That you didn't take that extra time for a smile, a hug, or a kiss,
And you were too busy to grant someone, what turned out to be their one last wish.

So hold your loved ones close today and whisper in their ear
That you love them very much, and you'll always hold them dear.
Take time to say "I'm sorry,"... "Please forgive me,"... "thank you" or "it's okay".
And if tomorrow never comes, you'll have no regrets about today.




この詩は作者Norma Cornett Marekさんが、亡くなられた息子さんに捧げた詩だそうです。
1989年発表。

作品および作者についての詳細は以下をご覧ください。
http://www.sanctuarybooks.jp/saigodato/

作者のHPはこちらになります。
http://www.heartwhispers.net/







「日本人は感傷的な世界に遊ぶことを好む」

これは、加藤周一氏の「日本の涙とため息」の中の言葉だ。
「日本の涙とため息」は、1956年2月の『文芸春秋』に掲載された。

心情に訴える物語に日本人はことのほか涙するというのは、外国生活の長くなった私も感じるところではある。
ニュースの報道のあり方ひとつをとっても、英国や豪州に比べて日本の報道の仕方には心情に訴える部分が含まれやすいと感じる。

ドライかウェットかという二者択一で問えば、日本の文化はウェットだということだろう。

「感情生活の上での感傷主義は、ものの考え方の上ではどうやら一切か無かというそういう考え方」になる。そして、この「一切か無主義は敗戦後の日本の言論に実に典型的にあらわられている」と加藤氏は言う。
(この一切はAllのことだと思われるので、All or Nothing=一切か無ということだと思う)

例えば、「戦争中の何でも不都合なことがあれば『それでも日本人か』といういった時代のあとに、何でも不合理なことがあれば『日本的』だという時代がきた」

戦争中は日本が「一切」であり、外国が「無」であった。が、戦後「無」でないことをが判明した瞬間に、「一切」となった。解釈が、それぞれに良い点も悪い点もあるというふうにはならず、極端に走るということだ。

氏は続ける。

敗戦後日本は民主化する必要があった。よって人権宣言と民主主義の範を西洋諸国にとるのは当然ではあったが、だからと言って、西洋諸国では万事が日本でよりうまくいっていると考えるのは当然ではないはずだったのだがそうはならなかった。

「西欧は先進国である。日本は後進国である。故に日本は西欧においつかねばならぬ、彼処には秩序と美と、合理主義と個人主義、民主主義と資本主義、その他たくさんの主義をあげて一切がある」ということになってしまったというわけだ。


次に氏は、「日本には一種の集団的遡行性記憶喪失症とでもいう他ない現象がある」と述べる。

遡行性記憶喪失症というのは、例えば、酔っ払って自動車にぶつかり、しばらく意識を失ってから気がついて家に帰ったというようなことがあった場合、記憶が一部喪失する症状を言う。
会社から出て飲み屋に行ったところまでは覚えているが、飲み屋から出てどの通りで車にはねられたかわからない。症状がひどければ、飲み屋に行ったことすら覚えていない。もっとひどければ、その日のことはまったく覚えておらず、思い出せるのはその前の日までということになったりする。
脳に対して打撃があると、その瞬間からみて近い方の記憶から失われていく。そういう現象を、遡行性記憶喪失症と呼び、これは一般的には個人的な問題だが、時と場合によっては集団的におこることがあるのではないか、と氏は言う。

「敗戦の『ショック』があった。そこで『一億総ざんげ』ということがいわれたが、これは戦争の記憶のなかでもいちばん大事な戦争責任者の名前を忘れるということであった。つまり遡行性記憶喪失症の最初のあらわれである。日本のように高度に組織された中央集権的国家に特定の戦争責任者がなかったなどということは御伽噺にすぎない。戦争責任者はいなかったから『一億』ということばが出てきたのではなく、忘れられたから一億の責任ということになったのである。なにも戦争責任者にかぎらない、たとえば勅語のおかげで戦争が終わったときには、勅語のおかげで戦争のはじまったことは忘れているから、陛下のありがたさが身に沁みるのだ。アメリカ人が日本の主人公になったときには、『鬼畜米英』は『撃ちてしやまん』は忘れているから、風俗的、学問的にアメリカ人を模範とすることが実にたのしく、にぎにぎしい。国の民主化が問題になったときには、自由主義が日本の国体に反していたはずだということは忘れているから、いわゆる『自由』をまもるためには身を投げ打って共産主義征伐にも乗り出しかねない気迫が漲ってくる。-それが敗戦のショックというもので、そのためにおこった記憶喪失症の型は、個人が酔っ払った後で自動車にはねられたときとよく似ているだろう」

その後の十年は、小刻みのショックの連続のような按排で、一見複雑に思えるが、確実なことは、敗戦のショック以来国全体としてもの覚えが悪くなったということだと結論する。

では「涙と溜息の国、日本の日常生活が暗いかというと、それほど暗くはない。結構楽しくやっているという面もある。そのたのしさがその日暮しの先のないものだという感じはあるが、それは何も日本にかぎった話ではない」

だが、こうした状態にも弊害が伴う。

「その第一は、文化は、持続的なものであるからやたらにもの忘れをする社会に、ほんとうの文化は育たないということである。その第二は、過去を忘れる社会は、また未来をも忘れるということ、別の言葉でえば、そのために未来を楽天的に受け取ることはできるだろうが、未来について正確なみとおしをもつのぞみはないということである」

「先のことは個人的にもあてにならないが、社会としても全くあてにならないだろう。そういうときに朗らかに暮らすためには、先のことを一切考えないより他に手がないということを、どうしても朗らかに暮らす必要のある人たち、即ち、日本の青年は、いわば本能的に知っているのだ」

「未来については、たとえばどれほど不安な未来であろうと、みとおしがなければならない。しかし未来の見とおしは、忘れられた過去の分析からひきだされないとしたら、一体どこからひきだされるのか」

「本能的には感傷的で、意識的に徹底した現実主義者である、一種の型の専門家ができあがるわけだ」

「涙と溜息に養われた魂は、理想主義と無慈悲な権力政治との現実をならべて、しかも自分の考えを貫くことができず、感傷的でない理想主義を想像することもできない」

「しかし、感傷的でない理想主義というものは、現実にあり、しかもそれが先の見通しを可能にするものなのだ。先の見とおしをもつということは、すでにあった事実のなかからある一つの方向をもった流れをみつけだすということである。その操作は事実についての情報を集めることだけでは完結しない、事実の集積に対する精神の側からの積極的な働きかけを必要とする。その精神の側からの現実に対する積極的なはたらきかけこそは、感傷主義とはなんの関係もない本来の意味での理想主義であろう。理想主義がなければ現実主義もない。理想主義なしにあり得るのは、せいぜ大きな見とおしのない小手先のかけ引きにすぎない」

この論文を読んで、それこそため息をついた。

この論文が書かれたのは1956年。

日本は少しも変わっていない。




加藤周一




加藤藤 周一(かとう しゅういち、1919年(大正8年)9月19日 - 2008年(平成20年)12月5日)は日本の評論家。医学博士。専門は内科学、血液学。

上智大学教授、エール大学講師、ブラウン大学講師、ベルリン自由大学、ミュンヘン大学客員教授、ブリティッシュコロンビア大学教授、立命館大学国際関係学部客員教授、立命館大学国際平和ミュージアム館長を歴任。九条の会の呼びかけ人の1人。






Youtubeで見つけました。








すべての人の目からあらゆる涙をぬぐい去ることが私の願いである。


私には世界に教えることは何もありません。
真実や非暴力はあの丘と同じくらい昔からあるのです。


束縛があるからこそ私は飛べるのだ。
悲しみがあるからこそ高く舞い上がれるのだ。
逆境があるからこそ私は走れるのだ。


自分が行動したことすべては取るに足らないことかもしれない。
しかし、行動したというそのことが重要なのである。


暴力によって得られた勝利は敗北に等しい。
一瞬でしかないのだから。


弱いものほど相手を許すことができない。
許すということは強さの証だ。


もし、ただ一人の人間が最高の愛を成就するならば
それは数百万の人々の憎しみを打ち消すに十分である。


「目には目を」という考え方では世界中の目をつぶしてしまうことになる。


世界の不幸や誤解の四分の三は敵の懐に入り彼らの立場を理解したら消え去るであろう。


握り拳と握手はできない。


明日死ぬと思って生きなさい。
永遠に生きると思って学びなさい。


あなたの夢は何か、あなたの目的とするものは何か。
それさえしっかり持っているならば必ずや道は開かれるだろう。






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