思いがめぐる

2012年08月




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Be Careful

Be careful of your thoughts
For your thoughts become your words.

Be careful of your words
For your words become your actions.

Be careful of your actions
For your actions become your habits.

Be careful of your habits
For your habits become your character.

Be careful of your character
For your character becomes your destiny.



思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。

言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。

行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。

性格に気をつけなさい。それはいつか、あなたの運命になるから。



☆☆☆



心に抱いている思いが言葉になり、その言葉が振る舞いとして表れる。
その振る舞いが習慣となり、それがやがてしっかりと身につく。
そしてその身につけたものが、生きる道を定めていく。
心して生きたいと思う。




思いに気をつけなさい。それがいつか言葉に出るから。

言葉に気をつけなさい。それはいつか行いに表れるから。

行いに気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。

習慣に気をつけなさい。それはいつか身についてしまうから。

そして身についたものが生きる道を定めるのだから。

(ygj)





初めはマザー・テレサの言葉として知りました。
調べているうちに、出典が確定できなくなりました。
英語のサイトの方では、「Unknown」となっていました。








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人は死に対して言葉を失う。

言葉を失うということはそこで思考が止まってしまうことなのかもしれない。
人の一生は生から始まり、死へと向かう。
生と共に生まれる思いとそこから湧き上がる言葉は果てしない。
生きている間、人々は多くの思いと言葉に満たされていく。
そして、死によって、その築き上げたものが、プツリと途絶える。

無くなってしまったものに向ける言葉を私は持ち合わせていない。
死者に向ける言葉はあっても、死に向ける言葉は見出すことができない。


母の妹である叔母が2011年5月29日に他界した。
間質性肺炎。
診断されてから一年に満たなかった。
母より5つ年下。昭和12年生まれ。

叔母の人生をずっと思い起こしている。
想い出を何度も何度も反芻している。
そこにあるたくさんの思いと言葉を求めて・・・。

(2011年6月8日記)










大学の頃に講義を受けた柳父章氏の著作『翻訳語成立事情』を読み直している。

この本では10の単語が取り上げられ、その翻訳の歴史が紐解かれながら新造語として日本語に入ってきたことばの分析が試みられている。
最初の6つは、「社会」「個人」「近代」「美」「恋愛」「存在」
あとの4つは、「自然」「権利」「自由」「彼」
である。

最初の6つの言葉は、どれも幕末から明治時代にかけて翻訳のために造られた新造語、或いは、実質的に新造語に等しい言葉だ。
あとの4つは、日本語としての歴史を持ち、日常語の中でも使われてきた言葉だが、翻訳語として新しい意味を与えられた語である。

「社会」はsocietyの翻訳語だ。
私自身が「社会」と言う言葉に最初に出会ったのはいつだろう?
幼い頃、父や母の口から聞こえてきた言葉として聞いていたのかもしれないし、少なくともテレビのニュースで使われていたのは耳にしていたのだろうと思う。自分の語彙として意識したのは、もしかしたら学校での「社会科」という教科名としてかもしれない。

「社会」という言葉は、明治10年代の頃以降盛んに使われるようになったと書かれている。
ということは、約一世紀ちょっとの歴史を持つわけだ。
だが、その翻訳は決して容易いものではなかったらしい。
なぜなら、それは、第一にそれに対応する言葉が日本語になかったからだと柳父氏は言い切っている。そして、言葉がなかったということは、societyという言葉に対応するような現実が日本になかったということでもあると。

「1867年、ヘボン式ローマ字表記で知られるヘボンの『和英語林集成』を見るとsocietyの訳語が「仲間、組、連中、社中」となっている。
Societyを辞書で引くと確かに上の訳のような意味はあるが、それ以外に、「個人の集合体」という意味がある。
Societyの意味を大まかに言うと、狭い範囲での人間関係を表す場合と、広い範囲での人間関係を表す場合とがあるわけだ。そして、その基本となる考えは、個人が集まったものということ、言い換えれば、個人が単位となるわけである。」

問題はここにもある。この時にはまだ「個人」という言葉、つまり、individualの訳語もなかったのである。
当時、日本には、「国」や「藩」という言葉はあった。だが、広い範囲での人間の交わりを表す個人を単位とするsocietyに匹敵する言葉はなかった。「国」や「藩」では人々は身分として存在しているのであって、個人としてではなかった。

では、「個人」という翻訳語はどのように成立していったのか。

「幕末の頃日本でも出回っていた各種の「英華字典」では、individualは「単、独、単一個」とされている。これがやがて、「一個人」という言葉が当て られるようになるのだが、このindividualという言葉は、societyという言葉がわかりにくかったのと同様にわかりにくい言葉であった。」当然 と言えば当然で、この二つの言葉は密接に関りあう意味の言葉だからだ。

Individualは、社会に対しての究極的な単位として一人でいる人間というような意味合いを持つ。

日本には社会も個人もなかった。
などというと多くの日本人から総すかんを食らいそうだが、日本人は、或いは、日本語は、このように新しい考え方を導入するために新しい言葉が作り出してきたわけである。



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スーパーでお買い物をしていて何気なしにダーリンに呼びかけた。

「パパ、これも買って行く?」

ダーリンは私の手元を見て「今日はいいんじゃないの」と答えた後、苦笑しながら言った。

「僕は(日本の文化も)わかっているから、
どうしてyumiが僕を『パパ』と呼ぶかは理解できるけどね、
もし周りで聞いている人がいたら誤解するよ、英語で話している場合は・・・」

一瞬、立ち止まりダーリンの言ったことを咀嚼した後、あはははと笑ってしまった。

「そうだね~、ごめん、全然意識してなかった」



今更言うまでもないが、
日本語では家族間での呼称は一番幼少のものを視点として決められる。
サザエさん一家をお借りしておさらい。

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サザエさん一家は波平さんとフネさんに三人の子供があり、
そこにサザエさんの夫のマスオさんと子供のタラちゃんという7人家族。
家族全員が集まった場合それぞれの呼び方は、
家族の最年少者であるタラちゃんの視点になる。

タラちゃんが、

「あれ取ってください」と棚の上の本を指差して言ったとする。

お母さんであるサザエさんは、

「ほら、ワカメ、タラちゃんが取ってって言ってるのよ取ってあげなさい」
とワカメちゃんに言い、

「タラちゃん、待っててね、今、お姉ちゃんが取ってくれるわよ」
とタラちゃんに言う。

「だめよ、お母さん、今手が離せないの。お兄ちゃんに取ってもらって」

とワカメちゃんが答えると、それを聞いてサザエさんは、

「カツオ、どこにいるの?タラちゃんに本を取ってあげてくれない」

「今、だめだよ。トイレに入っているんだ~」

「しょうがないわね~。お母さん、お母さん、ちょっとタラちゃんに本を取ってあげてくれない?
タラちゃん、待っててね~、今おばあちゃんが今取ってくれるわよ」
とお母さんのフネさんに頼む。

おばあちゃんであるフネさんはやってきて取ってあげようとするが届かない。

「あら、だめだよ。私じゃ届かない。マスオさん、すまないけど取ってくれるかしら?
タラちゃん、今パパが取ってくれるわよ」

そこで新聞を読んでいた波平さんがすくっと立ち上がり本を取ってタラちゃんに渡す。
呼ばれてやってきたマスオさんは、

「あ、お父さんすみません。タラちゃんよかったね、おじいちゃんが取ってくれて」

ということになる。



日本語の家族間の呼称は誰を交えて話しているかによって
同じ人物が違った呼称で呼ばれることになる。
家族間以外でもこの呼称は拡大され、

例えば、

サザエさんは外では多くの方にタラちゃんのママと呼ばれる。
タラちゃんのお友達ももちろんサザエさんのことをタラちゃんのママ、
或いは、タラちゃんのおばさんと呼ぶ。

ワカメちゃんが道で小さな子が泣いているのをみかけたとする。
ワカメちゃんはその子に向かってたぶんこんな風に話しかける。
「どうしたのお家がわからないの?お姉ちゃんが連れて行ってあげようか?」

女性ならまだ20代のうちに小さな子供から「おばさん」と声をかけられて
顔を顰めた経験は一度ぐらいはあるかもしれない。
まだしもお母さんになっていればさほど抵抗がないのかもしれないが、
独身のうちだと慌てて「おばさんじゃないのお姉さんよ」と言いなおさせたりする。

ある程度のお年を召した女性が若いおまわりさんなどに「おばあちゃん」などと声をかけられ
「私はあんたのおばあちゃんじゃない」と憤慨したりするなんてこともあったりする。


で、冒頭に戻る。
私がダーリンを「パパ」と呼ぶのは日本語では違和感がないが、
英語で話している場合、「え、どういう関係?」と不審げな視線を投げかけられても仕方がない。

英語を話す場合は、私はほとんどの場合「yumi」だ。
息子の友人にも名前で呼ばれるし、ダーリンの友人にも「yumi」と呼ばれる。

が、

日本に帰ると私は「奥さん」になり
「○○くんのお母さんになり」
「○○さんの娘さん」になり、
時には「おばさん」にもなる。
いつでも誰かとの関係での呼称で呼ばれることになる。

日本語は、話す相手との関係によって呼び方が七変化する(日本語だけではないが)
欧語族ではそういう習慣はない。

その違いだけを考えてみても、
自分という「個」の意識、認識に違いが出てくるかな?と感じる。







グラフで見る世界の核実験 1945年ー2014年 



世界各国の核実験回数1945年から2014年






【世界の核実験地図】 1945年から98年に行われた核実験の様子を世界地図上で動画に再現。約15分弱。









核実験の一覧

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A0%B8%E5%AE%9F%E9%A8%93%E3%81%AE%E4%B8%80%E8%A6%A7





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核実験または実戦使用が行われた地点の一覧。実施した国別に色分けしてある。黄緑色で塗られた国は、他国によって核実験または実戦使用が行われたことを示す。疑問符が付された灰色の点は、ヴェラ事象を示す。北朝鮮による核実験は示されていない。



アメリカ合衆国の早期警戒衛星ヴェラは1979年9月22日にインド洋上で閃光と電磁パルスを観測した。これは南アフリカとイスラエルによる核実験との推測が有力となっている。





核実験(かくじっけん)とは、核爆弾の新たな開発や性能維持を確認したり維持技術を確立するために実験的に核爆弾を爆発させることを指す。1945年から約半世紀の間に2379回(その内大気圏内は502回)の核実験が各国で行われた。そのエネルギーはTNT換算で530メガトン(大気圏内は440メガトン)でこれは広島へ投下されたリトルボーイの3万5千発以上に相当する。














「ねぇ、ママ、もし、今日が人生最後の一日だったら、どんな風に過ごしたい?」

ようやく春の陽射しが感じられ始めるようになった日曜日の朝。

息子は朝食の準備をしている。

朝の一仕事を終えシャワーを浴びた私は淹れたてのコーヒーを前にテーブルに腰を降ろしていた。

あとふた月もすればティーンエージャーの仲間入りをする息子は、涼しい顔でシリアルをボールに入れている。

その横顔を眺めながら、突然の問いかけに素直に心を満たした最後の一日の希みを告げた。

「そうだね。それがいいね、ママ」

優しい声が返ってきた。



                            - ある春の朝の思い出 -


coffee








バトルが始まったのは夜中の3時だった。
バチっという身体を叩く音で眼が覚めた。

「〇×△■!」

ダーリンの罵声。
あは~ん、どうやらあいつだな。と思い目を開く。

「ダーリン、大丈夫?・・・・・蚊?」

「Yep!」

急いで上掛けを頭の上まで引っ張る。
理由1、蚊からの防御 2、点灯する部屋の電気からの避難

たかが蚊と侮るなかれ。スペインの蚊、或いは、バレンシアの蚊、かなりの強敵だ。
最初は虫刺されの一つや二つと思ったが、と~んでもない。一回喰われたら、腫れ上がってしまう。その上、その痒みといったら、ただ事ではない。それが一週間以上続く。
去年の夏は初めてだったので、様子がわからず、散々な目に遭った。
両手に刺された時など、グローブのようになってしまった。

というわけで、今年は細心の注意を払っている。
アレルギー体質のダーリンの場合、私の症状を上回る。必死になって当然だ。

20分ほど、ダーリンと蚊の攻防戦は続いたが、敵も逃げ足が速く、ダーリンは敗退気味。
と、何を思ったか、ダーリン、突然寝室を出て行った。もちろん、蚊を逃がさないためしっかりドアは閉めていく。

煌々と電気のついた寝室で上掛けを被って待つこと数分。
帰って来ない!

え!・・・・
私と蚊を残したまま、どっかへ行っちゃったの?とおそるおそる立ち上がると、ダーリンが戻ってきた。
右手に蠅叩き、左手に虫のスプレーを所持している。
そうか、いよいよ本格戦だなと思ったので、喉も渇いた私は、ダーリンを寝室に残してキッチンに向かった。

寝室からは時折、罵声とどこかを叩く音、スプレーの音が聞こえてくる。

「×△■□&%!!!」

かなりの叫び。
これは痛みが伴っているなと思ったが、今救援に行っても何もできないので、じっと待つ。

更に20分ほど経って、ダーリンは寝室から出てきた。
後ろ手にドアを閉める。
むむむ。どうやら撤退を決めたらしい。

傷ついた戦士には休養が必要だ。

「大丈夫?どこかぶつけたの?」

「うん。足の指・・・」

かなり不機嫌。
こう言う時には、うるさく付きまとってはいけない。

「目が覚めちゃったね」

「・・・む・・」

ドタバタ騒ぎが聞こえたのか、息子も起きてきた。

朝、4時、家族一同キッチンに会し、苦笑い。


結局、その後、ダーリンと私はリビングのソファで寝た。

翌朝、

「ゆうべは大変だったね。ダーリン、足は大丈夫?」

ダーリンは、足を出して指を指差した。

「折れたと思う・・・」

あちゃ~!
ダーリンの右足の薬指?は色が変わっていた・・・・。

完敗だ。




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夢を見た。

ダーリンがもう愛していないと言って、離婚の話に至った。

もちろん険悪になり、

「息子は私が面倒見ます」

と言って目が覚めた。

横を見たらダーリンがいたので、まずぶってから、夢の説明をした。


「でね、最後に『息子は・・・』と言って目が覚めたの」

と言うと、ダーリンは爆笑。

そして、急いで息子に夢の話の報告に行った。

しばらくして聞こえてきたのが、二人の爆笑。

「ママ~、それ、間違いでしょ。最後の台詞は『息子が私の面倒を見ます』だよね・・・」

(--#)どうせ、私は役立たず・・・





 デスクに戻り、先ほど閉まったリストをファイルから取り出す。『被害者の特徴』のページを開き、リストの太文字で書かれた部分をもう一度目で追った。

・真面目な完璧主義者である。
・劣等感が強い。
・向上心がある。
・責任感が強い。
・問題が起こった時にまず自分に非があると思う。
・自分の欲求より他人の欲求を優先する。
・波風を立てるより自分が我慢することを選ぶ。
・相手の立場になって考えてみようとする。
・正当な欲求や要求を自分の我侭だと思い込む傾向がある。
・自分の感覚や感情を正しいと確信できない。
・拒まれたり嫌われたりすることを恐れるため自己主張ができない。
・感情の表現の仕方が上手ではない。
・小さな幸せで大きな満足を持つ。

 ため息が漏れた。
このリストに並べられていることも、加害者の特徴に並べられていたことと同じように、誰しもが少しは思い当たることなのかもしれなかったが、あまりにも一つ一つが当て嵌まるように感じられた。
 最初に目を通した時に、一番心をついたのは、「自分の感覚や感情を正しいと確信できない」という一文だった。自分が信じられない。自分の感覚を信頼できない。全てはそこから始まったような気がした。
 出会いの瞬間感じた嫌悪を沙耶は否定した。その後に感じた様々な思いもまた、自分自身で打ち消してきていた。
 自分の感覚や感情に確信が持てない。自分の要望は我侭ではないかと疑う。ひとえに自分と言うものに全く自信がないからだった。だから当然、何か問題が起こると悪いのは自分ではないかと思う。やっぱり自分は駄目なのだ、だからこんな風になったのだと考える。駄目な自分を好む人がいるとは思えず、ましてや自分自身が自分を全く好きになれない。こんな面白くない奴なのだから好かれなくとも当然だが、せめて嫌われたくない拒まれたくないと切に願う。結果、人の顔色を窺う。嫌われたくないからそれによって攻撃されたくないからだ。できるだけ波風は立てないように努める。波紋をもたらすぐらいなら自分が我慢をした方が楽だと感じる。当然、自分の欲求より他人の欲求を優先する。自分を守るためにもいつでも相手の立場に立って考えようと心を砕く。そのあまり、自己主張などは二の次になる。
 全ては自信のなさ、劣等感から来ていた。人よりも劣っているという意識から沙耶はどうしても逃れられないでいた。
 次の一文に目を落とす。
『感情の表現の仕方が上手ではない』
 そして、
『小さな幸せで大きな満足を持つ』
 感情の表現の仕方が下手で、ささやかな優しささえ縋り付きたくなるほど嬉しく感じる。その通りだった。何故って・・・・・・・・あまりにも当たり前だった。感情を素直に表現することなど沙耶の過去において許されることではなかった。いつでも要求されていたのは顔色を変えず黙って耐えることだった。そして、優しさや幸せは・・・・・・。いつも手の平からすぐに零れ落ちてしまう危ういものでしかなく、決して保証も永続もしないものだった。だからこそ手に触れたかもしれないと思った途端に縋り付いた。
 沙耶は急いで上を向いた。盛り上がる涙が耳に伝わった。

 

(『沙耶の場合』 第18章より)

https://www.amazon.co.jp/dp/B00KCSBYX2

https://www.amazon.co.jp/dp/B00HONBQXQ



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「何ていう映画?」
 沙耶は聞いた。
「『愛がこわれるとき』というの。ジュリア・ロバーツが出ているわ」
ジュリア・ロバーツは知っていたがその作品は聞いたことがなかった。が、仮に知っていたとしてもストーリーを知っていれば見ていなかったかもしれなかった。
「暴力的な夫から逃げ出す妻といういわゆるハリウッド映画だけれど、夫の特異な性格みたいなものは比較的うまく描かれていたわ。そんな風にして少しずつ知識を増やしていくうちに、マリアンヌの夫のような人というのは結構いるのだということ、必ずしも男性に限ったことではないということ、そして、そういう人たちには共通した特徴というものがあるのだということを知るようになった。当たり前だけれど、そういう人にはみな同じ傾向があるのよね。大分前にどこかでそれがリストにされたようなものを見つけたの」
ミッシェルは上体を起こし机の引き出しを開けると、中に置いてあった紙を引っ張り出した。
「それが、これよ」

 沙耶は手渡された用紙に目を落とした。
一番上に『加害者の特徴』とあり、その下に文章が並んでいた。いくつかの特徴が列挙され、黒丸から始まるそれぞれの最初の部分は太文字で記されている。沙耶はまず太字の部分に目を通した。

・自分は他人より優れており、特別だと思っている。
・褒められないと不機嫌になる。
・批判に対して異常に過敏である。
・周囲からの称賛、好意、是認或いは特別扱いを求める。

 最初のページにあった太字の部分に目を通し終え、沙耶は顔を上げた。心臓の鼓動が高くなっていた。
「太字で書かれたところだけでもざっと目を通してみて」
グラスを傾けながらミッシェルが言った。
 沙耶は頷いた。

・嫉妬心が異常に強い。
・人の行動を制限、支配しようとする。
・嘘をつくことに罪悪感はなく、時として嘘をついているという自覚もない。
・教えを請うのを嫌う。或いは恥だと思っている。
・敗北を受け入れられない。
・ウチの顔と、ソトの顔の二面性がある。
・他人は自分のために存在するので、価値判断の基準は利用価値である。
・他人との共感、他の人の立場に立って考えるという想像力がない。
・常に正しいのは自分なので、話し合いはできない。
・全ての関心は自分だけに向いているため、人のことには全く関心がない。
・人を愛することができない。

 鼓動が胸に痛いように響いていた。
まるで、アランを間近で観察していた誰かが、その人となりを描写したかのようだった。うまく言葉にできずに獏としていた思いが客観的な表現でそこにあった。

 

(『沙耶の場合』第17章より)

https://www.amazon.co.jp/dp/B00KCSBYX2

https://www.amazon.co.jp/dp/B00HONBQXQ



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どなたの作品なのか存じ上げないのですが、ある日、FBにアップされていました。



the best things in life are free






生きていくのに大事なことってお金はかからないのですよね。


優しいハグも

笑顔も

友達との繋がりも

甘いキッスも

家族も

ぐっすり眠ることも

愛することも

思いっきり笑うことも

そして、

素敵な思い出も





大事に大事にしたいですね。





2012年6月3日、左手首が麻痺した。
それから8週間、まったく動かすことができなかった。
ちょうどお化けの手つきをまねた時のように手首をだらんと垂れ下げた様子を思い浮かべてほしい。
その状態から、自分の意志ではびくとも動かせなかった。
8週間目の朝、ようやくほんのほんの少し動かすことができた。



         
  ..。o○o。.★.。o○o。.☆.。o○o。.★.。o○o。.☆.。o○o。.★.。o○o。.☆




久しぶりの実家。

両親は既に床についてしまっており、その晩(2012年6月2日)、一人キッチンでグラスを傾けていた。
何かつまむものをと冷蔵庫からなにやらとり出し、つまんでいたのまでは覚えているのだが、気がつくと、キッチンのフロアー(と言ってもカーペットの上です)で寝てしまっていた。

このままではいけないと、のそのそと起き上がり、左手の痺れに気がついた。
夜中の1時過ぎぐらいだったと思う。

長い間正座をしていて足が痺れたような感覚だった。
それでも、その時には、手を身体の下にして眠ってしまっていたのだろうぐらいにしか思わず、歯磨きを済ませた後、改めて布団に横になった。

時差ぼけもあったのかもしれない。ふっと目覚めると、4時だった。
左手はと意識してみると、眠った時とまったく変化がなかった。
これは普通じゃないと焦りを感じた瞬間だった。

最初に思ったのは脳の異常だった。もしそうであるなら、重病である可能性もある。
さまざまな思いが脳裏を駆け巡った。
被曝?という懸念も一瞬頭を過ぎった。だが、1日に日本について、翌日にというのはあまりにも急激だ。
それも、眠っていた数時間の間に起こったことだ。
とにかく落ち着かなければと自分に言い聞かせた。

その日(3日)は日曜日だった。
救急に行かない限り、医者はどこも閉まっている。
痛みがあるわけではなく、眩暈がするなどの脳の異常も自覚できない。
翌日まで待つことにした。

開けて4日、専門医に直接とも思ったが、大きな病院に行くには紹介状が必要なのはわかっていたので、とりあえず両親かかりつけの内科に行った。
症状を告げると、医師もまず、脳内の異常を懸念したらしく、それ相応のテストをした。
脳ではないらしいと判断した後、心臓の異常も問診され、診察された。
が、その可能性もとりあえず、除去したようだった。

神経の部分損傷だと思われるのでと神経内科を受診するように言われ病院を紹介された。
予約が取れたのは6月8日金曜日だった。
一応、脳の障害の可能性は否定されたものの、痺れたまままったく動かせない手首は本当に不安だった。

8日金曜日、不安な思いで、日赤の神経内科に赴いた。
診察室に入る前に看護師さんからの問診があった。症状と起こった経過を説明する。
ほどなくして診察室に呼ばれた。
自己紹介をして椅子に腰を降ろす。
「どうしましたか?」と医師が聞いてきた。
「先ほど、看護師さんに説明致しましたが、もう一度自分の口で説明した方がいいのでしょうか?」と尋ねる。
頷かれたので、初めからことの事情を説明をした。

医師は何度なく、どんな態勢で寝たのか、それはどのぐらいの時間だったのかと質問したが、それに対しては明確に答えることはできなかった。
その後、全身に渡りさまざまな診察をした。そして、最終的に橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)であろうと診断した。

「その症状が起きたときの様子がもう少しはっきりわかりますと、確かにそうであると確定できるのですが、伺った状況から、まず間違いないでしょう」ということだった。
では脳による障害ではないのですねということを再度確認し、神経の損傷ですという答えをもらい、ようやく胸をなでおろした。

「治るのでしょうか?」

「はい。治りますが、明日あさってというわけにはいきません」

「どうすればいいのでしょうか?」

「特にできることは・・ありません。自然治癒を待つだけです」

診察はそれで終わりだった。
無罪放免の気持ちではあった。
不自由な左手は自然治癒が完了するまでに残されたが、脳に異常があるわけではなく、時間がかかってもいつかは治癒する。その段階で、それ以上の朗報はなかったと思う。


無題



それから、左手の麻痺との本格的なおつきあいが始まった。
機能が快復するまでは、その状況と同居していくしかない。

当然のことながら、不自由なことは山のようにあった。
あまりにもあからさまにわかることだが、当然、PCの入力は至難の業になった。
当分、ピアノの練習はできないな。とさして重要でもないことが頭に浮かんだりした。

気づいた不自由さをアトランダムに羅列してみる。
服の脱ぎ着。片手で大丈夫でしょ?と思うかもしれないがそうでもなかった。
服についているボタンやファスナー、紐などは言うまでもない。

洗面。歯磨きは何とかなるのだが、デンタルフロスは使えなかった。
顔も片手でしか洗えない。
髪を結んだり上げたりも難しくなった。
めがねのグラスを拭くこと、コンタクトを扱うのも大変になった。

家事一般は言うまでもなかった。
包丁を使うのは右手であってもモノを切るのは両手の作業だ。それは、洗い物をするのでも同じ。
洗濯物を干したり畳んだりというのもとても大変になった。
掃除はモップや箒だけなら何とかなるが、雑巾を絞ったりとなるとお手上げだった。

怪我をして使えないという経験はこれまでにもあったが、動かせないというのは初めてのことだった。
自分の意思で身体を動かせないということがこれほど辛いことだとは考えたこともないことだった。
なんでもなく当たり前にできていたことが、突然不可能になった時、人は失った機能の価値を再認識する。
あまりにも当たり前のことを、再認識させられた。

そうした日常の不自由さの他にも見えてきたものがあった。
それは、通常の身体の機能を失うとことによって、他人から受ける新しい視線だった。

ぐるぐる巻きの包帯のみるからに怪我である場合と、見た目は大丈夫そうなのに普通に機能していない場合というのには大きな差がある。
治らない障害?と認識された時点で、その障害はその人の一部となるようだ。
見るからに怪我であれば、大丈夫ですか?という声になるところが、ぎこちない沈黙となるような違いだ。

コンビニで水を買い、支払いをしようをするためにお財布を開いた。
人の動きにはある一定のリズムがある。例えば、お財布からお金を取り出し、レジに置くという動作。
人によりいくらかの時間に差こそあれ、大体考えうる時間内で一定のリズムを持って事が運ぶ。
そのリズムが必要以上に乱れると、「あれ?」という感覚がいつも以上の観察を促す。
そして、そこに普通ではない身体の動きを見てとると、例えば、憐れみに、例えば、苛立ちに、例えば、一瞬の戸惑いになって現れる

こんな小さな障害で、わかったようなつもりになっているわけでは決してない。
だが、実際に体験しなければ決してわからなかったようなこと。
そのほんの一片を体験させて頂いている。



橈骨神経麻痺(とうこつしんけいまひ)
手や手首の運動・感覚を司る橈骨神経に障害が生じることを指します。
手が動かなくなるなどの症状が出現するようになります。

橈骨神経は脊髄に端を発し、上腕の外側、前腕、指先の筋肉に至るまで広く走行しています。
長時間上腕部位に圧迫をかけることで発症することもあるため、「土曜夜の麻痺」や「腕枕症候群」といった通称名も存在します。
アルコールを飲んで眠りこけてしまった場合に発症することもあります。
(はい。私がこれでした






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http://www.jimmin.com/htmldoc/145001.htm
以下『人民新聞オンライン』より(2012年6月19日)


【何も変わらなかった日本と原子力村!】

野田首相が、大飯原発再稼働を強行する構えだ。昨年12月、世界の物笑いになった「事故収束宣言」を継ぐ愚行といえる。そもそも事故原発は、メルトダウンした燃料がどこにあるかも不明(1~3号機)。4号機の使用済み核燃料プールはいつ崩壊しても不思議でない状態で、万が一崩壊すれば、「その被害は想像すらできない」と小出裕章さんは警告する。

再稼働が目前に迫った今、あらためて小出裕章さんに、①福島第1原発の現状、②原発事故1年を経た総括、③放射能無害化技術の現状、④脱原発運動、についてインタビューした。核災害によってあれほどの惨事を招きながら、まったく変わらない「原子力村」。彼らがいまだに支配を維持する政府に対し、「凄い国だと思う」とため息をついた。(文責・編集部)



【溶け落ちた核燃料がどこにあるかも不明な現状】

京大原子炉実験所 小出裕章

──事故原子炉の状態は? 

小出…1~3号機は、核燃料棒がメルトダウンして、圧力容器を突き破り、下に落ちています。その先がどうなっているのか誰にもわかりません。見に行くこともできないし、知るための測定器も配置されていないので、全くわかりません。

私は、溶け落ちた燃料が、建て屋のコンクリートも破って地下水と接触しているかもしれない、と思っています。もしそうなら、高レベル放射能が地下水に流れ出てしまうので、建て屋の外側に深い壁を作ることを昨年5月から提案し続けています。残念ながら、東電は何もやっていないという状態です。

放射能を閉じこめる最後の防壁が、原子炉格納容器ですが、1~3号機は、格納容器のどこかが壊れていることは確実です。核燃料被覆管の材料であるジルコニウムが水と反応してできた水素が、建て屋に漏れだして爆発したのですから、疑いようがありません。ただし、格納容器が完全に崩壊したわけではないので、まだまだ大量の放射能が、中に存在している状態です。


[4号機の使用済み核燃料プールの崩壊]

1~3号機は、原子炉建て屋の最上部でクレーンなどを設置している通称「オペレーションルーム」が水素爆発で吹き飛んだわけですが、4号機は、その下の階も吹き飛びました。ここに使用済み核燃料貯蔵プールがあります。つまり、防護壁のない核燃料がむき出しのまま、崩れかけた建て屋の中に存在しているということです。4号機のプールの中にある放射性物質は、広島原爆の約5000発分です。

毎日のように起きている余震によって、万が一この壁が崩れ落ちるようなことが起これば、人が近づくこともできなくなり、手の施しようがなくなります。福島原発事故による放射能のこれまでの放出は、総量で広島原爆160発分と政府は発表しています。私は400発分くらいだと思っていますが、4号機のプールの中には、その10倍以上の放射性物質が、むき出しのまま存在しているのです。このプールがひっくり返れば、世界がどうなるのか、想像もできません。


[「次の地震がきても大丈夫」と説明する東電]

東電もその危険性には気がついているので、補強工事を昨年やりました。鉄のつっかえ棒を入れて、コンクリートで固めるというものです。東電は、この補強工事で次の地震がきても大丈夫だと言っていますが、その下の床も破壊されているので、燃料プールは上図の右半分だけで支えているだけなのです。

そもそもこの工事カ所は、かなり放射能に汚染されていて、ゆっくり作業できる環境ではありません。どれほど信頼できる工事なのか、私は疑問です。

東電も心配なので、今年4月に使用済み燃料を安全な場所に移すための工事に取りかかりました。核燃料は、空気中に出た瞬間に周りの人がバタバタと死んでしまうくらいの放射線を発しています。このため、燃料棒の移動は、鉄と鉛でできた巨大な箱(キャスク)をプールの底に沈め、水中で核燃料をキャスクの中に入れ、蓋をしてキャスク全体を燃料プールから吊り上げる、という作業となります。

そのためにオペレーションルームに巨大なクレーンがあったわけですが、これが吹き飛んで使えないので、まず、このクレーンを支える強固な建物から新たに建造しないといけないのです。そこで、東電は今、壊れた建て屋を取り壊し、クレーンも撤去しています。まず、①古い建て屋を撤去し、②新たな建て屋とクレーンを建設し、③燃料の上に散乱している瓦礫を全て取り去って、初めて、使用済み核燃料の移動が可能となるのです。

この段階までくるのに、急いでも来年末くらいまでかかると、東電は言っています。この場所もかなりの汚染区域ですから、ゆっくり作業できる環境ではなく、それくらいはかかるでしょう。これからの事故の進展という意味では、4号機が一番心配です。

──この1年で何が変わったのか? 

小出…あれほどの惨事を経験しながら、原子力政策も推進勢力も何も変わらなかった、というのが率直な感想です。故郷を追われた住民が10万人と言われています。住み慣れた場所を離れ、隣人・友人と離ればなれとなり、人生設計の土台を奪われたという重みを、どう考えればいいのでしょうか? 戦争でもこんなことは起こりません。

核災害に対する政府の対応は、猛烈な汚染地域の人を避難させただけでした。その周辺の(私から見れば)これまた猛烈な汚染地域の人々は、その地に捨て置かれたのです。「逃げたい人は、自分で逃げろ」という姿勢です。

極々一部の力のある人は、家族ごと逃げて新たな生活を始めました。さらに極一部の人は、子どもと母親だけ逃がして、自分は仕事のために汚染地帯に残りました。この人々だって、家族がバラバラになって家庭崩壊のリスクを負っています。

そして大部分の人は、逃げることができず、汚染地帯で子どもを育てています。親は、「こんな所で育てて良いのか? 泥まみれで遊ばせていいのか? 」と心配しながら生きています。その重さをどう考えていいのか私にはわかりません。

ところが原子力村は、何も変わらなかった。ここまでの惨事を目にしながら、今でも「原子力をやめたら、経済が弱ってしまう」などと言っています。私には信じられないことですが、彼らが政治・経済の中枢を握り続けていて、影響力を行使し続けているのです。全くすごい国だと思います。

野田首相なんて、迷うことなく再稼働に邁進しているわけです。残念ながら、今の政治の状況を見ていると、多分再稼働になるでしょう。菅首相なら、ひょっとしたら少し変わっていたのかもしれませんが、事故を経ても変わろうとしない原子力村の完全復活です。

──反原発の気持ちはあるが、様々な理由で実際に抗議行動などができない人たちに対してコメントを。

小出…反原発運動なんて、やっていただかなくても結構です。私が原発に反対してきたのは、差別に抵抗しているからです。原発は、都市と過疎地の差別の上に建ち、下請け労働者への差別なしに成立しません。私の現場は原子力 ですから、原発の差別性に反対しているのですが、差別は労働現場にもこの世界にも、山ほどあります。

そうした「差別」に抵抗することは、誰にでもきっとできるし、それをやってくれるのなら、反原発にも、全ての問題にもつながります。原発なんて放っておいてください。私がやります。自分が「どうしてもこれだけは譲れない」という、そのことに関してだけやってもらえればいいのです。それですら大変なことですから、余力の無い人はそれでいいのです。自分を責める必要はありません。

私は、3・11以降に放射能汚染をとにかくしっかり調べて公表し、責任のある者から汚染食物を食べるべきだ、という発言をしてきました。私にとってもジレンマはあり、測定をしてきちっと知らせたら結局、金持ちがきれいな食べ物を買い、貧乏人が汚染された物を食わされる、ということになると、私でも容易に想像がつきます。

ですから責任に応じて引き受けるしかない、と言っているのですが、実際にはそうならない可能性が高い。でもそ れで、貧乏人と金持ちの歴然とした差が、より明確になります。見えなければ立ち上がる力も沸かないので、可視化させるべきだと思います。

ただし、騙されないで欲しいことはあります。橋下市長などに対して、「今の酷い社会を変えてくれるかもしれない」と、期待をかける人がいますが、そんなことをしたら余計に悪くなるだけです。どんな社会を作りたいのか? を、1人ひとりがしっかり考えることなく、誰かに依存するなら、悪い方向へ行くと思います。



【放射能無害化は、極めて困難】

──「放射能の無害化技術」と、その現状について

小出…原子力発電はウランを核分裂させますが、核分裂させると、核分裂生成物ができてしまいます。元々ウランは、放射線を発する危険な物です。その危険なウランを核分裂させると、その途端に放射能の量が10億倍に増えます。 それだけの凄まじい力を人間は持ってしまったのです。

人間が核分裂の連鎖反応を使うようになったのは、1942年です。米国がマンハッタン計画という原爆製造計画を立ち上げ、物理学者が長崎原爆の材料であるプルトニウムの製造法を考えました。そして、プルトニウム製造には原子炉を動かすのが最も効率的、と結論しました。

皆さんは原発を「発電」のための装置だと思われているかも知れませんが、元々開発者は、発電などに興味はなく、プルトニウムを作るための手段だったのです。しかし、当初から「これをやると大変なことになる」ことはちゃんとわかっていましたので、1942年時点から無害 化の研究は始まっているのです。研究は続けられ、今年で70年になりますが、未だにできないのです。

できない理由は、主に2つあります。①作ってしまった核分裂生成物を消そうとすると、そのために莫大なエネルギーがかかる。もともと原子力発電は、エネルギーが欲しいから作った訳ですが、そのエネルギーを全部投入してもまだ足りないとなれば、意味がありません。いくらやってもダメなのです。

②先ほど「消す」と言いましたが、本当に消すことは できません。正確には、「消す」のではなく、寿命の長い放射性物質を寿命の短いものに変化させて、管理期間を短くしたい、という考え方です。ところが、ある寿命の長い放射性物質を寿命の短い放射性物質に変える作業をすると、放射性物質でなかったものが放射能になってしまったり、新たに寿命の長い放射能が生まれてしまったりする物理現象が同時に進行してしまうのです。日本でも「原子力研究開発機構」が研究を続けていますが、いくら実験を繰り返しても、この壁を突破できず、70年間 実現できずにきているのが現状です。

私たちの世代が原子力発電を始めました。これから先10~20年くらいは続くかもしれません。でも、せいぜい何十年という時間しか原子力は使えません。ウランが枯渇するからです。

ところが、私たちの世代で生み出した放射能のごみは、100万年後まで子孫たちに押しつけられるのです。そんな行為に自分が荷担したということを、私は決して許せない。だから私は、自分たちの世代が生んだごみは、自分たちの世代の責任で無毒化したいと願っています。でも、たいへん申し訳ないことに、それは不可能なようです。


[日本政府の意図的サボタージュ?]

──WHOが汚染地域の推定 放射線量を発表しましたが、 妥当なのですか? 

小出…正しくは私にはよくわかりません。ですが、本来ならあれはWHOではなく、日本が行うべきです。日本にもたくさん研究機関があります。日本政府でも安全委員会でもいいですが、きちっとした調査に基づいた数値を公表すべきです。原子力村の人たちがさぼっているのか、意図的に逃げているのか、能力がないのかわかりませんが、とにかく何もしない。だからWHOが発表したのですが、日本として恥じなければならない状況です。

WHOの推定がどこまで正しいかは、まだ判断できません。発表よりも多いだろうとは思いますが、どれだけ多いのかもわかりません。

理由は、事故初期の汚染データがないからです。それは今も隠されている可能性もありますし、あるいはこんな事故が起きることを、原子力 村の誰も思っていなかったがために対応が全くできなかったということもありえます。

どちらにせよ、全く何の対応もできないまま事故が進行してしまったというのが事実でしょう。当時の菅首相は、「自分のところに何の情報も来ないので、どうしていいかわからなかった」と言っていました。政府が政府の体をなさない状態だったわけです。

しかし、事故初期の汚染量に関しても、いろいろな情報やデータを積み上げることで、明らかにできるはずです。私自身もしっかりしたデータや情報をもっていないので、できません。しかし、WHO以外にも、国連科学委員会などもいずれ何かしらの数値を発表するでしょうし、そうなれば日本も何かしら発表せざるをえなくなるはずなので、そういうデータを順番に検証していく以外にないだろうと思います。





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