思いがめぐる

2016年09月





11施設を見学するのに、一日2施設として6日必要だった。
施設を地域毎にまとめ、見学のための予約を入れた。
満床であろうがなかろうが、この際、全てを周り、申し込みをするつもりだった。

到着の日から台風が来ていた。大荒れの天気。
だが、天気を理由に行動を変えてはいられない。たかだか雨と風だ。
それに、東京ほど雨に濡れることを怖れなければならないわけでもない。
荒れ狂う天気の中、施設周りを始めた。

思いがけず、C施設の相談員T氏から電話を受けたのは、N市に到着した翌日だった。
お断りはしますが、今後のことで相談には乗りますのでと、仰ってくださってはいた。

「あ、お久しぶりです」
T氏の「Hola!」という声に挨拶を返した。(私がスペインにいたことを知って以後、いつも電話での挨拶はこれが最初になっていた^^)
「その後、どうされましたか?施設はみつかりましたか?」
「いえいえ、まだなんです。一応、N市のK施設さんには申し込みをしたのですが、今はその返答待ちです。あ、今私、もう一度、来ているんですよ」
「え、こちらにですか??」
「はい、そうです。だって、C施設さんには断られてしまったから・・他の施設をみつけないとでしょ(笑)」
「そうなんですか!」
T氏は少し意外そうに返答された。そして、言葉を継がれた。
「K施設さんからのお返事が、どちらであっても、どうぞ教えてください。その後のこと、気になっていますので」
「ありがとうございます。お伝えしますね」
そんな会話をして電話を終えた。

翌日、6月13日、N市のK施設さんから、返答を頂いた。受け入れのお返事だった。
電話を受けたのは外出先。二つの施設を見学し終え、滞在先に向かって歩いている時だった。
思わず歩みを止め、深々と頭を下げた。ほっとした瞬間だった。

ほっとはしたが、安心しきることはできなかった。どこでどう転ぶかはわからない。K施設の相談員の方からも、受け入れることに決定しましたが、色々ご相談したいこともあるので、と再訪の要請も頂いていた。再訪の日は10施設巡り終えた最終日に決めた。

夢中で10施設の見学を終え、明日は、K施設への再訪という夜、C施設の相談員T氏から再び電話を頂いた。

「あ、Tさん。K施設さんからのご返事をお伝えしなければと思っていたんですが、毎日戻ると遅くなってしまっていて、ごめんなさい。一応、受け入れてくださるとのことです。それと、もう一つの施設からも受け入れのお返事も頂いています」
「あ、そうなんですか!よかったですね。もう一つの施設というのはどちらか伺ってもいいですか?」
「もちろんです」
私はその施設の名前を挙げた。
「ところで、明日の予定はどうなっていますか?」
「明日ですか?明日は、K施設さんに再訪して、相談員の方と色々お話しすることになっています」
「もし、よかったら、そちらの方まで参りますので、お目にかかれませんか?看護師のHと一緒に行きますので」
「え?あ、もちろん。喜んで」

せっかく、私がこちらまで来たからだろうか?それでも、わざわざ会いに来てくださるなんて、本当に良い方達なんだな、私はそんなことを思いながら申し出を快諾した。

K施設の相談員さんとのお話しは、やはり、病院のことだった。
受け入れ先病院が決まらない限り、K施設では母を受け入れることはできない。
K施設は、看取りはしない。となると、受け入れ先病院の確保は必須だった。
相談員の方は、これから候補先の病院と連絡を取るので、その後その病院から直接、私の方に連絡が行くことになるだろうということ、その際、私の口から、母の状況を詳しく伝えてほしいということを告げられた。
施設側では受け入れを快諾していてくださっていても、病院が見つからない限りそれ以上先へは進めない状態だった。

相談を終え、K施設を辞した後、C施設の相談員Tさん、看護師のHさんとの待ち合わせの場所に向かった。

お二人は、車で迎えに来てくださっていた。

どこか、ゆっくりお話しができるとところに行きましょうということで、車に乗り込み、軽い雑談を交えながら、今現在の私が対面している状況などをお話ししていった。
しばらく近辺を走った後、落ち着いたのは、チェーン展開しているカフェだった。

私としては、今現在の状況を伝え、これからの指針を仰ぐつもりだった。

週末のせいか、カフェはかなり込んでおり、席に着くまでしばらく時間がかかった。
注文した珈琲を前にようやく腰を落ち着けると、お二人は少し姿勢を正し、顔を見合わせた。
そして、
次に聞こえてきた言葉は、

「お母様を私達の施設で受け入れようと思います」

「え?!」

信じられなかった。
まるで、考えてもみない展開だった。
思わず、聞き返していた。

「・・・・あの・・・・、母を・・・・・、受け入れてくださるということですか??でも・・」

驚く私に、お二人は、噛み砕くように説明を始めた。
実際、母を受け入れることは簡単ではなかったこと。
私の申し込みを受けてすぐに病院探しを始めたが、いくつかに断られたこと。施設側としても、受け入れる自信を持てなかったこと。

「その状況で、中途半端に拘束していては、却って失礼だと思い、一度は断りをいれることにしたということはお話ししたか思います。ただ、・・・・」
看護師のHさんはそこまで言うと、言葉を切った。
相談員のTさんと再び顔を見合わせる。
一呼吸置いてH氏は言葉を継いだ。

「ゆみさんの必死さを目の当たりにしていて、そのままにしておけなかったんです」
「ええ、二人とも、その後どうされたかと気にかかって・・・・」

お二人は、一旦、断りを入れた後も、いくつもの病院に当たってみてくれていた。
そして、今現在は、T病院に打診していた。
「たぶん、T病院は大丈夫だと思います。でも、仮に、T病院が、受け入れを断ってきたとしても、どこかは探せます。ゆみさん、うちに来てください」
Hさんは仰られた。

私は、息を呑んだ。涙が溢れてきてしまった。
いくつも施設を見てきたが、私にとって、C施設以上のところは見つからなかった。
もう一つ、ここならと思うところを見つけてはいたが、そこは、かなり先まで満床だった。

「うちの施設に受け入れるに当たり、その前に、やはり、お母様にお目にかからなければなりません。東京に伺いたいと思っています」
私は絶句した。
移住先と東京は、飛行機で飛ぶ距離だ。
「え、東京にいらっしゃるんですか?」
「はい。主治医の先生ともお話ししたいですし、お父様ともお目にかかりたい。そして、何より、お母様の様子を実際に拝見したいです」

そこまでしてくださるということに、私は心から感謝した。その誠意に頭が下がる思いだった。
もし、これで断られることがあったとしても、本望だと思った。

こんな風に誠実に応対してくださる方がいらっしゃる限り、私はまた、一から始められる。

7月9日、お二人は、遠路はるばる東京にいらっしゃった。
私は羽田まで出向き、お二人を母の病院に案内した。
母の主治医であるM医師と面談し、母の状況について詳細なお話を交わされた。私は同席を許されなかった。その後、病院で待っていた父と会い、母にインタビューをした。

正式な返答を頂いたのは、7月11日。
14日から、施設での受け入れが可能とのことだった。

7月20日、私は母と共に、沖縄に飛んだ。





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母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html










振り出しに戻ってしまっていた。また一から施設探しだった。思わずため息が漏れた。
母の時間が十分にあるのなら、少しぐらいの手間と時間は少しも苦にはならない。だが、そうではない。
こうしている間にもどんどん時間は短くなっていく。

でも、時間がないからこそ、泣いている暇も、嘆いている暇もなかった。
「申し訳ないのですが・・・」というC施設の相談員さんの言葉を聞いた時、頭をがーんと殴られたかのような思いに打ちのめされたのは本当だった、が、と同時に、「じゃ、どうしよう?」と次のことも考え始めていた。

その日のつぶやき。
「明日まで、『がっかりした』という気持ちに思いっきり浸ろう。
そして、明日、次の行動を始めたら、もう振り返らない。」

ダーリンに連絡をし、次の手立てを二人で討議した。
最初に考えたのは、施設が病院を見つけられないのだとしたら、私が病院を探したらいいのではないだろうか?ということだった。

N市の施設を見学した際、その施設の方が母の病状を聞き、病院の緩和ケアに入ることを考えてみましたか?といくつかの病院を紹介してくださっていた。
そのことを、C施設の相談員さんに話してみると、その病院の中では、A病院が一番いいのではないかと教えてくださった。

すぐに検索してみたが、A病院の緩和ケアは末期の癌患者しか受け入れないということだった。
翌日、念のため電話でも問い合わせてみたが、返答は同じだった。

病院の緩和ケア病棟に関しては、東京で、いくつかの病院に問い合わせてみていたが、状況は同じだった。緩和ケア病棟で受け入れるのは、基本的に、余命を宣告された、癌の末期患者のみだった。

C施設からの断りの電話を頂いた翌日、見学したN市の2施設に連絡をとった。
L施設はやはり満床だったが、K施設は空きがあった。すぐに申し込みをした。そこがもし母を受け入れてくれるのなら、とりあえずでもそこに母を入所させ、もし、どうしてもそこが母に合わなければ、それから、また、他の施設を探してもいいのではないかと思った。

もう一度、移住先を訪れ、施設見学を始めるよりは、早く事が進められるのではないかと思ったからだった。

ダーリンに話をすると、それは、一つの考え方ではあるけれど、一度、入所した場所をまた移動するというのは、それはそれで、お母さんにはストレスになるのではないかと意見された。それもまた尤もだった。
どこかで、楽な道を選ぼうとしていた自分を認めざる得なかった。

申し込みをしたN市のK施設からは、決定に一週間ほど猶予をほしいという返答を頂いていた。

私は、もう一度、移住先の「介護付き有料老人ホーム」を洗い直すことから始めた。今回は、地域を広げ、中心地から大きく離れた地以外は、全て対象として考えるようにした。

結果、計10施設を選ぶことができた。電話をして空き室状況を確認すると、その時点で、7施設に空きがあった。もちろん、これらは流動的であり、よいかどうかも見てみるまでわからず、また、母を受け入れてくれるかどうかもわからない。

わからないのだから、動いてみるしかなかった。ここで、座っていても、何も変わらない。

5月30日に断りの返答を頂いて数日後、再び移住先に行くことを決心した。
その後、N市のK施設からは、もうしばらく保留にさせてほしいという返答が来ていた。どうせもう一度訪れるのだから、K施設へも再度足を運んでみるつもりだった。
見学数11施設の私の二度目の旅は、6月11日から始まった。



母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html




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