思いがめぐる

2017年10月






20171006_171006_0048




最後は海に流してほしい。
それが母の生前からの願いだった。

初めてそう聞いたのは、もうずっとずっと以前のこと。
その頃には、それが可能であるかどうかすら知らなかった。
洋画でそんなシーンを目にする以外、実際にそうした方のお話を周りで耳にすることもない頃だった。

母の最期が遠くないと思えるようになった時、「息を引き取った後のこと」を思った。
が、私はどうしても、残された母の身体をどうするのか、具体的なプランを立てることができなかった。

他の事に関しては、いつでも十分に調査をし、事前準備をする。
だが、このことについてだけは、まるで、心で遮断するかのように、目を背けていた。
考えたくなかったのだろう。

母が、お通夜もお葬式も、お経も戒名もいらないということは、生前から何度となく聞いていた。
そのことについては納得していた。
そこまでは何とか済ませることができた。

母を荼毘に付し、遺骨を胸に帰る途中、父が言った。

「ゆみ、この後、どうする?」

私はくたくたで、すぐにそんなことを考えられるような状態ではなく、

「お骨は置いておいても大丈夫なんだから、しばらく置いておいて、そのうち考える」

ぶっきらぼうにそう応えるのがやっとだった。


ブログに母の最期の様子を記してきていた。
時折、使い慣れない葬いにまつわる言葉の確認などを、この言葉はこれでよかったのかな?とネットでしたりしていた。
そんな折だった。
ふと「散骨」に関するサイトが目に留まった。

「え?できるの??」

以前、姉に、母が、最期は海に返りたいと言っていると告げたことがあった。
その時、姉は言った。

「日本ではそんなことできないのよ」

日本を長く離れている私は、あーそうなんだと思っていた。

調べ始めると海洋散骨も可能であり、それを請け負う業者もあることがわかった。
海洋散骨の方法はいくつかあった。合同で行なうもの、散骨自体を業者に依頼する委託代行散骨・・・。
できるのなら、私は自分の手で行いたかった。

小型船をチャーターし参加者で散骨を行なえるという個人貸切海洋散骨を提供している業者を見つけ、そこに依頼することにした。
散骨の日は、息子の21回目の誕生日である、2017年10月6日に決めた。

散骨と言っても骨をそのまま、撒くわけにはいかない。先に粉骨が必要である。
母の遺骨を事前に業者に送った。
チャーター便は日に3便。12時出港を選んだ。


2017年10月6日

11:30 港に集合
12:00 出港
12:20 散骨ポイント到着
12:30 海上にて散骨、黙祷
13:00 沖縄の海、景色を見ながらクルージング
13:30 帰港



朝、10時、父が、施設からタクシーで私達のところに到着。そのタクシーに乗り込み、みんなで港へと向かった。
予定より早く11時過ぎには着いてしまったが、依頼業者はそれに応じてスケジュールを早めてくださった。

天気は晴れ。
ただ、波が少し高く、通常より多少荒れて気味だった。

案内をしてくださるのは、W御夫妻。行程の説明を受け、ライフジャケットを着込むと出発だった。



20171006_171006_0001




久しぶりの海だった。
2005年にイギリスを離れて以来、いつでも海の傍に住んできていた。
一週間と海を身近で見ない日はないという日々を過ごしてきていたが、この地に来てからは、遠目に目にすることはあっても、海風を感じられる距離までは中々来られずにいた。

船が走り出した。
風が身体を弄り始める。
思わず深呼吸をする。
気持ちがよかった。

海はそこここで、その地の色と表情を持つ。
この地の海もまた、他の海とは違った色合いと表情をみせてくれていた。

私は海面を波を、そして空をただ眺めた。

しばらくして、Wさんが、姿を変えた母の遺骨を出してきてくださった。
桐の薄い箱の中、母は白い紙の袋に入れられていた。
全部で6袋。
紙袋は水溶性なので、一緒に海に流して構わないと告げられた。



20171006_171006_0077




沖合い2キロほどの散骨ポイントに到着。
散骨の仕方はご自由にと仰ってくださっていたが、一つだけ、注意を促してくださった。

「あまり高い位置から撒きますと、風に煽られて、戻ってきてしまい、目に入ったりしてしまいます。なので、なるべく低い位置から散らした方がいいかと思います」

なるほど。
ドラマチックに撒き散らすと、穏やかに海に着水できないかもしれないということだ。

まず、父から始めた。
小さく折り畳まれた袋の口を開き、海へと向けた。
さらさらと白い粉となった母が風に乗り、海に浮かび、静かに溶け込んでいった。
きれいだった。



20171006_171006_0072




父の口からも、私の口からも、たった一つの言葉が自然と漏れていた。

「ありがとう。ありがとう。お母さん、本当にありがとう」

父と私はその言葉を何度も何度も繰り返した。

父に続き、私、ダーリン、息子と順に母を海に送った。



20171006_171006_0045




最後の2袋は父と私で流した。


Wさんが、二つの籠に盛られた切花を手渡してくれた。
献花。
色とりどりの花を一つ一つ、海に投げる。
風に舞い、波に舞い、花々が、海面を彩っていった。
美しい景色だった。



20171006_171006_0034



20171006_171006_0032




黙祷。

母は海に返った。

これからは、海は母の眠る場所。

「お母さん、これで世界中どこへ行っても一緒だね」
私はそっと呟いた。



20171006_171006_0021


港に戻り、帰途のタクシーに乗り込んだ途端、雨が落ちてきた。
空と海が雨で繋がったかのように感じた。





母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
両親の移住 その後3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68661586.html
両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html

母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html











2017年9月16日
AM8:00 集合、出棺式
AM8:30 出棺
火葬場へ
AM10:00 火入れ
AM11:50頃 収骨




私にとっての初めての「死」は祖父だった。
祖父は59歳という若さで、膵臓癌で亡くなった。
私はまだ、5歳にもなっていなかった。
母の実家の6畳の間に、祖父の棺は斜めに置かれていた。その周りを親族が囲み、皆が振り絞るような声で、祖父を呼んでいた。
若い母も泣いていた。

「ゆみちゃん、ほら、触って御覧なさい、おじいちゃん、こんなに冷たくなっちゃった」

そう言いながら、私の手を祖父の額に持って行った。
指先でそっと触れた祖父の額は氷のように冷たかった。

祖父の身体は火葬場に運ばれ、皆の涙と共に送られた。
母が空を見上げ立ち上る煙を指差した。

「ほら、ゆみちゃん、見てご覧!おじいちゃんが煙になってお空に上っていくから」

そして、祖父は骨になった。

「お父さんが骨になっちゃったよ~」まだ若い母の妹たちは泣きじゃくっていた。

祖父の骨を皆で拾った。長い箸から箸に骨が渡された。私も母の手に手を添えて一緒に拾った。

5歳の私の中で、それが、死の最期だった。
いつの日にか、大人になり、思うようになった。
両親の骨を拾うこと、それは私がしなければならないことなのだと。



空に上る母のために晴れた空をと望んだが、まだ台風の影響が残っており、天気は荒れ模様だった。
風が強く、時折雨がばらついていた。

8時少し前に斎場につき、母が置かれた部屋に行った。
母はとても美しく化粧を施していただいていた。

「ああ、お母さん、とってもきれい。よかったね。最期まで美人だね」

私は母に声をかけ、顔を覗きこんだ。
母の口の端から、体液がほんの少しこぼれていた。
ちょうど部屋にいらしたM氏にそのことを告げると、棺の蓋を全て外しその部分をきれいにし始めた。

母の体が白いサテンのような布の下に現れた。
M氏が母をきれいにしてくださっている間、私はもう一度、その布の上から母の身体を触った。
肩、胸、腹部、そして、手足をゆっくりと撫で、

「お母さんの体、本当に長い間ありがとう。お母さん、ありがとう」と呟いた。

M氏は、一度部屋を出られると、棺に入れる花を持っていらした。

息子とダーリンと三人で母の顔の周りを花で飾った。
ダーリンが、カメラを掲げて、どうする?と聞いた。
私が頷くと、息子と二人、花に囲まれた母の姿を写しはじめた。

出棺の時間になった。
母の棺は、いわゆる霊柩車ではなく、普通の車に載せられた。
後部扉が閉ざされると、運んできてくださったスタッフが深々と頭を下げた。
私とダーリンは、後部座席で母の傍らに腰を降ろした。
「では、出発します」という運転手の方の声と共に、車が動き出した。
M氏が、車の外で、深く低頭された。その姿を見つめ、私も、頭を下げた。
頭を下げると人の行為に、「敬意」を強く感じた。

火葬場までは、一時間弱の道のりだった。あちらで父と合流することになっていた。
土曜日で道が空いており、予定時刻より早く到着した。前の順番の方がまだ、終わられていないということで、しばらく車の中で待つことになった。

火葬場は、近代的に美しい建物だった。半世紀以上前、祖父を送った火葬場とは、似ても似つかなかった。
台風の残りの風と雨が空気を大きく動かしていた。建物の入り口近くにあるガジュマルの樹が枝を大きく揺らしていた。

ほどなくして、施設の方が父を連れてきてくださった。と直ぐに、私達の番になり、建物の中へと案内された。
必要な手続きを済ませた後、母の棺が安置された大きな部屋に通された。
普通は、故人の写真が飾られ、多くの親族が集い、最後の別れをする場所だった。
私達家族にとっては、母と父、ダーリンと息子と私で過ごす最後の場所だった。
そして、父にとっては、この短い時間が、65年という長い月日を共に過ごした、母の死に顔との対面であり、別れだった。

「○子、長い間、本当にありがとう。私はお前と一緒になったことを一度も後悔していない」

父は母にそう語りかけていた。

係りの方の「それでは・・」と言う声に、私達は振り向いた。

「ご遺族の方でご一緒に、そこにある白い布をお顔にかけてさしあげてください」

父と私とでその小さな白い布を持ち、母の顔の上にそっと置いた。

「それではこれから棺の蓋を閉めますので、皆さんご一緒に、蓋を持ち、静かに降ろしてください」

4人の手で、母の棺の蓋を降ろした。

「それでは出発いたします」

母の棺が動き出し、私達はその後に続いた。
火葬炉に母の棺が納められると、間違いがないようにと番号札を渡された。
扉が閉められた。

「では点火ボタンのロックを解除いたします。このボタンを押しますと、火葬が始まります。ボタンははどなたかが押されますか?」

「お父さん・・」私は父を促した。

少し背中が曲がり始めた父の右手が上がり、点火の赤いボタンを力強く押した。ライトがつき、母の火葬が始まった。
約2時間弱ということだった。

建物に設置してある控え室で、時間を過ごした。
私は本を読み、ダーリンズと父は、喫茶店で購入した食べものを食べ終えると、横になって寝入っていた。
皆疲れていた。

アナウンスで名前が呼ばれ、係りの方が迎えにきた。

ここで、私は大きなミスをしていた。
ダーリンは以前から、箸の使い方のマナーにおいて、箸から箸へ食べものを渡してはいけないということを知っていた。そして、その禁忌が骨上げの際、死者の骨を拾うときにする作法に由来としていることも理解していた。なので、てっきり、ダーリンは骨上げのことを知っているとばかり思っていた。

が・・・
ダーリンはそれは特殊な宗教関係の方々がすることだと思っていたらしい。一般の人々の火葬においても、骨を拾うことになるとは、考えてもなかった。

係りの方に連れていかれ、部屋に案内され、火葬の済んだ母の姿を見たときの二人の驚愕はかなりのものだった(であろうと思う)。
私は、母の姿とこれからしなければならないことに心が向いており、二人の動揺に気づけなかった。
呆然としているような二人を横に、父と私は、必死になって母の骨を拾った。
この期に及んでと思うが、後がつかえているのであろう。係りの方がやんわりとでもしっかりと先を急がせた。

事前に、「箸渡し」のことを聞かれていたが、人数が少ないこともあり、父は断っていた。
ダーリンズにも手伝ってと声をかけたが、二人は、躊躇いがちに箸を伸ばししていた。その時には、どうしたのだろう?ぐらいにしか思わなかったのだが、当然の反応だったのだと後になって納得した。

ダーリンズ、ごめんなさい。。゜゜(´□`。)°゜。

私は心配だった。
母の身体が火葬炉に送られ点火する時、火葬された母の姿を見る時、私は自分が冷静ではいられないのではないかと。取り乱し、泣き叫んでしまうのではないかと。
が、私は冷静だった。もう一人の自分が自分の行いを見ているかのような思いで、するべきことを淡々と行なうことができた。

そうできたことに心から感謝している。

母の骨を足から骨壷に入れ、残った細かな砕片を箒と塵取りちのような道具で集め終えると、収骨が終了した。
父が骨壷の蓋をし、壷が桐の箱に収められた。係りの方が、丁寧に、手際よく白い布で箱を包んだ。

「こちらが前になります。こういう風に持ってください」

手渡された白い布で包まれた母の遺骨を私は胸に抱いた。

「お母さん、ここまでちゃんとできたよ。」

子どものように、私は母にそう報告した。





Scan10472




母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
両親の移住 その後3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68661586.html
両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html

母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html






このページのトップヘ