最後は海に流してほしい。
それが母の生前からの願いだった。
初めてそう聞いたのは、もうずっとずっと以前のこと。
その頃には、それが可能であるかどうかすら知らなかった。
洋画でそんなシーンを目にする以外、実際にそうした方のお話を周りで耳にすることもない頃だった。
母の最期が遠くないと思えるようになった時、「息を引き取った後のこと」を思った。
が、私はどうしても、残された母の身体をどうするのか、具体的なプランを立てることができなかった。
他の事に関しては、いつでも十分に調査をし、事前準備をする。
だが、このことについてだけは、まるで、心で遮断するかのように、目を背けていた。
考えたくなかったのだろう。
母が、お通夜もお葬式も、お経も戒名もいらないということは、生前から何度となく聞いていた。
そのことについては納得していた。
そこまでは何とか済ませることができた。
母を荼毘に付し、遺骨を胸に帰る途中、父が言った。
「ゆみ、この後、どうする?」
私はくたくたで、すぐにそんなことを考えられるような状態ではなく、
「お骨は置いておいても大丈夫なんだから、しばらく置いておいて、そのうち考える」
ぶっきらぼうにそう応えるのがやっとだった。
ブログに母の最期の様子を記してきていた。
時折、使い慣れない葬いにまつわる言葉の確認などを、この言葉はこれでよかったのかな?とネットでしたりしていた。
そんな折だった。
ふと「散骨」に関するサイトが目に留まった。
「え?できるの??」
以前、姉に、母が、最期は海に返りたいと言っていると告げたことがあった。
その時、姉は言った。
「日本ではそんなことできないのよ」
日本を長く離れている私は、あーそうなんだと思っていた。
調べ始めると海洋散骨も可能であり、それを請け負う業者もあることがわかった。
海洋散骨の方法はいくつかあった。合同で行なうもの、散骨自体を業者に依頼する委託代行散骨・・・。
できるのなら、私は自分の手で行いたかった。
小型船をチャーターし参加者で散骨を行なえるという個人貸切海洋散骨を提供している業者を見つけ、そこに依頼することにした。
散骨の日は、息子の21回目の誕生日である、2017年10月6日に決めた。
散骨と言っても骨をそのまま、撒くわけにはいかない。先に粉骨が必要である。
母の遺骨を事前に業者に送った。
チャーター便は日に3便。12時出港を選んだ。
2017年10月6日
11:30 港に集合
12:00 出港
12:20 散骨ポイント到着
12:30 海上にて散骨、黙祷
13:00 沖縄の海、景色を見ながらクルージング
13:30 帰港
11:30 港に集合
12:00 出港
12:20 散骨ポイント到着
12:30 海上にて散骨、黙祷
13:00 沖縄の海、景色を見ながらクルージング
13:30 帰港
朝、10時、父が、施設からタクシーで私達のところに到着。そのタクシーに乗り込み、みんなで港へと向かった。
予定より早く11時過ぎには着いてしまったが、依頼業者はそれに応じてスケジュールを早めてくださった。
天気は晴れ。
ただ、波が少し高く、通常より多少荒れて気味だった。
案内をしてくださるのは、W御夫妻。行程の説明を受け、ライフジャケットを着込むと出発だった。
久しぶりの海だった。
2005年にイギリスを離れて以来、いつでも海の傍に住んできていた。
一週間と海を身近で見ない日はないという日々を過ごしてきていたが、この地に来てからは、遠目に目にすることはあっても、海風を感じられる距離までは中々来られずにいた。
船が走り出した。
風が身体を弄り始める。
思わず深呼吸をする。
気持ちがよかった。
海はそこここで、その地の色と表情を持つ。
この地の海もまた、他の海とは違った色合いと表情をみせてくれていた。
私は海面を波を、そして空をただ眺めた。
しばらくして、Wさんが、姿を変えた母の遺骨を出してきてくださった。
桐の薄い箱の中、母は白い紙の袋に入れられていた。
全部で6袋。
紙袋は水溶性なので、一緒に海に流して構わないと告げられた。
沖合い2キロほどの散骨ポイントに到着。
散骨の仕方はご自由にと仰ってくださっていたが、一つだけ、注意を促してくださった。
「あまり高い位置から撒きますと、風に煽られて、戻ってきてしまい、目に入ったりしてしまいます。なので、なるべく低い位置から散らした方がいいかと思います」
なるほど。
ドラマチックに撒き散らすと、穏やかに海に着水できないかもしれないということだ。
まず、父から始めた。
小さく折り畳まれた袋の口を開き、海へと向けた。
さらさらと白い粉となった母が風に乗り、海に浮かび、静かに溶け込んでいった。
きれいだった。
父の口からも、私の口からも、たった一つの言葉が自然と漏れていた。
「ありがとう。ありがとう。お母さん、本当にありがとう」
父と私はその言葉を何度も何度も繰り返した。
父に続き、私、ダーリン、息子と順に母を海に送った。
最後の2袋は父と私で流した。
Wさんが、二つの籠に盛られた切花を手渡してくれた。
献花。
色とりどりの花を一つ一つ、海に投げる。
風に舞い、波に舞い、花々が、海面を彩っていった。
美しい景色だった。
黙祷。
母は海に返った。
これからは、海は母の眠る場所。
「お母さん、これで世界中どこへ行っても一緒だね」
私はそっと呟いた。
港に戻り、帰途のタクシーに乗り込んだ途端、雨が落ちてきた。
空と海が雨で繋がったかのように感じた。
母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html
父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html
親の人生の後片付け(私の場合) その1
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html
両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
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母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html