思いがめぐる

2019年06月





少なくともここでは、「盆踊り」はただの娯楽ではない。
日本独特の貧しい農民の生活にはなくてはならない行事である。

年に一度、何もかも忘れて無心に踊る。
無心に観る。
「無心」である。
そうありたいと願う。

けれど、決して無心にはなりきれない。
その裏に哀しさが在る。
苦しさが在る。
やりきれなさが在る。
だから踊る。

帯の艶やかさ、足袋の白さがその無心さを象徴し、泥まみれで働く毎日の生活の忘却作用でもしているのだろうか。

都会に住む私には、到底、理解し切れぬ心情である。
日本の文化の根底は、農民の文化であると思う。
貴族文化はそのうえに立脚するものに過ぎない。
なぜならば農民がいたからこそ、貴族が存在したのだから。

日本の文化は土から生まれ、土と共に生き、土に死んでいった農民の文化である。
その代表の一つとして地方地方に伝わる盆踊りも挙げられるだろう。
長い歴史の間、自然と闘い、搾取され続けてきた農民の生活がそこに縮小されている。

そう私は思った。

余談になるが、「踊りは目の音楽だ」という作者の言葉が印象的だった。

(3A No.32)





「清光館哀史」は、柳田國男の『雪国の春』におさめられている一遍だ。
https://www.aozora.gr.jp/cards/001566/files/54403_54217.html




20180613211620209910_b473c9ce05bc8aca55c4ad1d4459244e




『清光館哀史』


 おとうさん。今まで旅行のうちで、一番わるかった宿屋はどこ。
 そうさな。別に悪いというわけでもないが、九戸の小子内の清光館などは、かなり小さくて黒かったね。
 こんな何もない問答をしながら、うかうかと三、四日、汽車の旅を続けているうちに、鮫の港に軍艦が入ってきて、混雑しているので泊まるのがいやになったという、ほとんど偶然に近い事情から、何ということなしに陸中八木の終点駅まできてしまった。駅を出てすぐ前のわずかな岡を一つ越えてみると、その南の坂の下が正にその小子内の村であった。
 ちょうど六年前の旧暦盆の月夜に、大きな波の音を聞きながら、この寂しい村の盆踊りを見ていた時は、またいつくることかと思うようであったが、今度は心もなく知らぬ間にきてしまった。あんまりなつかしい。ちょっとあの橋の袂まで行ってみよう。
 実は羽越線の吹浦、象潟のあたりから、雄物川の平野に出てくるまでの間、浜にハマナスの木がしきりに目についた。花はもう末に近かったが、実が丹色に熟して何とも言えぬほど美しい。同行者の多数は、途中下車でもしたいような顔付をしているので、今にどこかの海岸で、たくさんにある所へ連れて行って上げようと、ついこの辺までくることになったのである。
 久慈の砂鉄が大都会での問題になってからは、小さな八木の停車場も何物かの中心らしく、たとえば乗合自動車の発着所、水色に塗り立てたカフェなどができたけれども、これによって隣の小子内が受けた影響は、街道の砂利が厚くなって、馬が困るくらいなものであった。なるほど、あの共同井があってその脇の曲がり角に、夜どおし踊り抜いた小判なりの足跡の輪が、はっきり残っていたのもここであった。来てご覧、あの家がそうだよと言って、指をさしてみせようと思うと、もう清光館はそこにはなかった。
(全文はリンク先をご覧下さい)



D4-GfpjUIAEes59





この中で語られているナニャドヤラについて



【ナニャドヤラ(なにゃどやら)】

青森県南部から岩手県北部にかけての地域及び秋田県鹿角地方の旧南部藩領内に伝わる盆踊り。
盆踊りでの「はやし歌」の歌詞からとられた名称。
「ナニャトヤラ」とも言われる。
踊りに定型はなく、地域によって、あるいはひとつの地域に何種類も伝わっている。

南部地方以外の人にはニャンニャンと聞こえ「南部の猫唄」とよばれていた。
土地の老若男女が夜を徹して踊りながら歌い、この晩だけは普段思い合っている男女が夜陰にまぎれて思いを遂げることを許されていた。

長い間、様々に解釈されてきた歌詞は、歌の中での囃し言葉として現れる。
また地域によってもばらつきがあり、研究者が方言を聞き取って表記したため、様々な文献によって表記が異なる。

現在行われている「ナニャドヤラ大会」で見られる歌詞は以下の通り



ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ

ナニャドヤレ ナサレデ ノーオ ナニャドヤレ

ナニャドヤラヨー ナニャド ナサレテ サーエ ナニャド ヤラヨー

ナニャド ナサレテ ナニャドヤラ ナニャド





《歌詞をめぐるさまざまな説》
あまりにも意味不明な歌詞のために古来さまざまな研究者が興味を持ち、
数多くの説が発表されている。

・柳田國男説
・道歌説
・ヘブライ語説
・梵語説
・旧南部家の軍歌説
・木やり唄の一種



D492b9gUEAEOEAO





〈柳田國男説〉

民俗学者の柳田國男が岩手県九戸郡種市町の漁村・小子内(現洋野町小子内)に立ち寄り、
そこで見た盆踊り「ナニャドヤラ」について短編「清光館哀史」に書き起こした。
柳田が村の娘に教わったというその歌詞は

     なにヤとやーれ なにヤとなされのう

これを柳田は「何なりともせよかし、どうなりとなさるがよい」 と、
祭りという特別な日に、男に向かって呼びかけた恋の歌、としている。








ここ最近、というか、たぶん、特に大病を患って以来(2013年)ぐらいからかもしれないが、
生きる気力が激しく失せてしまっている。

大体、人生のほとんどを精神障害と共に過ごしてきていて、それじゃなくても生きる気力は弱い。
大病の上に親の介護、ほとほと疲れてしまった。

私の精神障害は15の時からだ。
強迫性障害と鬱とは一生のおつきあい。

年齢もあるのだろう。
誰でも、日々、年を重ねる。
後どのぐらい生きられるのかな~?と、10年前には思わなかったことも思うようになる。

大病自体も堪えた。
以来、ちょっと具合が悪くなると「再発?」と思ってしまう。
そういうことにも疲れてしまった。

この10数年、介護、原発事故、自分自身の病、両親の移住、あちこちへの引越しと
本当に辛いことがたくさん重なった。

母の介護は、身体的にもだったが、精神的にすごく大変だった。
好きだった母が、別人のように変わってしまい、段々、母を厭い始めてしまうことが辛く。。。

姉のこと。これも、長く長く、辛い問題だった。
姉との問題に立ち向かおうとしない両親に代わって、いつも介在しなければならず・・・。
どうして私ばかり動かなきゃならないの?と思っていた。
ダーリンは、ゆみの家族では、ゆみが中心なんだから、それがゆみの役割なんだと。
頑張ったけれど、疲れた。

結局、姉は再び去った。
最初に去ったのは二度目の結婚をした後。そして曖昧な戻り方をした。
両親はその曖昧さを曖昧なまま受け入れ、その問題は結局、親の介護という問題で私にやってきた。すったもんだの挙句、最終的に再び姉が去ってくれた時には正直ほっとした。
最初から戻ってこなければよかったのにと思う。

そして、最後に、一番つきあいたくない父が残った。
父の最期が来るまで、私は父の面倒見なければならない。
後、どのぐらい?と思うと、溜息が出る。

疲れたんだろうなと思う。
このまま疲れが癒えないで終わりかな~とも。

「死」はあまり怖くない。
大した人生ではないが、懸命に生きてきた。
明日終ったとしても、悔いはない。
その時その時、自分ができる精一杯のことをして生きてきた。

今、辛いのは、何も楽しくないこと。
鬱症状の典型だ。
よくわかっている。
楽しみなことが何もない。
全てが面倒くさい。

この状況も何度も何度も繰り返してきた。
自分の問題だ。
問題を抱えることになった原因は他にあったとしても、
今抱えている問題をどうにかできるのは自分だけ。
それもわかっている。

例えば、もういいと命を絶ってしまう方の気持ちもわかる。
そうしようと思っているわけではない。
が、
生き続けること、時には、終わりにするより辛い。





もういや







このページのトップヘ