思いがめぐる

2020年01月



「なぜ多くの日本人が「原発問題」について思考停止に陥ってしまうのか」

有伸 精神科医 ほりメンタルクリニック院長

https://gendai.ismedia.jp/articles/-/64495



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ここで語られている「日本的ナルシシズム」についてずっと考えている。


日本人は、どこかに属していることをとても重要視する。

属し場所がないと落ち着かない。

属せる場所があってようやく自己が安定する。

ということは、多分に、所属組織がアイデンティティになっているとも言える


自分の属する組織は、絶対であり、「正」であり、「上等」でなくてはならない。

その素晴らしい組織に属している以上、自分個人に多少の疵瑕があったとしても、それは組織の正しさによって清算され、いずれ正される。

そういう大事な組織を守ることは組織人である以上絶対的な使命だ


故に、組織に属する人全てに、みな同様の使命感と忠誠心を持ってもらわなければ困るし、組織の決まりに従って考え、行動してもらわなければ、組織の健全性が損なわれ、壊されてしまうかもしれない危険性がある。

そうした危険分子は全て極力排除したい



そりゃそうだ。

組織が崩壊したら、自己が崩壊してしまうのだから、一大事だ

だから、組織内の「異種」はゆるさない。

ゆるされない。

あってはならないから、みつけたら、批判する、攻撃する。


というような精神状態であるためには、一種の催眠状態、陶酔状態である必要がある。



だって、そうでしょ。 絶対なんて存在ないのに、そう思わなきゃならないんだから


というのが、「日本的ナルシシズム」かな? ・・



やっぱり、ウチとソトだよな~、と思う。

ウチ=自分。

だから、大事にするし、ウチの中では「違っている」のは困る。

「違っている」場合は批判し、直さなきゃならないし、治らないなら排除しなければならない。

ソトのことは?

基本、どーでもいい


そして、ウチという一つの組織的集まりが先に存在し、それに対して「私」を認識する。


「我思う、故に我在り」 じゃなくて、

「組織ある、故に我あり」 なのかな

 

 

.。o○o。.★.。o○o。.☆

以下、記事の抜粋と一言


「東京電力福島第一原発の事故についての検証が終わってないのに、長く原発推進の立場にあった当事者が日本経済における重要な地位を占め続けていること、原発メーカーの当事者としての立場からの発言をその肩書きで行うことには、違和感を覚えます


確かに。



「多くの人が「面倒くさい」と感じて、日本の原発、そしてこれからのエネルギーをどうするのかを考えることを諦めてしまっているかのようです。
その結果、2011年の事故が起きて8年以上の月日が経つのに、本格的な議論は進んでいません


 「面倒くさい」以前に関心がない?



「『日本の良い将来を作るためにどのようなエネルギー政策を選択するべきか』という主題を離れずに議論を続けることが全くできていません。
すぐに目の前の議論での勝ち負けに夢中になってしまい、その議論がどこを目指すべきかということを忘れてしまいます


これは感じる



「東京電力福島第一原子力発電所事故でどれほどの損害が生じたのか、それが明確にされなければ議論を進めることができません。もちろん、事故で失われたものの中には、お金に換算できないものも多く含まれています

まず、事故の検証。尤もだよね。


「除染や廃炉や賠償にこれまでどれくらいの費用が生じてしまい、この先もどの程度の予算を計上する必要があるのか、明確にしないままでは国の将来が危ういと感じます。


事故によって生じたコストについての評価は基本の基



「原子力発電は国策として行われてきました。そして、日本人にとっての「国」、つまり日本をめぐる表象群は、他国以上に強烈な無意識のコンプレックスを形成しています


だとしたら、何故なんだろう?



「国策の是非を論じることは、このコンプレックスが刺激されることであり、その際には意識的な統制を失った言動が現れやすくなります。
それを避けるために、なるべくこの主題に触れないようにして自分の心を守ろうとする反応が出現することも、珍しくはありません。


ふむ



「この無意識のコンプレックスに私は「日本的ナルシシズム」と名前をつけ、考察を積み重ねてきました。その根本は、重要な他者への「融合的な関わり方」です


「日本的ナルシシズム」は無意識のコンプレックス
根本は「融合的な関わり方」



「日本の組織では、独立した個人が、それぞれの個性や基本的人権を尊重しながら構築していく関係性が組織運営の基盤にはなっていませんでした。その代わりに、組織への心理的な融合が強く求められたのです。


「個人」の認識、あり方がいわゆる西洋のそれとは違うからね。



「組織への批判的な発言を行うことは、組織の活動に「水を差す」行為であると忌避されます。
全体の空気や相手の意向を忖度して行動する技術の洗練が求められるようになっていきます


組織の中にいる一人なんだよね。
その逆ではない。



「組織内部の感情的な一体感を、理論的な考察よりも重視する人間でなければ、組織における重要な地位を与えられないようになります。
このようにして、ほとんどの日本の重要な組織が外部の世界の変化に対応できなくなり多くのものが失われた


組織との感情的な繋がりが重要



「全体主義的な社会から民主主義的な社会への移行のためには、深層心理における「他者との融合的な関わり方」が解消されて、一貫した個人としての責任を担える、独立した主体としての意識のあり方が確立されることが不可欠だったと考えます


民主主義の確立には必要なこと。



「精神分析の用語を使うならば、社会のメンバーのために、自我機能を適切に機能させるための仕組みが確立されていることが、民主主義的な社会を作るための前提です。


はい。よくわかります。



「戦後の日本では、心理構造の奥深くに達すような改変が必要であることは多くの場合に理解されず、心理的な「他者との融合的な関わり方」を重視したままで、その融合的な場で「民主主義」や「基本的な人権」の題目が語られるという奇妙な事態が生じました


個人の認識の違い




以下じっくり読みます。

「『他者との融合的な関わり方』を求める傾向が強いことは、乳幼児的な『母子一体感』の境地が成人になっても色濃く残っていることを意味しています


「『母子一体感』の分離を試みることで二種類の乳幼児的な不安が刺激されることに耐えられなくなってしまう

妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安
加害や復讐といったテーマを巡る被害感情や強い敵意や攻撃性が刺激されるような心理状態」


守られていないことによる不安?



「原発事故後の日本社会はある側面で、無意識的なこの妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安が高まっていたとも言えます。そこでは、日本社会についての理想化とこきおろしの意識の分裂も生じました


守ってくれるはずのものが崩壊してめちゃくちゃになったということ?



「『母子一体感』の分離を試みることで
二種類の乳幼児的な不安①②
が刺激されることに耐えられなくなってしまう。
妄想分裂ポジションにおける迫害的な不安
抑うつポジションにおける抑うつ的な不安」


イメージしにくい



「原発事故における被害について、先に述べたような数字を用いての現実的な評価を行えないのは、日本社会が無意識の心理において、この抑うつ的な不安を乗り越えることができていないからではないでしょうか


現実直視が恐くてできない。



「不安を回避するために弱い人間がすがってしまう心理的なズルが、「躁的防衛」

自分が引き起こしてしまった損害について、それを償えない、治せないという絶望的な悲哀の感情を持ちこたえることができない時に、傷つけた対象についての価値下げが行われる。」


保身のための逃げ



「「日本的ナルシシズム」
躁的防衛ばかりをくり返し、抑うつ的な不安を味わえなくなっている現代日本社会の心理状況
先に進むためには、「日本的ナルシシズム」からの脱却が必要。」


私の解釈が間違っているかもしれないが、要するに甘えているんじゃないの?



「明るく前向きな姿勢を示すことが好まれ、注目を集めます。これが、「日本的ナルシシズム」が存続し、次第に強化されていくメカニズム
「明るく華やかで前向きに」している限りでは人が集まってきますが、ちょっとでも弱みを見せれば、孤立しかねなません


お祭りみたい。



「原発事故による喪失の否認に貢献する内容ならば賞賛し、それを顕在化させる内容ならば軽視し、場合によっては非難するという日本社会全体が示した傾向は明確
自己規制、相互監視、「自主避難者」たちへの冷徹な取り扱い」


日本が勝つとしか言えなかった戦時中みたい。



「原発事故をめぐる東京電力という存在のあり方は、この数十年の日本社会においては、自主独立の精神など涵養しようとせず、日本社会の空気に融合してその上位にいることを保つことが、どれくらい社会的・経済的に報われるものであったのかを示しています


なんかな~



「遠回りに思われるかもしれませんが、私が提唱する解決策は、抑うつ不安につながる情緒(喪失の痛みがもたらす悲しみや怒りなど)をしっかりと味わうことを重んじる文化の醸成です


文化的に成熟してないってことだよね。



真面目に読んだ。
私の解釈が絶対正しいなんて思っているわけではないけれど、これを読んでも、日本の状況はかなり深刻。よい方向に進むのは並大抵のことではないと感じる。先に進むための、過去の検証と現実の直視ができていないというのは致命的という気がする


これを読んで思い出したのが、この論考だった。

http://ygjumi.livedoor.blog/archives/67153443.html

「日本の涙とため息」 加藤周一


この論考が書かれたのが1956年。 ちっとも変わってない。


 

 




かつて、海外旅行というと必ず用意するべきものがあった。

トラベラーズチェック

旅行者用小切手

現金を持ち歩くと危険ということで、必ずそうするようにと推奨されていた。
というわけで、

その時、私もしっかりトラベラーズチェックなるものをお腹に閉めたベルトの中に仕込み、アメリカを旅していた。

 

あれはいつだったんだろう?

何となく初めてのアメリカ旅行のような気がしていたのだけれど、

その時には、NYには確か、行かなかった。

だから、二度目の時 ・・

ま、今となっては、どっちでもいいかと思う。

どっちであっても、よい思い出は、よい思い出。

 

そして、どっちにせよ、はるかに若かった。

だから、それはずっと昔のこと。

 

私たちは、マンハッタンを一日ぐるぐると回り、すっかりくたびれてお腹も空いてきてい

なにはともあれ腹ごしらえと、目に付いたスーパーに入った。

何かちょっとした飲み物とつまめるような何かを買ったのだと思う。

そしてレジに並んだ。


番が来て、お金を払う段になり、トラベラーズチェックをさしした。

レジのお姉さまは、それを乾いた眼差しで一瞥すると、そんなものは使えないと首を横に振った。


「え?どうして?」と戸惑いながら私たちは問いかけた。

でも、お姉さまは、にべもなく、

とにかく使えないので、現金をよこせと言い放った。


購入したものを払えるだけの現金は手元になかった。

今であれば、


「ざけんじゃねぇよ。マネージャー呼んでもらおうじゃないか」

でもなんとでも言えるが、その頃は、まだうら若き乙女。

ただひたすら困ってしまった。


「じゃ、返すしかないよね」

後に続くお客を気にしながら友と二人でぼそぼそと言っていると、どこからともなくその人は現れた。


青年は、レジのお姉さまに早口で何か言うと、お金を差し出した。

ええええ???

と思うまもなく、商品は私たちに手渡され、レジのお姉さまは次のお客の対応を始めた。


どう反応していいのかわからず、しばし呆然としていたんだと思う。


「どうしよう?お金返さなくちゃ」と思ったときには、

青年の姿は、ドアの向こうに消えてしまっていた。


必死で追いかけた。

Excuse me!」

二人で声をあげた。


青年は、私たちの声に歩みを緩め、後ろを振り返った。


「あの・・・ありがとうございます。お金をお返ししたいので、連絡先か何かを教えていただけないでしょうか?」


息を切らしながら、ようやくそう言った。


青年は、少し肩を上げ、く軽い息を吐いた。


「・・・いいんだ。お金は・・ただ、お願いだ。この経験で、NYに、アメリカに悪い印象を持たないでほしいんだ


「え?でも・・・」


お金を返すための算段を必死に取ろうとする私たちを彼はやんわりと制した。


「じゃ、よい旅を!」


そして、踵を返し、暮れ始めたNYの街に消えていった。

 

二人とも、しばらく、そこに佇んでいた。

そして、ぼそりと言った。


「忘れないね、絶対」

「うん。忘れない」

 

・・・


それから、ん十年

今も、忘れていない。

目を瞑るとあの時の光景が蘇る。


その人の顔は、落ちてきた陽を背にしていておりよく見えなかった。


でも、ものすごくかっこよかった。

 



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