思いがめぐる

カテゴリ: 二人のダーリンとの暮らし


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2023年1210

もしかしたら、Darlingが感染したかも・・・ という心配に悶々とする一夜が明けたところ。


どうやら、Darlingは感染。

息子は今のところ大丈夫だけれど、 一緒に過ごしていた私も息子も濃厚接触者。

しばらく覚悟で過ごさなければ。

記録として書いて置こう。


Darlingが感染したのは恐らく126日夜

知人に頼まれて、息子と二人で大学のビジネスクラスに講義をしに行った。

(二人ともめっちゃ行きたくなかったんだよね)

そこでだと思う。

家に戻ったのは127日になった頃

128日は特に何もなく(あったのかもしれないけど、何も言わなかった)、

9日の夜、何やら二人でごそごそしているので、どうしたの?と聞くと、

ちょっと不安だからCovidの検査をしてみているとのこと。

私は、先に休みますと寝室に行ってしまった。


しばらくして、息子が寝室のドアをノック。

「ママ~、僕は陰性だったけど、パパは陽性だった。またもう一度、明日もやってみるって言っているけど」 と知らせにきた。

抗原検査で即陽性かよ~。

と思いながら、何ができるわけでもないので明日相談と思い寝る


10日朝、Darlingに容体を聞く(聞かなくも一目見てわかったけど)。

症状は典型的、頭痛、喉痛、咳、体の節々の痛み、皮膚の過敏さ、熱は、37.7


家族会議。

これからどうするか?

Darlingは陽性、息子と私は濃厚接触者。

 3人とも隔離だね」と決定。

 Darlingは階下に、 息子と私は一階のそれぞれの部屋に。

 部屋を出る時はマスク着用。


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Darlingの容態は、大きく変化なし。

昨日よりひどいとは感じないとのこと。

体温はほぼ平熱。

異常なだるさとかはないようで起きてきて、庭に出たりしている。

食欲はあり。

私の検査は、少し時間を置いた方がいいかなと思ったので、11日朝、抗原検査実施。

とりあえず、陰性。 自覚症状なし

息子と私は明後日にでも二人でもう一度検査だな

 

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息子が不調かもというので、とにかく寝かせる。

Darlingは大きな変化はないようだけれど、辛そう。

今日、医者に連絡をしてみると言っている

夕方、息子も感染確認

症状は頭痛、喉の違和感、寒気、熱39

今のところ服用しているのは風邪薬類。

9日の夜にDarlingの感染確認をして、まだ3日なのにもうかなり疲れた。

 

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Darlingは症状が緩和してきたと。

息子は熱が37.8度と一時期より落ち着いた。

居間の部屋のあっちとこっちでマスク越しに会話。

久しぶりにまともに少し会話ができた。

私は自覚症状なし

少しほっとしたら涙が出てきた。

9日にDarlingの感染がわかり、10日、11日、12日とまともに会話もできなかった。

近寄るなと言うし・・ 息子とは12日感染がわかるまではそこそこ話していたのだけど、

昨夜は熱が上がって苦しそうで、心配で夜中に何度も起きて・・でも様子を見にいくわけにもいかず・

二人に病気になられるのは自分がなるよりはるかに辛い。

このまま回復に向かってほしい・・


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Darlingは大分楽になってきたと。

息子は小康状態。

今のところ二人ともインフルエンザのような症状で済んでいる。

このまま回復に向かいますように。

Long Covidになりせんように


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Darlingは咳、頭痛が辛いみたい。

息子は、喉が痛いと。

二人とも小康状態だけれど、悪化はしておらず重症にはならずに済んだよう。

これから回復に向かっていく中でLong Covidが気になるけど・・

私:再検査陰


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Darling、息子とも昨日から大きな変化なし。

息子は症状自体は大分いいよう。


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Darling 頭痛はなくなった。 鼻、喉、胸の問題が解消しない。

息子 具体的な処々の症状はなくなったけれど、 胸がくぐもっているような感じがする


12月21日

何日ぶりだろう。Darlingsと一緒に散歩をした。

私が前を歩いて、二人は後ろ。

前後での会話だったけど、嬉しかった

解禁日を24日クリスマスイブに決める。


12月22日

126日の夜の外出で恐らく感染したであろうDarlings感染確認9日、12日)

三人それぞれ隔離の生活が始まってもうすぐ2週間。

誰も文句を言わず、ここまでよく頑張ったと思う。

Darlingがいつも言う言葉が蘇る。

「僕たちはチームだよ」

 三人での食事まであと少


12月24日

やっと家族で食事ができた


 

 

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キッチンで所用をしていてワイングラスを割ってしまった。

「あっ!」という私の声と、グラスの割れる音で、 Darlingsが覚醒する。

今回は、Big darlingが電話中だったので、Little darlingが「Mum、大丈夫?」と飛んできた。


私は高い棚からワイングラスを降ろそうとしていたので、椅子の上。

割れたワイングラスは床に散らばっている。


「ママ、ここはいいから、リビングに行って、 降りられないよね。抱えようか?」と息子。

「大丈夫。グラスが落下したのはこっちだから・・・」と離れた側面から、床に降りる。

「後は、僕がするから、ケガしないように、他の部屋に行って」と言われ、

私は、すごすごとキッチンを去る。


その後は、息子が割れたガラスを隅々まで探し、片づける。

電話を終えたDarlingが息子に加担し、

二人でガラスの破片がどこにも取り残されていないように入念にチェック。

その間、私は近寄ることはできない。


「ごめんね」とキッチンを覗いて声をかける私に

Darlingsはいいから、あっちに行っていてと言う。


私は幸せだね





お天気に恵まれた5月の土曜日
家族でジンの蒸留所見学。

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昔はFarmだったという敷地内を散策しながらのツアー
参加の皆さんのご様子は、 「パンデミック?何それ?」みたいな雰囲気。

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後方にいる二人がDarlings. 外にいても、人に近づかない

ジンだけなのかな~と思ったら、そういうわけでもなく、
結構色々、味見をさせてもらえた。

敷地内のお花がきれいで、私はあちこちウロチョロ

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サンザシがほんのり色づいていました。

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後ろの方に立って説明を聞いていたら、隣におっちゃんがやってきた。
(おっちゃんと言っても、孫がいるというから私ぐらいかも?もしかしたらもっと若いかもしれない)
ま、どうでもええ。
何となく会話が始まった。
あーだこーだととりとめのない話し・・・
”やだこれじゃ、あの方のお話全然聞いていないわ”
と前で話をしてくださっている男性を指しながら言うと、
「大した話じゃないからいい」とおっちゃんは言う。
あらそう?としばらく話を続けた。

蒸留所に着いた時にグラス一杯のジントニックをもらい、その後、試飲。
ほどよくアルコールも回っており、内容はよく覚えていない。

孫の話をしたのは覚えている。
何しろおっちゃん、すっごく嬉しそうにとろけそうな顔で話していたから。

Darlingsが私の少し前に立っていたので、
「あそこにいるのが夫と息子」と紹介する。

最後に、
「あ、あのね、今日、結婚記念日なの~」と言ったら、
「おめでとう」と言ってくれた。
で、バイバイ。

Darlingsの傍にいくと、オーナーと何を話していたの?聞く。

・・ え、あのおっちゃん、ここのオーナー???

*右端に立っている人

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その後、見学は続き、最終地点に到達。
ぼーっと、Darlingsと立っていたら、
「ほらよ、結婚記念日おめでとう」と紙袋を渡された。

それが、写真に写っているボトル。
自家製だからラベルなし。

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お散歩に出たら、いつも行く公園内に設えらえた庭園で、ガーデンパーティが行われていた。

お花は見たいなと思ったので、躊躇しつつ、足を踏み入れた。

雰囲気を上手く伝えられる写真がないのだけれど、こんな感じの場

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食べ物や飲み物も用意されていて、多くの方が集っていた。

全員ノーマスク。

屋外ではあるので、それもありかな?とは思いながら、私は不安で仕方がない。

結局、人々に交わることなく早々と退散した


それでもしばらくは、人と距離を置き、息子と二人庭に佇んでいた。

 

息「みんな普通に行動しているよね」

私「パンデミックは終わったと思っている方がほとんどだろうからね」

息「時々、自分がおかしいのかと思う。かつてと変わらず生活している人もいる」

私「そうだね。311後、日本に帰る度にそう思ったな~」

息「うん、よく覚えている。ママいつもそう言っていた」

私「今のこの世界、若い方には本当に申し訳ないなと感じる。もちろん、子供達にも。ママたちが何の躊躇いもなくしてきたことが、不安失くしてできないと感じる人たちがたくさんいる。ママはもう年だし、したいことはしてきたからこんな状況でも受け入れられる。でも、〇〇には本当に・・・ごめんね。という思い」

息「これから先どうしたらいいのかと思う」

私「わかるよ。ママには何も言えない。〇〇が決めたことを全面的に応援するだけ」

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比べる問題ではないけれど、

例えば、戦禍に生まれた方のことを思う。

或いは青春時代をその最中で迎え、亡くなっていった方。

或いは、大災害に遭遇し、全てを失くした方。

人生は悉く不公平だ。

 

人ができることは、置かれた状況の中でどう生きるかを決めること。

それしかできないんだよなと思う。






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「ストーンヘンジってどこですか?」
と聞かれた。
当然だろう。私はイギリスにそれなりに長い。
頭の中にイギリスの地図が浮かぶ。
どこだっけ?
イングランドなのは確か。
でも、北?南?
北の方の気がするんだけど・・・と全く覚束ない。

で、我が家のTheイギリス人に聞いてみた。
私「ね、ダーリン、ストーンヘンジってどこ?」
ダ「・・・・・・ストーンヘンジか・・・」
私「うん。北?南?」
ダ「・・・・・そうだよ」(一人納得したような声)
私「???そうだよって、どこよ?北の方?南の方?」
ダ「・・・・う~ん・・」

私とDarlingのやり取りを聞いていた息子。

息「ママ、ストーンヘンジだよ」
私「え??だから、どこよ・・」
息「・・・ストーンヘンジ・・」(ただ、繰り返すな!!!)

カチャカチャカチャと息子がPCのキーを叩く音がする。

何だ、二人とも知らないんじゃない。
最初っから、自分で調べればよかった。

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私「わかった。もういい」

Darlingと息子
「で、ママ、ストーンヘンジってどこ??」

という我が家です。




2022年9月下旬
日本に大型台風が接近していた。


私:大変、Darling、日本に観測史上最大台風とか言っているよ。
D:え、そうなの?今どこ?被害状況は?
私:今まだ九州。ニュース送るね。

しばらく眺めていたDarling.

D:ユミ、これ何て読むの?ダイ・・ブン・・ケン???
私:え?(だいぶんけん?そんな言葉あったっけ??)と思いながら立ち上がり、DarlingのPCを覗きに行く)

D:これ(地図を指す)
私:あ、それ、おお・いた・けん。
D:え? オーイタケン??(しばし、漢字を眺めるDarling)

私は自分のPCの前に戻る。

D:ユミ!!!なんで、ダイブンケンがオーイタケンになるの!!!
・・・日・日本人として自分の言語に責任を持ちなさい!!!
とかなんとか喚いている。

んなこと言ってもね~、Darling・・・
と私は自分の作業に戻った。

D:ユミ?
私:ん??


あと他に、怒りそうな県があるかチェックしておこう・・・
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息子が雑誌に載った。
と言っても、実は2021年4月のこと。
記録のためにブログに載せようと思っていながら、半年も経ってしまった。

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内容は息子が始めたビジネスについて。
ものすご~く簡単に言うと、英国の大学、大学院入学のための案内アプリ。
英国内の学生、留学生のどちらも利用可。


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記事を読みたいという方がいらっしゃるかどうかわかりませんが、
一応載せておきます。
読めるかしら?

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ダーリンと Skype でチャット

間違えて、And を Andy とタイプしてしまった。


ダーリン「Andy って誰だよ」

   私「あ、間違えただけよ」

ダーリン「みんなそう言うよね。ちょっとした間違いだ。そんなつもりはなかった・・」


   私「・・・・」


ダーリン!
タイプミスだってば!!!!!

   

枕石漱流




ダーリン、大学で日本語を学んだ。

でも流石に「流石」の読み方は知らなくて、

「『リュウセキ」ってな~に」と聞くから

「それは『さすが』って読むの」と言ったら 怒る怒る。

 「もう日本を代表するゆみとは口きかない」って・・

そんなこと言わんといて・・

 

秋桜とか 心太とか 黙っていよう。

 


まだまだたくさんあるよね。

こういう難解漢字、熟字訓というのかな?

 

 

昨日、今日、明日、一昨日、晦日、一寸、下手、大人、女将、梅雨、

五月雨、吹雪、陽炎、紅葉、疾風、息吹。女郎花、山葵、百合、水母、海老、

小豆、大蛇、銀杏、無花果、灰汁、眼鏡、足袋、団扇、浴衣、欠伸、九十九、

台詞、秋桜、玉蜀黍、紙魚、心太、法被、鳩尾、月代、三和土、算盤、流石、

東風、只管、胡坐、木乃伊、蟷螂、信天翁、土筆、凡そ、五月蝿い、百足、

灰汁、出汁、蒲公英、紫陽花、向日葵、草鞋、強請、美人局、外郎、烏賊

田舎、雪崩、黄昏、時雨、不知火、鬼灯、木耳

 



ところで、どうして、『流石』は「さすが」と読まれるようになったのか。

知らなかったので、調べてみました。

 

「流石」という漢字表記は、中国の子ども向けの伝統的な教科書『蒙求(もうぎゅう)』に載る「漱石枕流」の故事によるとされているそうです。

西晋(せいしん)の国の孫楚(そんそ)が世俗を離れた暮らしを「枕石漱流」(「石に枕し、流れに漱(くちすす)ぐ」)と言うところを、誤って「漱石枕流」と言ってしまい、それを友人の王済に指摘されると、「流れに枕して耳を洗い、石粒で歯を磨くのだ」と意地を張って言い訳したというお話し。

「さすがにうまいこじつけだ」というわけで、「流石」という字を「さすが」に当てたのだというとのこと。

「流石」と書いて「さすが」と読むのは、この話が元になっている、というのが理由のようですが、

実のところ、この説が正しいのかどうか、本当のところはわからないのだそうです。


 

ここから先は文法的なことになります。

興味のない方は、飛ばしてください。


「さすがに」は、

しかすがに(そうはいっても)→さすがに と変化しました。


「しか」は副詞、「す」はサ変動詞で存在の意を表わし、

「がに」は上の動詞が表わす事態が今にも実現しそうな様態や程度であることを示す接続助詞。

これらが結びついて一語化したものです


上の事柄を「そうだ」と肯定しながら、もう一つの事を付け加える意を表わします。

それはそうだがしかし。

そうはいうものの他方では。

それはそうだがやはり。

そんなはずではないのに


「そうはいっても」に、「予想どおりに」「期待に違わず」という用法が加わり、

現代では主に後者の意味で使われようになりました。


ところで、日本人なら誰でも知っている有名な作家・夏目漱石。

この故事からペンネームを採ったわけですが、

初期のコミカルな小説にも見られるそのアイロニカルなセンスは「さすが」と言える、のかな?


 

 




ダーリン「ゆみ~、injectionってチュウシャ?」

私「うん、そうだよ。注射」

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ダーリン「・・・・待てよ、parking はチュウシャ?」

私「そうだよ。駐車」


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ダーリン「発音は?同じ?」

私「そだね、同じ」

ダーリン「・・・どういう言語なんだ!ゆみ、日本人を代表して責任を取れ!!」


んなこと言われても



まだまだ、際限なくある、こうした言葉の存在は、なるべく黙っていよう。

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後、こういうのとかも・・

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ここひと月ほどうるさく^^お願いして参りました、
リチャード・ブロンソン氏ピッチ・コンペティションへの参加資格投票
https://voom.virginmediabusiness.co.uk/pitches/scholarships-not-student-loans
イギリス時間5月15日午後7時に締め切りとなりました。


息子Mylesのために投票、拡散にご協力くださいました皆様、本当にありがとうございました。

目標の40位以内には遠く及ばず、今回はチャンスを得ることができませんでした。

獲得票数:790票
順位:71位



力及ばずとても残念です。

でも、

今は感謝の思いで一杯です。

息子もダーリンも、毎日必死に、様々な媒体に働きかけ、
考え得る限りの組織に連絡を取りプロモーションに励みました。

親ばかママは、微力ながら、FacebookやTwitter、Blogを通じて、友人知人に呼びかけました。

そうした活動を通じ、多くの方にThe Grant Fairyのことを知っていただくことができ、
https://www.grantfairy.com/
https://play.google.com/store/apps/details?id=com.grantfairy.android&hl=ja
また、様々な人々、組織と新たな繋がりを持つことができました。


皆さんが好意的に息子のビジネスを応援してくださっているということも知り、
とても嬉しく励まされました。

この機会がなければ得られずにいたものばかりです。

結果だけ申し上げれば、大敗だったかもしれませんが、
こうした経験を持てましたことに心から感謝しています。

ありがとうございました。


Myles, Marc and Yumi





myles digi leaders











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The Sunday Times 2018年1月21日




【英国大学/大学院奨学金検索アプリ】@TheGrantFairy

息子が英国の大学/大学院の奨学金を検索するアプリを開発しました。

https://www.grantfairy.com/

今現在は、UKだけですが、ここでの基盤が確立しましたら、随時、世界へと広げていく予定です。

ただ今、リチャード・ブロンソン氏のピッチ・コンペティションに参加すべく皆様からの票を集めています。

https://voom.virginmediabusiness.co.uk/pitches/scholarships-not-student-loans


この投票でトップ40に選ばれますと、 ヴァージン・グループのリチャード・ブランソン氏に
ビジネスの話しをする機会を得られる審査にかけてもらうことができます。

就きましては、どうぞ皆様の清き一票をお願いいたしたく、親ばかママからのお願いです。



<投票の仕方>

① リンクを開き Vote をクリック

② 移動したページで【I agree to the terms and conditions】をクリック

③ Connect で FB か LinkedIn を選択

④ 最後に Vote をもう一度クリック

⑤ 投票が完了しますと【Thanks for voting】の表示が出ます。


voom vote


voom login


Da4R1GDU8AAUFdN




また、参加投票にご協力頂いた方に、アプリの一ヶ月無料使用を提供しています。

ご希望の方は【Thanks for voting】のスクリーンショットを添付し

下記にメール  or ツイートをお送りください。


free@GrantFairy.com
@MylesJardine





Skype_Picture




GrantFairy英国奨学金検索アプリ(日本語)
https://play.google.com/store/apps/details?id=com.grantfairy.android&hl=ja


英国の大学生は、学生ローンを利用した場合、卒業と同時に巨額な負債を抱えることになります。
日本でも奨学金の返済問題が浮上していますが、事態は英国でも深刻です。

そこで、その事態になんとか打開策をと考え開発したのがこの奨学金検索アプリです。
アプリに登録し、必要なデータを入力すれば、あっという間に自分に見合った奨学金を探し出すことができます。

英国にも様々な奨学金がありますが、それらを調べるには個々に問い合わせするしかなく、
一般にもあまり知れ渡っていません。
また、奨学金というと、特別に優秀な場合、或いは、経済的な問題がある場合に限られていると思わることが多く、初めから自分の可能性を除外してしまったりします。

そうした障壁をなるべく低くすることにより、より多くの方が教育の機会を得られる手助けとなればと願いこのアプリの開発を思い立ちました。

今現在はUKのみですが、ここでの基盤が整いましたら、随時、他国へと広げていきたいと思っております。

奨学金はほとんどのものが国籍を問わず利用できますので、留学生ももちろん申し込むことができます。

UK大学・大学院を目指す方はどうぞご検討ください。



myles digi leaders








市役所で、パスポートの更新手続きをした。

ダーリンも一緒。

用紙を前に、ここそこと記入する私に、係りのお姉さんが色々助言をしてくださる。

と、ダーリンが小声で耳元に囁いた。


「ね、ゆみ、さっきから、お姉さん、『ラーメンもお願いします』って言っているけど、ラーメンが好きなの???」


「??? え?? ラーメン??・・・・そんなこと言っていないと思うけどな~」


私は記入を続けながら、ダーリンの言葉を頭の中で反芻する。

(ラーメンもお願いします)

(らーめんもおねがいします)

(ラーメンモオネガイシマス)

(ラーメン、らーめん、Ra-men????)



     



「わかった!」

ダーリンの顔が輝く!


「『裏面もお願いします』よ!!!」





ラーメン










2012年10月6日。
息子は16歳になった。
息子が生まれた日のことを書いておこうと思っていながら、16年も経ってしまったということだ。


*****



と、これ ↑ を書いたのが、何と4年前。
途中まで書いて、そののままになっていた。ノ)゚ε゚(ヽアッチョンブリケ

今度こそ、書くぞ!(2016年10月6日、息子二十歳)



1996年10月初め。
どこかで行なわれた体操競技を毎夜見ていた。あれは何だっただろう?
TVの前に横たわる私のお腹は、今にも爆発しそうだった。
出産予定日は10月10日。
初産では遅れる事の方が多い。10日以降だろうな?と実にのんびりと構えていた。

10月5日夜、やはり体を横たえ、TVを見ていた。途中、トイレに行きたくなり、二階に上がった。
何かいつもと違う?何だこれ??と下着を降ろしながら思った。
降ろした下着を眺め、それが、破水だと認識するまでにしばらく時間がかかったように思う。
認識した途端、私は叫んでいた。

「ダーリ~ン!!!!」

いよいよ産まれるんだ!どうしよう!!(どうしようもないのだけど)
そう思うと、恐ろしくて、体が震え始めた。
ダーリンは立ち上がれなくなってしまった私を抱き上げ、階下にあったマッサージカウチに横たえた。
そして、震える私の体を懸命に抱きしめてくれた。

気持ちがようやく落ち着いた後、すぐ近くの病院の産科に向かった。
出迎えてくれた助産婦さんは、私を内診すると、
「まだまだね、あさってぐらいじゃないかしら?」と笑った。
「え!?あさって??」
「だって、子宮口が全然開いてないもの・・。今日は帰って、もしお腹が痛くなったら、パラシータモー(痛み止め)でも飲んで、寝ることね」
出産には慣れたもんの助産婦さんは、そう言って不安顔の私を送りかえした。

専門家がまだまだと言うんだからまだまだなんだろうな~と思いながらも、不安な気持ちを拭うことはできぬまま、お風呂に入り、横になった。
でも、寝れなかった。
お腹は少しずつ痛くなってきていた。
でも、薬を飲むほどでもないかな~と思いながら、もんもんと一夜を過ごした。

翌朝、いつものように体操を始めたが、お腹の痛みが段々ひどくなってくる。
ダーリンは食べられるうちにと、おにぎりを作ってくれたが、それも口にすることはできない。
「あのね、段々痛くなってきたから、また笑われるかもしれないけど、もう一度助産婦さんに見てもらいたい」
私はそう訴え、産科に出かけた。

助産婦さん。
「まだまだ、ゆうべも言われたんでしょ。今日は産まれないわよ~」
「・・・でも痛くなってきたんですけど・・・」
「痛かったら、そんな平気な顔していられないわよ。大丈夫、まだまだ。どうしてもって言うんなら病院に行ってもいいけど笑われるわよ」
「じゃ、今日は、どうしていたら??」
「普通にしていていいわよ。いつも通り・・」

その日、出来上がった眼鏡を取りに行くことになっていた。
「あの、街に出る予定があるんですが・・」
「買い物?」
「ええ、まぁ・」
「じゃ、行ってらっしゃい」
私はすごすごと産科を後にした。

ダーリンが聞いてきた。
「どうする?眼鏡を取りに行く?」
「・・・・うん。大丈夫だって言っているし・・・」

車で近くのレディングの街までは半時間ほどの距離だ。
お昼前頃、家を出て眼鏡を注文した店に向かった。
店には着いたが、立っているのが辛くなってきていた。待っている間、スツールに腰をかけ、スースーハーハーと呼吸法をやっていた。
出来上がった眼鏡を受け取り、家に戻ったのは、お昼過ぎだったと思う。
痛みは段々増してくる。
2時過ぎ。私は泣きそうな声で訴えた。

「あのね、笑われてもいいから、病院に行きたい」

ダーリンは産科の方に連絡を取り、病院に行くことを告げた。
家を出たのは、2時半ごろだったろうか?オックスフォードの病院までは、一時間近くかかる。

私は車の後部座席に乗り込んだが、もう、その時には、痛くて痛くてどうしようもなくなってきていた。
それから病院に到着するまでの果てしなく長かったこと。車の中で生まれてしまうのではないだろうか?と不安を抱えつつ、必死で呼吸法をしていた。

ダーリンは、物凄い勢いで、運転していた(と思う)。だが、そんなことを意識している状態ではなかった。

病院に着いたのが3時半。
病院の扉は二重になっている。最初の扉を何とか通り抜けた時点で私はもう立ち上がれなくなった。
そこで四つん這いになったままハーハーと息を切らしていると、車椅子が運ばれてきた。

ダーリンが名前を告げている。
「ああ、連絡を受けています。まだまだ、という方よね」
そなん声が聞こえてきた。

車椅子に乗せられ、小さな部屋に連れていかれた。
「これから、モニターで心音を見るから仰向けになって」
私は何とか横になった。
膨らんだお腹にベルトのようなものが巻かれる。そして、それは機械に繋がれた。痛むお腹にベルトがひどく煩わしい。

「しばらく、ここで、待っていてね」
と言われたが、もう返事をするどころではなかった。

とにかくこのモニター検査が早く終わってほしいとそればかりを願いながら、私は疲労で、痛みの合間に眠りに誘われたりしていたと思う。
ダーリンは、私の様子を見ながら、おろおろと部屋を出たり入ったりしていた。

そのうち、いきみたくなってきた。
「ダーリン、生まれちゃいそう」
その言葉を聞いて、ダーリンは部屋を飛びだした。
助産婦さんは、のんびりと部屋に入ってきた。
「どれどれ、見てみましょうか?」とおもむろにそう言うと、私のまたぐら(すみません、品のない言葉で)を覗きこんだ。

「わ!!!大変、頭が出ている!!!!」
「え??」
「ほら、見て御覧なさい」
手鏡を渡され、局部を見せられた。
「ほんとだ!」
そこには黒々とした髪の毛が見えていた。

「だから、早くって言ったのに!!!何度も生まれそうだって言ったのに~」
英語で叫んだのか、日本語で叫んだのか覚えていない。
ようやく私は分娩室にと連れていかれた。

私は、水中出産を希望していた。そのために説明も受けていたし、ダーリンは海水パンツも準備していた。
分娩室に向かいながら、助産婦さんは言った。
「悪いけど、プールは使えないわね。お水を張っている時間がないもの」

ようやく分娩台に到着。そのまま、身体を移された。
「どうする?上向き、下向きになりたい??」
「あの~、もう、体の向きを変えている暇ありません」
私はそう答えるのが精一杯だった。

「ガスを使う?」と言われ、痛みを和らげるガスマスクのようなものが見せられた。私はそれを掴み、自分の口にあてた。
「わ、すごいな~掴んだよね!」ダーリンが頭上で笑いながら言っている。
何だか、冗談も言い、助産婦さんを笑わせている。
私は、それどころじゃない。

ようやく、「力んでいいわよ」と言う言葉が聞こえた。
ああ、やっと、力める。
私はほっとし、う~んと思い切り力んだ。

「あ、だめだめ、それじゃ、喉が痛くなっちゃう。喉に力は入れないで」
あ、そうなのか、と私はもう一度力みなおした。

「わっ!」

「うわっ!」

「きゃ!」

いくつかのそんな声が聞こえたような気がする。
息子は私の体から飛び出ていた。

午後5時25分。病院に着いてから、2時間だった。

「ほら、赤ちゃんよ」
手渡された息子を私は両手で受け、お腹に乗せた。
ぬるぬるの息子は、私のお腹の上で、ツルツルとすべり、ダンスを踊っていた。
丸く見開いた瞳が私の方に向けられている。
〈わ、面白い顔!顔には恵まれなかったね。ま、いいよね。性格で行こうね〉
私は息子に声をかけた。

生まれた後すぐにお乳を含ませるよう言われていたので、息子の顔を胸に近づけお乳を含ませようとした途端、
「あ、あ、そんなに引っ張っちゃだめ」と叫ぶ助産婦さんの声が聞こえた。
どうやら、私と息子を繋げた臍の緒はそれほど長くなかったらしい。
やっと楽になってきた身体から力が抜けていった。

「お父さん、コードを切りますか?」
足元の方でそんな声が聞こえる。
ダーリンが、わ、硬いな~、切れないよとか言っている。
私は疲労で弛緩しきっていた。

ようやく解放されたのであろう息子が、タオルに包まれ、助産婦さんに抱かれる。
「はい、お父さん、息子さんよ」
助産婦さんがダーリンに息子を差し出した。
ダーリンは手渡された息子を、一度受け取ると、すぐにまた、返し、
「そっちはいいから、ゆみ、大丈夫?」と私の顔を覗きこんできた。

「これから胎盤が出てくるから、早くでるように促進剤を打ちますね」
助産婦さんは言いながら、ブスっと腕に針を射した。
「イタッ」
注射液が腕に入って行く、
と、すっと何かが出てきた。
「あら、出てきたわ」
え、じゃ、注射する必要なかったんじゃない!!!

「うわ~、大きな胎盤。こんなに大きな胎盤みたことないわ」
二人ぐらいの助産婦さんが、あーだこーだと話しているのが聞こえる。

その時、医師がふらりと鼻歌交じりに入ってきた。
私のところまでやってきて、眺め降ろすと言った。
「ま、私はなんにもすることなかったですね」

こうして、私の出産は無事終わった。
息子:3222g




mylo




【余談】

体の清拭をして頂いた後、上の病室へ移された。生まれたての息子は、小さなベッドに横たえられて傍にいる。これからどうすりゃいいのさと思っていると、7時ごろだったろうか、医師が現れた。簡単に体ののチェックを済ませる。
「じゃ、帰っていいですよ」
「え??」
「どうしても一晩、ここでと言うなら、それはできますが、帰っても構いません」
「え!・・・あの、お願いします。今晩は、ここに置いてください」
「じゃ、明日の朝、お帰りください。では・・」

医師は立ち去った。







M○○○、20年、無事に生きてきてくれて本当にありがとう。
それだけで、ママは十分に幸せです。
M○○○が生まれた日のこと、昨日のことのように覚えています。
きっと、パパも同じでしょう。

1996年10月6日、Oxfordの病院でした。
M○○○と目があった瞬間、あの時、M○○○がママの顔を見ることができたのかどうかわからないけれど、ママは、心の中で「よろしくね」と言いました。

M○○○がこの世界に来る通り道にママを選んでくれたこと、とてもとても嬉しく思っています。
(きっと、M○○○は「僕は知らないよ。選んだわけではないよ」と言うのでしょうが^^)

ママにとって、M○○○のママであること、パパのワイフであること以上の幸せはありません。

ママの幸せと大成功は、M○○○という男の子のママになれたことです。

M○○○のこれからに願うのは、ただただ、健康。
そして、M○○○が生きていることを目一杯楽しんでいってくれること。

生きていれば、辛いこともあるでしょう。
それでも、M○○○はその一つ一つと上手につきあい、きっと、楽しく生きていってくれることと信じています。

これから先、ママがしてあげられることは、ほんのほんの少しでしょう。
でも、いつも、いつでも見守っています。心は思い切り寄り添っています。

M○○○のためなら、ママはどんなことでもします。パパもきっと同じです。

元気に、楽しく生きてください。



抱えきれないぐらいの愛を込めて

ママ

2016年10月6日




Marc's birthday (July 2000)7








「ねぇねぇねぇねぇ、面白かったよ」

スカイプの向こうにいるダーリンに言う。
日本に行ってから、スカイプで毎日のように話す。
(今回の日本滞在、2013年1月18日~4月3日)

「何が?」とダーリン。

「ほら、出かけるとき、寒いと困るからって何枚も重ね着していったでしょ?半袖のTシャツの上に長袖のを二枚着て、その上にフリースのセーターを着て」

「Yes」

「チューリッヒで乗り換えて、成田行きの飛行機に乗り込んだら、雪のため遅延とか言うことで、随分待たされたのね。出発するまで映画も見られないし、座席の上でバックの中片付けたりして、荷物を上に載せたり降ろしたりしてたの。そのうち袖口があがってきたのに気づいて、気持ちが悪いから引っ張ろうと思ったの。よくあるでしょ?そういうこと」

ダーリンは黙って聞いている。

「まず右手で左側の袖口に手を入れて、中のTシャツを一枚ずつ引っ張ったのね。そして、今度は左手で右側の方を引っ張ろうと思ったの。ところが、何度触ってみても、中のTシャツの袖口が一枚分しか見つからない。あれ?もう一枚は上の方に上がっちゃったのかな?と思って、ずずずずと手を入れてみたのだけど、ないのよ。おかしいなと思って肩まで触ったんだけど、やっぱりない。ここで、一瞬、頭の中が白くなった。左はあるのに、右はない。これってどういうこと?え?!え?!え?!見たいな。もしかして着るの忘れた?とかも思ったんだけど、左手側を触ると、確かにTシャツの袖口は二枚ある。しばらくぼーとしてたと思う。でも、気を取り直して考えた。落ち着いて落ち着いて、考えられるのは・・・そう思って、腰の辺りに触れてみたら・・・・。あった。ウエストの辺りにぐちゅぐちゅっと。片手通すの忘れていたのね。ずっと気がつかなかった。そんなことってあるのね。面白かったよ」

「・・・・・・・・・・・・」

スカイプの画面の向こうから、ダーリンの大きな大きなため息が聞こえた。





sigh











息子がチャリティーに協力したいと言い出したのは、11月半ばの日曜日のことだった。

なんでも、前の週の金曜日、脳性麻痺の人々を支援するチャリティー団体のプレゼンテーションを見たのだという。
学校内では、手作りクッキーやブレスレットなどの販売で寄付金を集めてはいたようだったが、どれも細々と行われているだけで、金額はそれほどになっていないとのことだった。

で、息子は一案を考えた。
目標額を決めて、そのターゲットを突破したら、息子が坊主になるというのはどうだろう?というもの。

一も二もなくダーリンと私は賛成した。

あくる月曜、息子は朝早く家を出て、提案を先生に伝えにいった。
聞いてくださった先生は、好意的な反応を示してくださり、校長を交え、他の先生方と協議するという返事を頂いた。
ここまでの報告を、私たちは息子からの電話で月曜日の午前中に知った。

午後5時。
いつものように息子を迎えに行くと、そこには浮かない顔があった。
息子の提案は却下されてしまっていた。
理由は、スペインの慣習にはそぐわないからということ。

何かの目標を達成できたら、頭を丸める?というようなことはイギリスでは結構行われることなのだが、スペインでは、特に、子供たちの間では普通ではないというのがその理由のようだった。

息子はひどくがっかりした。
夕食の席で息子を慰めた。
息子が寄付金を集めるためのアイデアを考えたこと。それを実際に提案して実行しようとしたこと。そのことは素晴らしいことであり、とてもりっぱだと思う。
そう言っては何度となく褒め慰めたのだが、息子の気持ちは晴れなかった。

夕食後、息子は言った。

「あきらめない」

「え!?どうするの?」

「ビデオを作って、提案をもう一度訴える」

その夜、息子とダーリンは5時間かかってビデオを制作した。

そのビデオの中での息子のスピーチが以下である。


*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:



委員会の皆様

僕は、〇〇〇〇・△△△△、×年生です。
先週金曜日、脳性麻痺を患う若年患者のためのチャリティー団体、ASPADISについてのプレゼンテーションを聞きました。とても考えさせられるもので、できるのなら今週、この学校でも寄付を募るため、最大限のことをしたいと思いました。

まず、寄付金を募るために目標額を決めることを考えました。チルドレン・イン・ニード(『愛は地球を救う』のようなチャリティー)などのテレソンでやるようにです。1000ユーロという金額は大した目標ではありませんが、でも、スタートとして、募金を集めるための目標となりえます。

次に、寄付金を集めるために何か励みとなるような賞品があればいいのではないかと考え、僕が坊主になったらどうだろうと思いました。ちょっと芝居がかっているように感じられるかもしれませんが、生徒たちの興味を引くことはできるのではないかと思います。

僕の髪など大した問題ではありません。1、2週間もすれば、またもとのように伸びます。でも、脳性麻痺は一生涯の問題です。そして、今、この団体への寄付金は経済的危機により枯渇しており、人々の協力を必要としています。

●●●●は素晴らしい学校です。ここでは様々な機会が与えられています。スタッフは生徒たちの学力向上に最善の努力をしてくれていますし、僕たちはこれからもずっとその期待に十分応えることができるだろうとも思います。

でも、●●●●は単に勉強するだけの場所ではありません。学校の外の世界でも僕らが日々、進歩していくことができるよう手を貸してくれています。その中には自分で考えるということも含まれていると思います。新しいアイデアを思いつき、それを実行に移す勇気をもつということです。

ここで学ぶことができないことがあるとしとしたら、それは失敗するということです。

やってみることと失敗することとの間には大きな違いがあります。やってみても必ずしもゴールに到達できるとは限りません。失敗したくないのなら、なにもしなければいいのです。

僕は少しぐらいバカみたいに見えるかもしれないことなど気にしません。そして、失敗するということも。
寧ろ、失敗からの方が成功からより多くを学ぶことができるのではないかと思っています。
と言っても、もちろん僕は成功を目的としていますが。

このチャリティーのために少しでも多くのお金を寄付してもらえるよう生徒に呼びかけるための短いビデオを作りました。
後、僕に必要なのはチャンスです。

僕の名前は、〇〇〇〇・△△△△。
僕にこの計画行う許可を与えてくださるようお願い申し上げます。


*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:*:--☆--:




息子は翌火曜日の朝、やはりいつもより早くに家を出て、このビデオを提出に行った。

委員会からOKが出たのはその午後だった。





IMG_8863mylo cool


























「ねぇ、ママ、もし、今日が人生最後の一日だったら、どんな風に過ごしたい?」

ようやく春の陽射しが感じられ始めるようになった日曜日の朝。

息子は朝食の準備をしている。

朝の一仕事を終えシャワーを浴びた私は淹れたてのコーヒーを前にテーブルに腰を降ろしていた。

あとふた月もすればティーンエージャーの仲間入りをする息子は、涼しい顔でシリアルをボールに入れている。

その横顔を眺めながら、突然の問いかけに素直に心を満たした最後の一日の希みを告げた。

「そうだね。それがいいね、ママ」

優しい声が返ってきた。



                            - ある春の朝の思い出 -


coffee








バトルが始まったのは夜中の3時だった。
バチっという身体を叩く音で眼が覚めた。

「〇×△■!」

ダーリンの罵声。
あは~ん、どうやらあいつだな。と思い目を開く。

「ダーリン、大丈夫?・・・・・蚊?」

「Yep!」

急いで上掛けを頭の上まで引っ張る。
理由1、蚊からの防御 2、点灯する部屋の電気からの避難

たかが蚊と侮るなかれ。スペインの蚊、或いは、バレンシアの蚊、かなりの強敵だ。
最初は虫刺されの一つや二つと思ったが、と~んでもない。一回喰われたら、腫れ上がってしまう。その上、その痒みといったら、ただ事ではない。それが一週間以上続く。
去年の夏は初めてだったので、様子がわからず、散々な目に遭った。
両手に刺された時など、グローブのようになってしまった。

というわけで、今年は細心の注意を払っている。
アレルギー体質のダーリンの場合、私の症状を上回る。必死になって当然だ。

20分ほど、ダーリンと蚊の攻防戦は続いたが、敵も逃げ足が速く、ダーリンは敗退気味。
と、何を思ったか、ダーリン、突然寝室を出て行った。もちろん、蚊を逃がさないためしっかりドアは閉めていく。

煌々と電気のついた寝室で上掛けを被って待つこと数分。
帰って来ない!

え!・・・・
私と蚊を残したまま、どっかへ行っちゃったの?とおそるおそる立ち上がると、ダーリンが戻ってきた。
右手に蠅叩き、左手に虫のスプレーを所持している。
そうか、いよいよ本格戦だなと思ったので、喉も渇いた私は、ダーリンを寝室に残してキッチンに向かった。

寝室からは時折、罵声とどこかを叩く音、スプレーの音が聞こえてくる。

「×△■□&%!!!」

かなりの叫び。
これは痛みが伴っているなと思ったが、今救援に行っても何もできないので、じっと待つ。

更に20分ほど経って、ダーリンは寝室から出てきた。
後ろ手にドアを閉める。
むむむ。どうやら撤退を決めたらしい。

傷ついた戦士には休養が必要だ。

「大丈夫?どこかぶつけたの?」

「うん。足の指・・・」

かなり不機嫌。
こう言う時には、うるさく付きまとってはいけない。

「目が覚めちゃったね」

「・・・む・・」

ドタバタ騒ぎが聞こえたのか、息子も起きてきた。

朝、4時、家族一同キッチンに会し、苦笑い。


結局、その後、ダーリンと私はリビングのソファで寝た。

翌朝、

「ゆうべは大変だったね。ダーリン、足は大丈夫?」

ダーリンは、足を出して指を指差した。

「折れたと思う・・・」

あちゃ~!
ダーリンの右足の薬指?は色が変わっていた・・・・。

完敗だ。




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cat- mo-dame




夢を見た。

ダーリンがもう愛していないと言って、離婚の話に至った。

もちろん険悪になり、

「息子は私が面倒見ます」

と言って目が覚めた。

横を見たらダーリンがいたので、まずぶってから、夢の説明をした。


「でね、最後に『息子は・・・』と言って目が覚めたの」

と言うと、ダーリンは爆笑。

そして、急いで息子に夢の話の報告に行った。

しばらくして聞こえてきたのが、二人の爆笑。

「ママ~、それ、間違いでしょ。最後の台詞は『息子が私の面倒を見ます』だよね・・・」

(--#)どうせ、私は役立たず・・・








ダーリンと私は同じ部屋で仕事をしている。

いつも横を見るとダーリンがいる。(時には後ろの時もあるが・・・)

ある日、ダーリンがコンピュータの前に腰を降ろして一人でニコニコしていた。

何か嬉しいことがあったのかな?と思い、

「ダーリン、どうしたの?何が嬉しいの?」

と声をかけた。

「うん、あのね・・・・」

ダーリンはもう一度嬉しそうに微笑んだ。

「あーこれからyumiと一緒に年をとっていくんだな~って思ったら何だかすごく嬉しくなった」

涙がこぼれそうだった。


IMG_0440







全部でいったい何曲ぐらい歌ったのだろう?

息子が幼いとき、眠りにつくまでのわずかな時間、よく歌を歌っていた。
一人で寝られるようになるまでの期間だったのだから、三つか四つの頃までだったのだろうか?

寝息を立てるまでの20分ほどの間、添い寝をしながら歌を歌った。
物語を聞かせてあげたりもしたのが、本を読むと興奮して眠らなかったので歌にした。

大きな栗の木の下で
ぞうさん
犬のおまわりさん
ちょうちょう
おつかいありさん
七つのこ
あかとんぼ
いとまきまき
ふしぎなポケット
どんぐりころころ
浦島太郎
大きなたいこ
かえるのうた
かごめかごめ
かたつむり
シャボン玉
通りゃんせ
とんぼのめがね
花嫁人形
めだかの学校
桃太郎
山羊さんゆうびん
夕焼け小焼け
ゆりかごの歌
むすんでひらいて
・・・


挙げ始めたら切りがない。

しまいには、歌う私も退屈してしまい、「なごり雪」なども歌っていた。

息子は私の横で、大きなまん丸の目をパチリと見開きママの歌う下手な歌に聞き入っていた。
ママが美空ひばりのような歌い手だったら、息子は今頃音楽の天才になっていたかもしれないのだが、残念ながらママの音楽の才は平均以下だったので、息子は音楽好きではあるが、才能に関しては普通どまりだ。(でも普通でよかった)

日本の歌をたくさん歌った。
英国で生まれた息子に、少しでも日本の文化に触れてもらいたいからでもあった。

先日、ふと息子がつぶやいた。

「ママさ、小さい頃よく歌を歌ってくれたよね~」

「うん・・(へ~覚えてはいるのね)。いつも一晩に20曲から30曲は歌っていたように思うのよ」

「・・・うん、そうだったよね。僕ね、せっかくママが歌っているのに、寝ちゃいけないと思って一生懸命目を開いていた・・・」

「・・・・・え・・・!」

「・・・うん。懐かしいな~」

あちゃ~、息子よ、そうだったのか。

ママは寝かせようと思って必死に歌っていたのに・・・。



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ダーリンが、これはきっとyumiが好きだよと、教えてくれたYoutubeです。

私は見終えて一人で大きな大きな拍手をしました。


62年の結婚生活を共に過ごされたお二人が、
検診に訪れたクリニックに置かれてあったピアノを目にされて即興演奏。

ご主人は今年(2010年)90歳になられるそうです。


















2010年5月、バレンシアに到着。
息子は学校に通い始めました。
入ってまもなく学校で歌を作るというプロジェクトがありました。

で、息子が作りました。

http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66538745.html

この記事に書きました、全校総立ち、腕振り、大合唱の傑作です!

親バカを笑って見過ごしてくださる方は必見です。











”No Hablo Español [Supermarket Espanol] ”


オレンジは好きだから、バレンシアは、ま、大丈夫そう。
僕はジュースを、パパは美味しくて安い赤ワインをいっぱい呑める。
でも、スペインに来てからまだ二週間ぐらい。まだそんなに経っていないんだよね。
だからプソルに越してきてから自信を持っていえるのはこれだけなんだ。
「スペイン語は話せません」
「スペイン語は話せません」

ボカディーオは大好きだから、ほとんど毎日食べている。
サンドイッチだよね、だけど、そう呼んじゃいけないんだ。
でも、スペインに来てからまだ二週間ぐらい。まだそんなに経っていないんだよね。
だからプソルに越してきてから自信を持っていえるのはこれだけなんだ。
「スペイン語は話せません」
「スペイン語は話せません」
「スペイン語は話せません」
「ごめんね」
「スペイン語は話せません」
「わかんないな」
「スペイン語は話せません」
「逆立ちはできないんだ」
「スペイン語は話せません」
「ボカディオは好きだな」
「スペイン語は話せません」
あ、「犬はぺロです」
でも「スペイン語は話せません」









頁の間から小さな紙片がハラリと滑り落ちた。

「これ、なに?」

ひらひらと舞い降りたそれを拾い上げる。

「あ、それね、すごく好きな詩なんだ」

Mは私の手元に目を落とした。

手の平の上の紙片。私は小さな文字を追った。

「よかったら、あげるよ」

「いいの?」

「うん、他にもあるから」

「・・・ありがとう」


Mの故郷に呼ばれた。

部屋に足を踏み入れたとき、大きな額に入れられたその詩が目に映った。

「あ、この詩、前にくれた詩ね?」

「うん、そうだよ。すごく好きなんだ・・だから部屋にも飾ってある」

近づいて見上げる。

「・・・ね、よかったら意味を説明してくれる?」

Mのお母様が淹れたてのコーヒーを持ってきてくれる。

時折そのコーヒーを口にしながら、Mは丁寧にゆっくりとその詩を解説してくれた。

「本当にいい詩ね・・・・自分でも読んだけれど、つかみきれないところがあったの。ありがとう」

こうして、詩は私の一部になった。


やがてその額は私たち部屋に飾られることになった。



「あの詩、訳してみれば?」

「え、あの詩を?詩なんて難しくて・・・」

私は躊躇った。

「やってみたらいい」

和訳を見つけようとしたが見つけられずにいた。

両親や友人に伝えたい。

その一心だったのだと思う。

詩の心を思いを込めて日本語に託した。


desiderata-






デシデラータ -切なる願い-
            
マックス・アーマン



たとえ喧騒のさ中にあっても、心静かにいなさい。
安らぎは、静寂の中にあるものだということを
忘れてはなりません。
できるだけ誰とでも、屈することなく仲良くしなさい。
真実だけを、凛として、静かに語り、
人の言葉に耳を傾けなさい。
どんなに愚鈍な人であっても、どんなに無知な人であっても、
語る言葉を持っています。
騒々しく、対立を好むような人々には
近づかないようにしなさい。
心を煩わされるだけです。
人と比べれば、己惚れか、嫉みを生みます。
いつの世にも、より優れた人も、
また、そうでない人もいるのです。

成し得たことを、
しようとしていることと同じように楽しみなさい。
例え、それがどんなに些細なことであっても、
自分がしていることに心を向け続けなさい。
時と共にその形を変える宝とは違い、
それはあなた自身のものだからです。
金銭を扱う時には十分に気をつけなさい。
世の中にはたくさんの罠が待ち構えています。
ただ、そのために善意にまで心を閉ざしてしまわぬよう。
理想に向かって努めている人々はたくさんおり、
偉大な勇気にもどこででも出会うことが出来るのです。

自分の心に素直でありなさい。
何よりも愛を装っていけません。
また、蔑んでもいけません。
全てが渇ききり、何の実りもなくとも、
愛だけは、常に生い茂る緑のようにそこにあるからです。
若さがなしえてきたことを潔くあきらめ、
年月の知恵に耳を傾けなさい。
突然の不幸にも自らを守ることができるように、
心を強く育てておきなさい。
自分で不幸を作り上げ、思い悩んだりしてはいけません。
恐れは、大抵、疲れや孤独が生み出すものです。

程よく己を律しながらも、自分に優しくありなさい。
木々や星々と同じように、あなたはこの世界の一部です。
ここにいるべき人なのです。
気づいていようといまいと、
世界は定められたように繰り広げられていきます。
だから、何を神と信じていようと、
神と敵対したりしてはいけません。
この混沌の世界の中で、何に苦しみ、
何を追い求めていようと、
心に安らぎを持ち続けなさい。
まやかしに溢れ、日々の苦役に苛まされ、
何の夢も持てないとしても、
それでも世界は美しいのです。

明るくありなさい。
そして、楽しむことに努めなさい。

(訳 ygj)







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“あっかんべ~”

と舌を出しているチンパンジーの写真を見ながら思ったのだが、この“あっかんべ~”も舌の長さがある程度なければ効果的ではない。

息子が「舌小帯短縮症」だと診断されレーザーで手術をしたのはちょうど一年ほど前のことだ。

手術と言っても、麻酔をかけてちょっと切るだけでものの10分ほどで終わる。
歯科医に行って初めてそう知らせらた時、「何それ?」というのが正直な反応だった。

舌を上に持ち上げると、舌の裏側に細いひもみたいなものがある。
これは舌小帯と呼ばれるそうだ。
生まれつきこの舌小帯が短い場合がある。

ひどい場合には唇が舐められない。
もう少しましな場合でも、舌で歯に全部触れることができないので歯のお掃除ができない。
或いは、いわゆる舌足らずで発音に影響する。

ここまではある程度育ってからの問題だが、乳幼児においては授乳に関係する。
乳首への吸い付きがうまくできないため、哺乳が効果的にできない。
これはお母さんにとっては重要な問題だ。

“あかんべえ”が効果的にできないのはさておいても、歯の衛生や発音に影響するとなると事は少し深刻だ。

息子は無事“あかんべえ”が効果的にできるようになったのだが、
ここにはもう一つ大きな問題(人によっては)が関わっていた。

真面目な話である。

この「舌小帯短縮症」のパンフレットにしっかりと明記されていた。

― 上手なキスができない! -

なるほど。

もう少し読むと、性生活にも支障をきたすかも知れないとあった。
この辺のことは・・・・・・後省略。





6月3日は、父の誕生日だった。(2011年)

できればその日のうちに息子の声を聞かせてあげたいと思ったのだが、時差の都合上、連絡がとれる時間というのが限られている。
こちらの朝は日本の遅い午後になる。タイミングとしてはちょうどいいのだが、朝はなにやらかにやらと忙しい。無理かな~?と思っていたのだが、思いのほか息子の朝の支度がスムーズに進み、少しだけ時間が取れた。

早速スカイプで自宅に電話を入れる。

母が電話口に出た。

「今、〇〇〇を出すからね、お父さんにおめでとうって言うって言ってるから・・・」

「はいはい、ちょっと待ってね」

遠くなる母の声に被さるようにして父の声が聞こえてくる。

「お父さん、〇〇〇が話したいって」

「おお、そうか」

父のうれしそうな声が耳に跳ね返る。

息子にヘッドフォンを渡した。

「・・・・おじいちゃん、お誕生日おめでとう・・・」

ニコニコしながら話しを始める。息子が腰を下ろした机の傍に立ち、しばらく話を聞いていた。

「うん、うん」と父の話に相槌を打ちながら、息子は時折言葉を挟む。

「・・・おじいちゃんは元気?・・・うん、僕?、僕は元気だよ。パパ?パパは疲れているかな~?あのさ、僕思うんだけど、おじいちゃんの方がパパよりきっとずっと元気だよ」

スラスラと日本語が口をついて出てくる。それを聞きながら、あーよかったと、改めて思う。

イギリス人のダーリンとの間に子供ができたとき、最初に考えたのは母国語を何にするかということだった。

二ヶ国語を話したとしても母国語はしっかり持ってもらいたかった。
恐らく日本で長く生活することはないだろうとわかっていたので、やはり母国語は英語だろうということに結論づいた。そのことに異存はなかったが、それでも日本語を少しでも話してもらいたいと思いは、いつも私の中にあった。

息子は口をききはじめるのがそれほど早い方ではなかった。片言を話し始めるようになってからは、少しは日本語も口にしてくれるだろうかと期待したのだが、ほとんど出てこなかった。日本語で話しかけると言っていることはわかっているようで答えは返ってくるのだが、いつも英語でだった。
私からだけの日本語ではやはり無理なのだろうかと一時はあきらめかけた。

それでも日本語で遊ぶことはし続けた。日本人のお友達を見つけたり、日本のビデオを一緒に見たり、本を読んだり、歌を歌ったり・・・
仮に話せなくても、日本の文化を知ってほしかった。

息子が小学生の間は、年に一度、里帰りをしていた。

あれはいつのことだったのだろう?だいぶ英語ではおしゃべりをするようになっていたのだから4つぐらいにはなっていたのだと思う。日本に行く飛行機の中、三人がけの席に、通路側から私、息子、日本の女性が座っていた。私がちょっとだけ席を外して戻ってくると、息子は隣に座っていらした日本の女性とおしゃべりをしていた。英語を話す方なのかな?と思い聞き耳を立てると、なんと日本語だった。

それもペラペラと。
耳を疑った。

「え?うそ~、何?やだ~。この子ったら日本語話せるんじゃない!」

その時の驚きと、頭の中を飛び交ったクエスチョンマークの数!

そして、その中からほんの少しまったくもうという思いも顔を覗かせた。

おばちゃんと楽しそうに「日本語で」話をする息子ののんきそうな顔を見ながら、ちょっとだけ柔らかな腕をつねってやりたいような気分だった。

日本語を聞くことと話すことは、何とかなっていったが、読み書きはまったく別であることはよくわかっていた。
これは学習するしかなかい。

初めはドリルのような練習帳などを使おうかと思ったのだが、家で一人きりでやらせるのではあまりにも孤立しすぎているのではないかと思い、公文教室にいれることにした。

公文教室はイギリスでもたいそう人気で、あちこちにあった。イギリス人の方はもちろんのこと、私のように国際結婚をした方や、駐在の方のお子さんたちなどが利用していた。

公文の学習方法は優れたメソッドのひとつだ。確実な実績も残している。

が、

正直に言うと、私自身は苦手だった。公文式学習法は私にとってはまさに苦悶でしかない。

でもでも、

私がダメだからって、息子がそうだとも限らない。やってみなければわからない。そう思い始めたのは、4つぐらいの時だっただろうか。

結果的には、息子にとっても、私にとっても、難行苦行となった。それでも、何とかひらがなとカタカナの読み書きができるところまでこぎつけ、そして、せっせとやめた。

それから先は私が先生となり、できる限りの読み書きを奨励してきた。

息子の日本語の能力はそれほどたいしたことはない。

聞いたり話したりはそこそこにできるが、読み書きは、小学校の低学年ぐらいだ。
もっと教えてあげたかったし、本人も勉強したがったのだが、現地の学校での勉強が忙しくなりそこまで手が回らなくなってしまった。
今は、日本のビデオを見たり、漫画を読んだり、ルビつきの本を読むことぐらいしかしていない。

それでも、息子の日本語はまあまあだ。
そして、母国語である英語の能力はとても高い。

ママとしては満足である。(^0^)

〈追記〉
この後、息子は高校で日本語を選択し、読み書きもかなり上達いたしました。


me, mylo and piano













自称「難しいお年頃」の息子。

畳んだ洗濯物などを持って部屋に足を踏み入れると、

「あ、あ、ママ、こここは、僕の部屋だ!僕の部屋で何をしているんだ!僕はティーンエージャーだよ。難しい年頃なんだ」

と大袈裟に大騒ぎしてみせる。

もちろんふざけてなのだが、それがここ一年ほど続いている。

私はその度に「何しているって、踊っているの!」とか

「ジョギング中」とか言って応じてきたのだが、あんまり繰り返すので、

「おんなじ冗談に厭きない?」と聞いてみたりしたのだが、

息子はにんまり笑って「全然!」と答えていた。

が、先日・・・・、

息子が言った冗談への反応が遅れた。

決して意図したわけではなく、単にタイミングだったのだと思う。

即答しない私に、息子は不安な眼差しを向けた。

「・・・・・・お願い、ママ、僕を見捨てないで・・!」

息子は私の腰に手を廻し抱きついてきた。

そんな息子の頭をよしよしと撫でながら私は優しく囁いた。

「大丈夫よ。ほら、ママはパパにも厭きてないでしょ?」

息子はそれを聞くと、目を上に向けて一瞬黙考した。そして、いたく納得したように一人頷くと、ニンマリと笑みを作った。










ダーリンは私をいろいろな呼び方で呼ぶが、そのひとつに「ワイフ」がある。

「ワイフ!」とか

「マイ・ワイフ」と呼ぶ。

他の人がそう読んでいるのを聞いたことはあまりないので、それほど一般的な呼び方ではないのだろう思う。
私はそれに応えて、「ハズバンド!」とか言ってみるのだが、何だか字あまりでピンと来ない。


典型的ワイフというものがあるとしたら、私は落第してもあまりある鈍妻である。
でも、幸いなことに、ダーリンは典型を模索してはいないようだ。

ε-(^、^; ほっ

ダーリンのワイフとして合格するために、ただひとつ、大事な仕事がある。
(と私は勝手に信じている)

それは!

朝、ダーリンのコーヒーを入れることだ。

なので、朝、ダーリンは私に聞く。

「ゆみ~、今日はワイフした?それとも自分でワイフしなきゃならない?」

ワイフは我が家では動詞化している。






洗う目を




朝目覚めたら、なんとなく目がしばしばするので、

バスルームで目を洗っていた。

コップに水を入れてパチパチとしていたら、ダーリンが入ってきた。

「あ、yumi、ちょっと違うよ、

そこからだとあんまり上手くいかないと思う。

喉が渇いたんなら、コップをもう少し下のほうまで持って行かないと」

「〇×△?!」










2011年5月4日(水)と5日(木)、2日続けてミュージカルの舞台が学校で上演された。

出演者は、お芝居のクラブ、ダンスクラブ、コーラスクラブの生徒たち。

息子はGleeというコーラスクラブに所属しピアノを弾いている。
この舞台でも演奏で参加だと思っていたのだが、今回は先生がピアノを担当することになったらしく、コーラスでの参加だった。と言っても後ろの方で、もそもそ口を動かしていただけだったが・・・。

学年は日本で言えばちょうど中学生の年齢の生徒たち。

舞台自体はなかなか派手で、主題はマイケル・ジャクソン歌うところの「Heal the World」
歌あり、踊りあり、お芝居ありとりっぱなミュージカルに仕上がっていたと思う。

上演が無事終えた木曜日の夜、夕飯を囲みながら出演者の子たちの話をした。

「あの舞台の真ん中で歌を歌っていた女の子は何て言うの?歌がなかなか上手よね」

「あ、あの、『よく成長している女の子』ね」

「『よく成長している』・・う~ん、そう言われればそうだけど・・・その『よく成長している女の子』は同学年?」

「ううん、1学年上かな?」

「ほら、ダンスがスバ抜けて上手な子がいたじゃな?」

「あ、あの『運動抜群のおチビちゃん』ね・・・」

「ね、名前あるでしょ?知らないの?・・・」

息子はちっとも名前を呼ばない。そのうち、ダーリンまでが、

「その『よく成長している女の子』の隣で歌っていた男の子は・・・」とか話し出す。

結局、名前はさっぱりわからず仕舞いだったがいろいろなキャラがあることはよくわかった。

「それで、〇〇〇はどんな女の子が好きなの?」
ふと聞いてみた。

「そうだな~。『私を見て見て』タイプはパスだな。『私って何て素敵なの!』タイプも嫌だな・・。『ねえ、構って構って』タイプもちょっと・・・・。う~ん、頭がいい子がいいな。それで僕にべったり頼らない子」

ふ~ん、なるほどね。

のほほんとした性格の息子には、そういう女の子がいいのかもねとダーリンと私は顔を見合わせた。









その日も、その街特有の雨に濡れそぼったような空模様の日だった。

仕事を終えて、学生会館にあるパブに足を踏み入れると、顔なじみの生徒たちがテーブルを囲んでいた。

ちょっとだけ挨拶をと、輪に加わった。
年度末の試験も終わりに近づいており、学生達の誰もが少し気だるい雰囲気で夏休みを待っていた。

何がきっかけだったのだろう?
PCの話になった。

当時は、まだまだPCが珍しい頃。使いこなせる人は限られていた。
ワープロしか使ったことのない私は新しくオフィスに入ったPCにどう対処していいのかわからずオタオタしていた。

そのことをふとつぶやいた。

「そんなに難しくないよ」と学生の一人が言ってくれた。

「そうなの?私でもわかるかしら?」

「基本的な使い方さえ理解できれば大丈夫だよ」

「理解するのに時間がかかる?」

「そんなことないよ。よかったら説明するよ」

他愛のない世間話だったと思う。

結局、その午後、時間が空いているというMの言葉に応じ、教えを請うことになった。

その時に、私が思っていたことは、MにPCの使い方を教えてもらうということ。

Mの思っていたことはPCの使い方を説明するということ。

それだけだったと思う。

降りそぼる雨音を聞きながら二人で過ごした午後が運命を変えてしまうなどと二人とも思いもよらなかった。

1994年5月20日のこと。

金曜日だった。

その二年後、ダーリンと私は一緒になった。





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ただ今ダイエット中のダーリンは、「やせるスープ」と銘打って、昼食はスープを作って飲んでいる。

私が二階のオフィスから降りてくると、ダーリンはテーブルに一人で腰を降ろし、ママさんから送られてきた新聞の切抜きをパラパラとくりながらスープを飲んでいた。

飲み終えて、すくっと立ち上がり、キッチンに向かう。

ご馳走様なのかな?と思ったら、再びボールを抱えて戻ってきた。

私と目があう。

「(咳払い)やせるスープを二杯飲むとどうなるかわかる?」

「・・・・?」

「やせるスープ×2で、2倍早くやせられる!」

「・・・・!?」

二杯目もしっかり飲み終えると、

「これ以上飲んで、yumiが僕のことがわからなくなると困るから、仕事する!」

と二階に上がって行った。










ダーリン二人とお散歩に行った。
もちろん、私はカメラを携えて。

ぷら~り、ぷら~りと歩いていると、ピンクのお花の木が目にはいった。



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「あ、あれなんだろう?」と私。

ダーリン「花だな」

息子「ママ、あれは木だよ!」

ダーリンズのそっけない答えなどものともせず、私は木の下にダッシュした(のつもりだったけど、きっとジョギングの速度だったと思う)。

カメラを構える。

でも、木は高く、お花は遠い。

思いっきり手を伸ばしたが、それでもやっぱり遠い。

「と・ど・か・な~~い」
私は叫んだ。

「届かないね・・」とダーリン。

「と・・ど・・か・・な・・~~・・い」もう一度叫ぶ。

「ほら、パパ~、ママが届かないって言っているよ」

ダーリンがやれやれという顔でそばにやってきた。

代わりに写してもらおうと思い、カメラを渡そうと手を伸ばしたら、ダーリンはしゃがみこんだ。

「はい」と肩を叩く!

「・・・」

私はにんまり笑って、ダーリンの肩に乗った。



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http://www.botanic.jp/plants-ha/fusosi.htm











バスルームに行くと、ダーリンが裸ん坊で髭剃りをしていた。

バスルームでどんな格好をしていようと、ダーリンの自由だ。

私は横で髪を梳かし始めた。

ダーリンは髭をそり終えると、剃刀をシンクの横に置き、

「よし!」と言った。

何がよしなのかな?と思っていると、腰を屈めてシンクの下から体重計を取り出す。

そして、恭しくバスルームのフロアに置いた。

「いいか!これが大事だ。正確な体重を量る前には必ず髭も剃る。じゃないと正確に測定できないだろ!」

「・・・・・・・う・・・うん、でも・・・・」

と口元まで言葉が出かかったが、

「そうね、ダーリン、確かに大事だわ」

と俄かよき妻の私は答えた。











ダーリンと私はよく散歩をする。
一緒になってからどのくらいの道のりを二人で手を繋いで歩いてきただろう?

出逢ったイングランドの北の街でも。
新婚生活を始めたオックスフォードの小さな町でも。
移住したシドニーでも。
もちろん、ここバレンシアでも。

シドニーでのお散歩からは、私の手にはデジカメが握られた。
散歩の途中で目にしたあれやこれをパチパチと写す。
一番多いのはお花。
次が動物や鳥、虫、爬虫類・・・・・

シドニーでのこと。
家の近くの坂道を歩いていて、蟷螂君に出会った。

私は早速しゃがみこみ写真を撮り始めた。
しゃがんだだけでは同じ高さになれないので、結局は寝転んだ。



かまきり 1




蟷螂君はその姿も雄雄しく、とてもよいモデルを務めてくれた。
撮り終えて立ち上がり、服の汚れを落としながら、
「ありがとうね。じゃぁね」と手を振った。

待っているダーリンのところに行こうと歩き始めると、蟷螂君、まだこちらを見ている。
私が行く方行く方へと首が回る。



蟷螂




「お待たせ!」
ダーリンに声をかけ、手を繋いで歩き始めた。
ちらりと振り返ると、蟷螂君、まだ、こちらを見ていた。

その時、ダーリンがぽそりと言った。

「ちょっと、話をつけてくる!」

「・・・・・え?!誰と?」

「決まっているじゃないか。あいつだ」

ダーリンはこちらを見ている蟷螂君を指差した。

「・・・・・僕のワイフだって言ってくる」

そう言うと、ダーリンはスタスタと歩き始めた。





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大学時代からの親友がいる。

男と女の間に友情が成立するの?という議論はよく聞かれるが、やつとは親友だ。
一緒に大学で映画を作っていた。

その後、やつはかの有名なぴあで編集者となり、映画評論を書いたりと大層活躍をした。

日本に帰ると、必ず一度は呑む。

ただ、息子が小さい頃は、置いて外出というわけにもいかず、家に来てもらって酒盛りをすることが多かった。

ある年のある日、あやつはいつものようにやってきて私と差しで飲んでいた。

まだ夕刻の時間で、息子は私たちが飲んでいるそばでゲームか何かしていたのだと思う。

やつは言いたいことをいう。

「yumiはさ、美人ではないよね。美人っぽい雰囲気はあるけどな」
とそんなようなことをほざいた。

自分が美人でないことなど百も承知のうえ、やつに何を言われても気にもならないので、私はただ笑っていた。

と、その時、ゲームに夢中だとばかり思っていた息子がすっくと立ち上がった。

そして大きな声で、は・っ・き・りと言った。


「ママは、美人です!」


その時のやつの顔。

慌てて立ち上がると、息子に深々と頭を下げた。

「ど・ど・どうも・・・すみません」



めちゃくちゃ、おかしかった。(^0^)










「今日ね、会社で笑われたんだ」

ダーリンが仕事から戻ってきて言った。
とても不服!という思いが表情から見て取れる。

私としては、ダーリンが笑われるのは特に珍しいことでもないので驚きもせずに聞き返した。

「・・・ふ~ん、どうして?」(でも、若干の驚きを込めて・・)

「あのね、ほら、昨日、会社の人に会ったでしょ?」

「うん、ホテルでね」

その時、ダーリンは日本の会社で仕事をしていた。
オックスフォードにいた時のことだから、2000年頃だろうか?

前の晩に友人たちと食事に行ったホテルで、その会社の方々が会食をしているのにぶつかった。素通りというのも妻(強調!)として失礼なので、挨拶に伺った。

ダーリンの紹介を受け、いかにも日本人らしく(って私は日本人だが)頭を下げた。

「主人がいつもお世話になっております」と恭しく。

内心では、へぇ~、もしかして、こんなこと言うの初めてかしら?と半ばニヤニヤしながら・・。

ダーリンはその時のことを話していた。

「でね、今日、〇〇さんが僕のところに来て言ったんだ」

フムフム。

「『やあ、〇〇(ダーリンの名)、きれいな奥さんだね』って」

「!・・?・・〇×・・・・・」(ちょっと嫌な予感・・・・)

「だからね、僕答えたんだ『ありがとうございます。僕もそう思います』って、そしたら、聞いていたみんなで大笑いして・・・」

アチャー、ダーリン、それは社交辞令だってば!

「ダーリン、あのね、そういう時は、『いえいえ、とんでもありません』って返さなきゃ・・・・・」

と私は必死で諭そうとした。が、ダーリンはまったく耳を貸さず、

「何でみんなは笑うんだろう?」

とずっとぶつぶつつぶやいていた。


☆ちなみにダーリンにとっては誰がなんと言おうと(世間の評価は関係なく)家族が一番です!






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何を慌てていたのかと思う。

バスの一本ぐらいやり過ごせばよかったのだ。なのに、バスの姿がバス停に向かってきたのを見たときに、あああ!乗り遅れてしまう!と慌ててしまった。

私は息子の小さな手を引いて駆け出した。
といっても、その時息子は5歳。幼い足なのでさほどの速さではない。
それでも歩くよりは早かった。

「あ、ほら、〇〇(息子の名、)バスが来ちゃった」

背中のリュックがユサユサと揺れる。揺れ方ちょっとおかしいかな?とは思ったが構わず急いだ。その時、バラバラバラと音がした。
リュックからものが落下した音だった。

お財布は手に握っていた。なので、中に入っているものはさほど大した物ではない。ハンカチやティッシュー、息子の小さなおもちゃ、ちょっとした化粧品、ペン・・・そんな類のものだった。ただ、その中に、買ったばかりの電子手帳もあった。
ガチャンと嫌な音を立てて、その電子手帳も道路に落ちた。

バスは近づいている。

こんな時、どうして人は慌てるのだろう?落ち着いて考えれば、バスなどいいから、止まってゆっくり落ちたものを拾えばいいだけだ。

でも、私はご多分に漏れずにパニクった。

慌てるので、頭が回らない。それでも何とか落ちたものをかき集めてかばんに押し込む。買ったばかりの電子手帳は壊れちゃったのではないかと半分泣きそうになりながら・・・。

立ち上がってバスの方を見ると、バスの扉が開いていた。
息子がその前に立っている。
慌てて息子のもとに駆け寄った。

その時、息子が大きな声で運転手さんに言った。

「すみません。ちょっとまってください!ママがおとしちゃったんです」

思わず息子の小さな横顔を見つめる。追いついて息子の手を握りしめ、バスの方に目を向ける。
運転手さんは息子と私の顔をしげしげと見比べていた。

私は急いで頭を下げ、息子とバスのステップをあがった。

ドアが閉まり、バスが動き出す。揺れる車内で料金を払い、空席のあった後方まで行く。
息子と並んで腰をおろした。

「ごめんね。ママ、あわてちゃって。ありがとうね。運転手さんに言ってくれて」

「うん、のれてよかったね」

息子は笑顔で答える。
その声に笑顔を返しながら、私はかばんから電子手帳をそっと取り出した。祈るような気持ちで蓋を開ける。

その蓋の向こうに、息子の顔が見えた。

「ママ、きっとだいじょうぶだよ。こわれてないよ」

「・・・・・・」(涙)

息子よ、これからは君についていく。

私は固く決心した。










協調性とか社交性とかに全く欠ける両親を持つと子供はどうなるのだろうか?とかねてから懸念していた。

ま、同じようになる。
悪ければ、輪をかける。という辺りが順当な結果だろうと覚悟はしていた。

うまく人と交われなくても、ひどく嫌われたり、いじめられたしなければ、それでよしと思っていた。

ところが、人生には案に反してということが起こりうる。

息子は引越し、転校と頻繁に居場所を変わらなければならなかったにも拘らず、どこの社会にもすんなりと受け入れられる。

親としてはありがたいこと。何しろ問題が起きない。

でも、どう考えても、クラスの人気者というわけにはいかんだろうと思っていたのだが、遺伝子が隔世したのか?あるいは覚醒したのか?

息子は人に好かれる!!!!!!!らしい。

少なくとも今のところ。(2008年現在)

息子の学校では、生徒に毎週、『賞』が授与される。
といったって、生徒はたくさんいるのだから、平等に回ってきたとしても一年に一度ほどだ。

賞では、ある科目の成績がよかったとか、リーダーとして活躍したとか、何かに秀でた点が評価される。

この間、順番が回ってきたのか、息子も「賞」をもらってきた。

それが何と「みんなを楽しくさせました」というような賞。

ダーリンと私は目を丸くした。私たちの子供にしたら、もう、これは、上出来以上の何ものでもない。

でかした。息子。


(オーストラリアでの思い出)









この日、ダーリンと心が出会った。

二人ともこの日を境に人生が大きく変わるなどと思いも寄らず顔を合わせた。
そして、霧雨の降る午後を一緒に過ごし終えた頃、後戻りはできそうにないことを感じていた。

大きな驚きだった。
そもそも、二人が会うことになったのも、ロマンスとはほど遠いコンピュータに関すること。

言い尽くされた言葉ではあるけれど、出会いは不思議。

二人の道はそれ以前に近づいていたのかもしれない。
でもその時まで重なることはなく、たまたま、この日がその日となった。

季節の変わり目は、いつも突然やってくるように感じられる。
でも、決してそうではなく必ずそこまでの時間の流れがある。
そういう見方をすれば、出会いも偶然ではなく必然と言えるのかもしれない。

出会いの日から2年後、ダーリンと私は一緒になった。

5月20日は、二人の記念日。





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「今日ね、学校でね」と時に息子は学校であった面白い話をしてくれる。

そんなエピソードのひとつ。

先生が地図を指しながら、生徒達に国の名前を聞く。
舞台は東ヨーロッパ。

アルバニア、アルメニア、エストニア、オーストリア、ブルガリア、マケドニア、リトアニア、ルーマニア……

似たような名前が延々と続く。

先生「はい、この国は?」

A君「え~と、え~と…・・」

先生「わからんのか?Bはどうだ?」

B君「……え~と、あの、え~と…」

先生「Bもダメか。じゃ、C!」

C君「あ、え~と、あの・・・・・、あ!マカデミア!…」

教室中、波を打ったような静寂が訪れた。

先生「C・・・」先生は大きなため息をつく。
そして続けた「それはナッツの名前だ・・・・」

C君「?????え、そうだったの?」

その後、教室中が爆笑の渦に包まれたことは言うまでもない。

(オーストラリアでの思い出)







「いい?これから村を通過するからね、よく見ていてね。準備はOK?」

ダーリンがそう聞いた。
私は、きょとんとしながら頷いた。
ダーリンと一緒に暮らす大学町からダーリンのご両親の住む村に行く途中だった。
私は息をつめて過ぎ行く村を見守る準備をした。
車は同じ速度で田舎の道を通過する。

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「はい、今、ひとつ通過したよ」

ダーリンに言われて私は思い切り振り向いた。
え?!だって、今、四、五軒の家があっただけだよ。

「三つ大きな家が見えたかな?あれが〇〇村。さぁ、もう少ししたら次の村に行くよ」


そうしていくつかの村を通過し、ダーリンのご両親が住む村に着いた。
東京っ子である私にとっては何もかもが未知の世界。
それも日本ではない。イギリスだ。

村には小さな小さなスーパーが一軒。
コンビニのうんと小さいののようだと想像してくれればいいと思う。
カフェが一軒。
パブが三軒。

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こんなに小さな村でもパブが三軒もあるというのはやはりイギリスならではだ。
ダーリンのご両親はそのたった一軒あるカフェを開いていた。

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婚約が決まって初めてご両親に会いに行った時のこと。
私の左手の薬指にはもらったばかりの婚約指輪が光っていた。もちろんご両親には電話で伝えてあったから、私たちの婚約は知っていたが、ご近所の方にはまだ誰も知らせていなかった。

二階に荷物を置いて、カフェに降りていくと、知り合いのご婦人がいた。ダーリンと私はこんにちはと挨拶をしに行った。
なんてことはない世間話をしている途中で、ご婦人が言った。

「まぁ、婚約なさったの?」

私の指輪に気づいたのだった。
お祝いの言葉を頂いて、その方に別れを告げ、二階に上がる階段の下で、ダーリンが言った。

「夜までには村中が知っているよ」

「・・・・・え!何を!?」

と私は目を丸くして聞き返した。
ダーリンはそんな小さな村で生まれ育った人だった。

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ある手続きのために必要書類を調べたところ、「戸籍謄本」が含まれていました。

日本にいる母に郵送を頼み、到着を待ちました。
一週間ほどかかって、ようやくポストに。

「あーよかった。やっと着いた!」

母からの封書を手に私。

「何?それ?」とダーリン。

私 「コセキトーホン」

しばしの沈黙。

ダ 「……ああ、『夜明け前』だね」

私 「??????へ?????」

ダ 「……何て言った?」

私 「コセキトーホン」

ダ 「ほら、やっぱり、『夜明け前』だ」

私 「………ダーリン。それはね、シマザキトーソン!!!!」


ダーリンの頭の夜明けは遠いようです。



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「そろそろ出かけるよ」とダーリンに言われ、
「へ、どこへ?」とほろ酔い気分でPCに向かっていた私は答えた。
「学校だよ。今日は夕方からグリーだって言ってただろ?」

グリー。グリー?そう言えばそんなことを言っていたような・・・?
出かける支度に2分もかからない私は、カメラだけ抱えて靴を履いた。
ダーリンはジャージをジーンズに履き替えている。
ぼろ車に乗り込みいざ出発。
学校までは5分もかからない。

「間に合うといいな?」とダーリン。
「何に?」
「だから、パフォーマンスだよ・・・」
「・・・・?」

学校につき玄関ホールに急ぐと、たくさんの人でごった返していた。
スイングのドアに入るなり、プラスチックのグラス?に入ったスパークリングを渡された。
思わずにっこりする私。

「見えるかな~」
ダーリンはキョロキョロしている。
私はグラスを持って後ろで待っていた。

「二階に行った方がいいかもしれない」
ダーリンが言った。
玄関ホールは吹き抜けになっているので、二階から階下が見下ろせる。二階に上がり手摺に身を乗り出して下を見る。

「ほら、あそこにいる」
ダーリンの指差した方を見ると息子がいた。
「あら、ほんとだ。あそこにいる」
ガヤガヤとしたホールが静かになり校長先生の挨拶が始まった。スペイン語と英語。
聞いているとどうやらグリーと言うコーラスグループが歌を歌うらしい。
あ、そうなのと思っていると、息子がピアノの席についた。

「あら、○○○、ピアノを弾くよ、ダーリン」
ダーリンは一瞬絶句した。
「あのね、何のために来たと思って・・・」

ダーリンの言葉を背中に私はカメラを手に息子の晴れ姿を写そうと階下にダッシュした。

(2010年クリスマス)








*・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.:*・☆・゜・



世界で一番大切なものは何かという質問は、すごくシンプルだけど、答えを出しにくい質問。
それで、僕は、周りの大人に聞いてみた。
「あなたにとって、世界で一番大切なものは何ですか?」って

まず、おじいちゃん。
おじいちゃんは、「健康」と言った。
そりゃそうかもしれないな?だって、おじいちゃん悪いところがたくさんあるし、
お薬もいっぱい飲んでる。

次に友達のママのエマ。
エマは「もちろん時間よ!」と答えた
何故って、毎日毎日子供の世話で目が回るほど忙しいから・・
なるほどね。
納得。

最後にパパ。
僕はパパも「時間!」って言うんだろうなと思った。
案の定、パパもそう言ったけど、でも、「時間」を買うために、
「お金」が大事だって・・・

それで、僕は考えたんだ?
この三人の似ているところは何だろう?って。
何だか、みんな、自分が持ってないものばかりを追いかけてるような気がする。
でも、ホントは自分がどんなにラッキーなのかということは忘れちゃってるみたいだ。
だから、僕は思うんだ。
世界で一番大切なものは、今、自分が持っているものを大切にすること。
そして、それを楽しめる時に、思いっきり楽しむこと、だって。




The Best Thing In The World



Sometimes, the simplest questions are the most difficult to answer:
• Where did we all come from?
• What is the meaning of life?
• And why does chocolate taste so good?

“The Best Thing In The World” is one of those difficult questions.

I’m nine years old now, and sometimes my dad says I know everything. And he’s right – kids are clever! But even though we know a lot, sometimes older people (like our parents) have more experience. So I decided to ask around to find out what other people think.

I asked my grandad and he told me “look after your HEALTH – it’s the most important thing you will ever have”. But my grandad has got a bad back and he walks with a stick. And he’s not allowed to eat certain things or it will make him ill. And he’s got to take special tablets for his blood pressure. So it’s no wonder he thinks health is important!

Then, I spoke to my friend Liam’s mum. She’s got four kids. She thinks that TIME is the best thing in the world. She told me that she’s so busy looking after the kids all day – feeding them, washing their clothes, shopping, taking them to school, doing homework, putting them to bed – she’s so busy that she never has any time to herself.

Finally, I spoke to my dad. He runs his own company, and he works nights and weekends, so I expected he would say TIME too. And he did. He said he would love to have more time. But he said he needed to work harder to earn more MONEY so that he could “buy some time”.

So what IS the best thing in the world? What do all these people have in common?

I think they’re all chasing after something they don’t have. So I think that maybe the best thing in the world is being able to appreciate what you have, rather than chasing after something that you want. We have to realise how lucky we are to be here now. And we have to enjoy it while we can.




*・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.*.。.:*・☆・゜・*:.。.:*・☆・゜・



オーストラリアに渡ってまもなく、新しい学校でスピーチコンテストが行われました。
その時の息子のスピーチです。
9歳でした。





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息子との初めての対面。
その瞬間を今も鮮明に覚えている。

取り上げてくださった助産婦さんに手渡され、小さな体の両脇に手を入れた。
胸の方に引き上げた瞬間、息子の瞳と目があった。
それが息子との出逢いの瞬間だった。
息子は両目をぱっちりと見開き、私のお腹の上で驚いたように両足をバタバタと動かしていた。
私はその様が可笑しくて思わず微笑んだ。

「あ、容姿には恵まれなかったな」
それが一番最初に思ったこと。
そして、
「まあ、いいや、性格で行こうね」と声をかけた。
オックスフォードの病院の一室。
ダーリンは心配そうに私を覗き込んでおり、用意されたバスは水を張る暇も無く空のままだった。

望むものは健康。
そして、息子自身が幸せだと感じること。
それだけ。
でも、そのそれだけは随分大きな望みなのかもしれない。

今日まで無事に育ってくれてありがとう。
本当に本当にありがとう。


mylo (July 2000)










ダーリンと一緒になった時、ダーリンの祖父母は4人とも健在だった。

義母の両親はイタリアに、義父の両親はイギリスにいらした。
みんな70代だった。

いつか4人を送ることになるのかな?
とそんなことをふと思ったことを覚えている。

そして、夕べ、最後の一人になってしまっていた義母の父親が旅立った。
87歳だった。

最初に逝ってしまったのはDavid。
義父の父親だ。
クリスマスに息子のためにサンタになってくれた。

次がNadge。
義母の母親。
いつも解読不能な文字でしたためた手紙をたくさんくれた。

そして、Ivy。
義父の母親。
息子に帽子やセーターを編んでくれた。

最後に旅立ったTed。
連絡をするたびにいつも私たちだけのことではなく日本の私の家族のことまで気遣ってくれた。

4人の人生の最後の10数年を私は彼らの孫のワイフとして関わらせて頂いた。

それぞれが、それぞれの生き方で、私に残してくれたものがある。

4人がいてくれたからこそ、今、ここに私達家族もいる。

心から感謝したいと思う。



Thank you so much.


(2011年秋)











ダーリンと私は喧嘩というものをほとんどしない(と思う)。
もちろん怒ることはある。
その場合はどちらかが怒ってどちらかが謝るというパターンとなる。

たった一度だけかなり激しい言い合いをしたことがあった。
原因は心のすれ違いだった。
私は悲しくて口もきけなくなり、食事も喉を通らず夕食も取らぬまま寝室に行ってしまった。
ダーリンはもう私と一緒にいたくないのではないかとさえ思え涙が止め処もなく溢れた。
眠れぬまま時を過ごした。

暗い耳に息子が部屋に入った音が響いてきた。
ゆっくりと起き上がりベッドを抜け出し息子の部屋のドアをノックした。
言い合いをして息子を嫌な気持ちにさせたことを謝りたかった。
ベッドの端に腰を降ろす。
息子は半身を起こした。

「ママ、どうしたの?」

穏やかな顔だった。

「ごめんね。びっくりしたでしょう?パパとママ言い合って・・・嫌な思いをさせちゃったね」

穏やかな顔にゆるやかな微笑みが広がった。

「ママ、僕、全然心配していないよ。パパとママは話し合って必ずまたもとのように仲良しになるもの」

向けられた信頼に言葉がなかった。





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