思いがめぐる

カテゴリ: 旅から生まれる物語




かつて、海外旅行というと必ず用意するべきものがあった。

トラベラーズチェック

旅行者用小切手

現金を持ち歩くと危険ということで、必ずそうするようにと推奨されていた。
というわけで、

その時、私もしっかりトラベラーズチェックなるものをお腹に閉めたベルトの中に仕込み、アメリカを旅していた。

 

あれはいつだったんだろう?

何となく初めてのアメリカ旅行のような気がしていたのだけれど、

その時には、NYには確か、行かなかった。

だから、二度目の時 ・・

ま、今となっては、どっちでもいいかと思う。

どっちであっても、よい思い出は、よい思い出。

 

そして、どっちにせよ、はるかに若かった。

だから、それはずっと昔のこと。

 

私たちは、マンハッタンを一日ぐるぐると回り、すっかりくたびれてお腹も空いてきてい

なにはともあれ腹ごしらえと、目に付いたスーパーに入った。

何かちょっとした飲み物とつまめるような何かを買ったのだと思う。

そしてレジに並んだ。


番が来て、お金を払う段になり、トラベラーズチェックをさしした。

レジのお姉さまは、それを乾いた眼差しで一瞥すると、そんなものは使えないと首を横に振った。


「え?どうして?」と戸惑いながら私たちは問いかけた。

でも、お姉さまは、にべもなく、

とにかく使えないので、現金をよこせと言い放った。


購入したものを払えるだけの現金は手元になかった。

今であれば、


「ざけんじゃねぇよ。マネージャー呼んでもらおうじゃないか」

でもなんとでも言えるが、その頃は、まだうら若き乙女。

ただひたすら困ってしまった。


「じゃ、返すしかないよね」

後に続くお客を気にしながら友と二人でぼそぼそと言っていると、どこからともなくその人は現れた。


青年は、レジのお姉さまに早口で何か言うと、お金を差し出した。

ええええ???

と思うまもなく、商品は私たちに手渡され、レジのお姉さまは次のお客の対応を始めた。


どう反応していいのかわからず、しばし呆然としていたんだと思う。


「どうしよう?お金返さなくちゃ」と思ったときには、

青年の姿は、ドアの向こうに消えてしまっていた。


必死で追いかけた。

Excuse me!」

二人で声をあげた。


青年は、私たちの声に歩みを緩め、後ろを振り返った。


「あの・・・ありがとうございます。お金をお返ししたいので、連絡先か何かを教えていただけないでしょうか?」


息を切らしながら、ようやくそう言った。


青年は、少し肩を上げ、く軽い息を吐いた。


「・・・いいんだ。お金は・・ただ、お願いだ。この経験で、NYに、アメリカに悪い印象を持たないでほしいんだ


「え?でも・・・」


お金を返すための算段を必死に取ろうとする私たちを彼はやんわりと制した。


「じゃ、よい旅を!」


そして、踵を返し、暮れ始めたNYの街に消えていった。

 

二人とも、しばらく、そこに佇んでいた。

そして、ぼそりと言った。


「忘れないね、絶対」

「うん。忘れない」

 

・・・


それから、ん十年

今も、忘れていない。

目を瞑るとあの時の光景が蘇る。


その人の顔は、落ちてきた陽を背にしていておりよく見えなかった。


でも、ものすごくかっこよかった。

 



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その時、私はかなり緊張していたと思う。

自分でも気持ちがピンと張り詰めているのがはっきりと意識できた。

NYマンハッタンにあるペンシルバニア・ステーション。
一日に600本以上の列車が発着する、ニューヨークではグランド・セントラル駅に並ぶ巨大駅だ。

私は、待合室のベンチに一人腰を降ろし、ワシントンDC行きの電車を待っていた。

NYからDCまで列車を利用することにしたのは、多少恐ろしくはあったが、
アメリカで列車に乗るということも経験してみたかったからだった。
滞在していたマンハッタンの友人宅からタクシーでペン駅に向かった。


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運転手さんはいかつい顔に似合わぬ小柄な体をしたギリシア人で、訛りの強い英語であれこれと話しかけてきた。行き先を問われたので、ワシントンDCに行くと答えると、

「こんな危ないところを若い女性(私はその時、20代後半でした)が一人で旅行してはいけない!」

とこんこんとお説教をされた。
駅についてスーツケースをトランクから降ろす段になっても、運転手さんの小言?は終わらず、
何度も首を振りながら、くれぐれも道中気をつけるようにと繰り返した。

朝のペン駅は様々な人々でごった返していた。
ビジネスマン風の人、ビジネススーツに身を包んだ女性、カジュアルな服装の人、ヨーロッパの旅行者かな?と思われる若者など、国籍も人種も年齢も様々な老若男女がそれぞれの目的に向かい動き回っていた。


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窓口で切符を購入した後、列車が出るホームを確認した。
そして、そのホームへのゲートに一番近いベンチに腰を降ろした。
NYには長いと言った、タクシーの運転手さんの心配気な顔がちらつき、どう考えてもいかにもアジアの旅行者ですという成り立ちの自分の姿が想像でき、余計に胸が騒いだ。

その時傍から私を見ている人がいたとしたら、何をそんなに恐い顔をしているのだろうと思ったのではないかと思う。口を真一文字に結び、スーツケースをしっかり保守しながら、まっすぐ前を見つめていた。
時折、ちらちらと視線を横に投げかけてはいたが、それは、いい男がいたからではなく、DC行きの列車がホームに入ってきたことを告げるはずの電光板に向けていた視線だった。


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賑やかな家族の声が硬直したような私の心をほんの少し動かしたのは、ベンチに腰を降ろしてから10分ほどしてからだったろうか?伸びのある明るい話し声が耳に届き、私は思わずそちらの方に眼を向けた。

黒人のご家族の一群だった。

まさに一群と呼ぶに相応しいような大所帯。
小さな赤ちゃんから、お年を召した方まで、恐らく全員でゆうに10人は越えていた。

ご家族の中心になっているように見えたのは、大きな身体にカラフルな服を纏い、髪にも共布のスカーフをした女性だった。恐らくママさんなのだろう。そのママさんを中心に、家族のそれぞれが口々に何かを話していた。

しばらく見ていると、ごちゃごちゃに見えた一群にもある種の流れがあることに気づいた。
その流れの先に目を向けるとそこにはかなりのお年のおじいさんがいた。
おじいちゃんはとても細く小柄で、みんなの中に埋もれてしまいそうだった。

一人一人が、そのおじいちゃんに向かい、何かを言っているようだった。
聞き耳を立てていたわけではなかったのだが、何しろ声が大きいので聞こえてくる。
が、よく聞いてみると、おじいちゃんに話しかけている言葉は英語ではなかった。

そのおじいちゃんの傍で、ママさんがご主人と思われる方と何かを話していた。
身振り手振りも加え真剣に何かを話し合っている。
話がなんなのかはわからなかたったが、何か問題を話し合っているような雰囲気だった。

家族の一群の中にいた一人が、その時、チラリと私の方を見た。
そして、ただ視線を投げたというよりは、ほんの数秒長く私に目を置いた。
その眼差しがゆっくりと引き剥がされるようにして離れると共に彼の身体はママさんとパパさんの方に移動した。
この辺りで私の心臓はバクバクとしてきた。
彼は二人の話を遮ると何かを告げた。
その言葉が二人の頭に浸透するだけの時間を置いて、今度はママさんとパパさんの視線が私に向けれらた。

三人で「うんうん」というように頷き合っている。

と瞬く間に、その「うんうん」の内容が残りの親族に伝言ゲームのように伝えられた。
メッセージが行き渡るに連れて視線がチラチラと私に注がれる。

なんだ、なんだ、私なにしたんだ。私は目を丸くしていたと思う。
と思うまもなく、ママさんが傍に来た。

「ハ~イ」満面の笑顔だ。

「ハ~イ」と笑顔で挨拶され、挨拶を返さないというのではあまりにも失礼だ。

私も「ハ・・イ」とそっと挨拶を返した。

「これからどこに行くのかしら?もしかしてあの列車を待っているの?」

ママさんは太い腕を電光掲示板の方に振り上げながら聞いた。
一瞬、どう答えるべきなのか迷ったが私は意を決して答えた。

「・・・・・はい、そうです・・・・」

その返事はママさんの顔を輝かせた。

ママさんは急いで振り向くと、家族のメンバーにそうだという合図を送り始めた。
その合図が行き渡ると共に、家族全員がおじいちゃんを真ん中に従え、ゾロゾロと私に向かってきた。
私は何事が起きたのかと思った。

驚愕しきっている私に向かってママさんは言った。

「父もね同じ列車でワシントンDCまで行くの。
でも、一人っきりなものだからとても心配で・・・そしたら、あなたも行くって言うから・・・。
ね、お願い、別に何もしなくてもいいのただ、一緒に列車に乗って隣に座ってワシントンDCで一緒に降りてくれないかしら?それだけでいいの・・」

ママさんはお願いをしながらも半ば確信したかのように頷いていた。
私はまずおじいちゃんを見た。そして、家族を見て、ママの顔をもう一度見た。
とてもノーとは言えなかった。
そして、言わなくてもいい人たちのようにも感じた。

「・・・・私で良ければ・・・・」

私が答えるか答えないかのうちに歓声が起こった。
みんなが口々にお礼を言い始める。
一通りそれが終わると、今度は、おじいちゃんに話しかけ始めた。
恐らく「よかった。もう安心だ。この人が一緒にいってくれる」というようなことを言っていたのだと思う。

おじいちゃんは家族の真ん中に立ち、みんなの言葉に頷きながら、私の方を見た。
じっと見つめると少しだけ瞬きを繰り返した。
そして「にっ」と笑った。

それから列車の到着するまでの数分間は大賑わいだった。
家族のそれぞれがおじいちゃんに別れを告げる。
一人ひとりも私にお礼の言葉を言う。
私はもみくちゃにされそうだった。

列車がホームに入ったという知らせで電光掲示板が点滅した。
私はそれを見て立ち上がった。
家族の一群がおじいちゃんを囲んで一緒に動きだす。
ベンチからゲートに行くまでの間に、おじいちゃんはぴったりと私の横についていた。

ゲートを抜けられるのはチケットを持ったものだけだ。
私がチケットを係りの人に渡し、ゲートに入ると、家族に押されるようにしておじいちゃんも後に続いた。
ゲートから離れてしまえば、それ以上はもう見えなくなる。
口々におじいちゃんに向ける別れの言葉と、私へのお礼の言葉が飛び交う。
私も家族に手を降った。

ホームを歩き始めると、おじいちゃんは磁石のように私にくっついてきた。
私は荷物もあるのであまり接近されると歩き難いのだが仕方がない。

スーツケースとおじいちゃんと共に列車に乗り込み、座席に向かって歩き始めた。
おじいちゃんは私の袖をつまんでくっついてくる。
進行方向右側に空いている座席を見つけ、窓際の席におじいちゃんを誘導した。
おじいちゃんは座る前に私の方を振り向くと、「お前はここに座るのか?」というような眼差しでの隣の座席を見おろす。
私は頷いた。
おじいちゃんはそれを認めると、「ニッ」と笑って窓際の席に腰を降ろした。

ペン・ステーションからワシントンDCまでアムトラックで3時間ほどだったのではないかと思う。
おじいちゃんと肩を並べて座っていた3時間の間に、私は何度となく言葉でのコミュニケーションを試みた。
が、試みはあえなく徒労に終わった。
おじいちゃんは英語はまったく解さないらしく、何を話しかけても答えは戻ってこなかった。
向けられるのはそのしわくちゃの笑顔だけだった。

列車が発車してしばらく、おじいちゃんは窓外に目を向けていた。
落ち着いて腰を降ろしているおじいちゃんに安心して、私は何かを読み始めたのだと思う。
恐らくこれから向かうワシントンDCの観光案内か何かだったのだろう。
活字を追っているとふと視線を感じた。
ゆっくりと横に顔を向けるとおじいちゃんの笑顔があった。
その笑顔に答えて私は笑顔を返した。
それを見るとおじいちゃんは安心したようにまた視線を窓外に向けた。
おじいちゃんとの笑顔の会話は、こうして規則的な挨拶のように繰り返された。

列車がワシントンDCの駅に着き、座席を立ってホームに降りるまでの間、おじいちゃんは私の上着の袖をしっかりと握っていた。

駅に降りると、おじいちゃんの知り合いであろう人々が待っていた。
おじいちゃんはその人々に包まれるようにして迎え入れられた。

おじいちゃんが無事、DCの知り合いにたどり着いた様子を見ることができ私は心からホッとした。
しばらくの間、スーツケースを横に私はその様子を眺めていた。

おじいちゃんは知り合いの人々の笑顔に囲まれながら、私の方に視線を向けた。
そして眩しそうに瞬きをしながら私を見つめた。

そして、とびきりの笑顔で「ニッ」と微笑んだ。











ダーリンの母方の祖父母であるNadgeとTedに会いに行ったのはもう10年近くも前になります(2001年?)。

ダーリンと一緒になり息子が生まれても遠い地にいるためすぐには会いに行くことができませんでした。

息子が5つになった頃だったでしょうか?ようやく会いに行く機会に恵まれました。

2人が住んでいたのはイタリアのウンブリアという州。そこにイタリア4番目に大きな湖と言われるTrasimenoという湖があります。Castiglione del lagoはその湖畔にある町でした。

近くにある比較的大きな町はPerugia。

ここは日本のサッカー選手、中田英寿が海外移籍を果たした際に最初に所属したチームとして知られているのでしょうか?

Tedは過去、SBS(Special Boat Service)、イギリス海兵隊の特殊部隊である「特殊舟艇部隊」に所属しており、様々な地で戦ってきたようです。

イタリアもその時に訪れた地の一つだったとか。いつの日にかイタリアに住むことを夢見ていたTedは、60代の時に移住を決意しました。

私がダーリンと出会った時には2人はイタリアに移住してもう数年経っていました。

夏8月、一番暑い季節に、この地で一週間ほど2人と一緒に過ごしました。それが後にも先にも2人と過ごせた時間の全てでした。

小さなアパートに慎ましく暮らしている2人の生活を眺め、一緒に食事をしたり話をしたりして時を過ごしました。

何より、ひ孫になる息子を見てもらいたかったのでそれができたことを心から嬉しく思いました。

帰りにローマに寄り、3日ほど過ごしました。

泊まった小さな宿の前にお店がありました。そこの店の主人が「ソフィアの映画館」のモデルになった女性です。

何か特別な話をしたわけではありません。英語を少し話されたので、とりとめのない言葉を交わしました。ただ、彼女の凛とした瞳が忘れられず後に物語が生まれました。

http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66974801.html









旅をしてきた。

小銭を握って、駆け出してゆく、小さな旅から、
大きな荷物を引きずって、乗り物を乗り継ぐ、大きな旅まで。
様々な場所で、様々な人と出遭い、
様々な優しさを貰った。

膝小僧を抑えてべそをかいている私に、手を差し出してくれた人。
会ったばかりなのに、一夜の宿を気持ちよく提供してくれた人。

その時、その時に、言葉を尽くして、気持ちを込めてお礼をしてきた。
旅を終えた後にも、言葉や、時には形のある物で感謝の意を伝えてきた。
それでも、まにあわないくらいのたくさんのたくさんの親切をもらった。

「こんなにして頂いて、お礼の言葉もありません。本当にありがとうございます。これからどうやって、お礼を返していけばいいのか途方にくれてしまいます」
旅先で大変お世話になった女性に言った。
心から感じた気持ちそのままだった。

「いいのよ。私に御礼なんかしなくても。いつか、あなたが、もっと、年をとり、人を助けられる余裕ができたら、私へのお礼を、新しく出会った人たちにしてあげてちょうだい」

彼女はサラリとそう言って微笑んだ。
私は大きく、大きく肯いた。
「はい。必ず、そうします」という気持ちを、
思いっきり込めて。

時がたち、こんな私でもいくらかの余裕が出来、
頂いた優しさを少しずつ返せる機会を持てるようになった。
誰かに少しでも手を貸してあげることが出来たとき、
「ありがとう」という言葉を貰ったとき、
その女性のことを思った。

そんな頃、一本の映画を見た。



pay if forward 2




「もし自分の手で世界を変えたいと思ったら、何をする?」
社会科の授業で先生が生徒達に問う。
生徒達はそれぞれ、考えを提出する。
主人公のトレヴァーは、ある計画を思いつく。
それは自分が受けた思いやりや善意を、その相手に返す代わりに、
別の三人の相手に渡すというものだった。
トレヴァーは“渡す”相手を探す。
仕事に就かない薬物中毒の男。先生。いじめられている同級生…・・




pay it forward 1





キャサリン・ライアン・ハイドという人が書いた小説をもとにした映画だった。
この小説をきっかけに、財団が作られ、トレヴァーが計画した運動も実際に広がっていた。

小説の出版は2000年。
私が女性に出逢ったのはそれより以前。
でも、彼女が言ったこと、そのままだった。

人は、人に手を差し伸べることで、幸せになれるように作られている。
人は、人を愛することで、無上の幸せを感じられるようにできている。
そう信じたい。

おめでたい考え方だね、と笑われても、
人は、この世に幸せを享受するために生まれてきたのだと、
そして、他の人と手を携えることにより、
その幸せは、何倍にも膨らむのだと、
そう信じたい。




pa it forward 3






『与えることは最高の喜びなのだ。
 他人に喜びを運ぶ人は、それによって
 自分自身の喜びと満足をえる』
 ウォルト・ディズニー

『幸福になりたければ、
 やれ恩を返せだの恩知らずだの言わないで、
 人に尽くす喜びだけを生き甲斐にしようではないか。』
 デール・カーネギー

『真心をもって人を助ければ、必ず自分も人から助けられる。
 これは人生のもっとも美しい補償の1つである。』
 ラルフ・ワルド・エマーソン

『なるべく人の世話役を心がけよ。
 そして、報を望むな。求むるな。』
 安岡正篤

『慰められるより慰めることを
 理解されるより理解することを
 愛されるよりは愛することを』
 マザー・テレサ


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☆映画のタイトルは、「ペイ・フォワード」と言います。
☆財団名は、ペイ・イット・フォーワード財団です。
☆日本にも同様の考え方があり、それは、「恩送り」と呼ばれているそうです。





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