思いがめぐる

カテゴリ: ものがたり



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 オックスフォードの見所はそれぞれのカレッジだった。と言っても、一つ一つに足を踏み入れて、ゆっくり中を見学できるわけではない。茉莉花は外からだけでも建物を見て回ってみようと思った。
― ぐるっと歩いて、ランドルフに出るようにすればいいんだわ。―
 地図でランドルフの位置を確認する。ランドルフは今いる交差点から真っ直ぐ北にコーン・マーケット・ストリートを上った所にあった。
 カレッジの建物のほとんどは、ランドルフより東側に位置している。
― ここから東の方に向かって適当な所で、北に進路変更して、それから西に向かえば、ランドルフの辺りに出られる筈…・―
 茉莉花は指で地図の上をなぞった。
― どうせ、一人だもん。気の向くままに歩けばいい。―
 ルート・ガイドのページを折り返し、席を立つ。
 カフェを出て、交差点を東に折れた。ハイ・ストリートという名の通りだった。
 ハイ・ストリートと言えば、街の中で一番賑やかな通りにつけられる名前だが、ここ、オックスフォードに関しては、それが当たっているようには思えなかった。
 そろそろ、左手にセント・メアリ教会が見えてくる筈だった。茉莉花は、ガイド・ブックを片手に左手に目をやりながら歩みを進めた。セント・メアリー教会は上に展望台があり、眺望が素晴らしいと書かれている。町全体を俯瞰するのは魅力だったが、今は、その時間はなさそうだった。
 建物は進むに連れ、右に左にと荘厳な姿を次々と現し始めた。茉莉花はその度に足を止め、しばし眺め、本に載せられている説明を目で追った。
 いくつかのカレッジを通り過ぎ、向きを北に変えて、道なりに進む。クィーンズ・レーンという道幅の狭い路地に入った。
 その瞬間、時間を飛び越えたような感覚に捕われた。路地は高めの壁に囲まれ、中世の面影を残していた。
 ゆるやかに左に折れる壁を辿りながら歩く。やがて、幅の広い通りに出た。道の中央にはスペースがあり、車が止めてあるのが見える。左右に目をやる。圧倒されるような荘重な建物が、覆い被さるように通りを隔てて並んでいた。
 ガイド・ブックで通りの名を確かめる。道幅そのまま、ブロード・ストリートと言う名前が付けられていた。
 左側には際だって豪奢な建物が見えた。シェルドニアン・シアターだった。ロンドンのセント・ポール大聖堂を設計したクリストファー・レンの処女作とある
  茉莉花は改めて、建物を見つめなおした。
ロンドンにいた時、セント・ポールに何度も足を運んだ。美しい建物はいくつもあったが、なぜか、セント・ポールに心惹かれた。
 堂々とした美しいドームの真下に立ち、丸い天を幾度なく仰ぎ見た。ローマのサン・ピエトロ大聖堂に次ぐ世界第二位の高さを誇ると知ったのは、日本に戻ってからだった。
 シェルドニアン・シアターは、古代ローマの野外劇場をモデルにして作られたという。シアターの周りをローマ帝国の皇帝像が取り巻いていた。
 古いもの、歴史を感じるものに茉莉花はいつも心を惹き付けられた。人の手で形作られ、その後、長く慈しまれて来たものには、経てきた時の長さと人の思いがそこに宿っているかのように感じられた。
 シェルドニアン・シアターは講堂として建てられたものだという。周りにあるいくつかの建物とともに、世界最古の図書館といわれるボドリアン図書館を成していた。時の重みを感じさせるくすんだ色の外壁がブロード・ストリートを上から覆いこむように建っている。独特な円筒形の形を見せるラドクリフ・カメラは、閲覧室として使われているという。一つ一つの建物が存在感を持ってそこに腰を据え、辺り一帯の雰囲気を現世から過去に呼び戻していた。
 茉莉花は、ゆっくりと、ブロード・ストリートを抜けた。

 モードレン・ストリートを上る。
 威厳を感じさせるりっぱな建物が目に入った。アシュモレアンという名の美術館だった。
 四本の支柱に支えれらたエントランスが聳えるように立っている。圧倒されるような思いでその前面を見上げた後、茉莉花は視線を左に転じた。
 静かな佇まいを感じさせる建物がそこにあった。ランドルフは、美術館と相対する位置に建てられていた。
 シックな落ち着きを感じさせる。
 アシュモレアンの壮麗な建物とは対照的だ。



『茉莉花の時』より







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― また…か。
 ガラスの向こうでこちらを食い入るように見つめている郵便局員の顔を眺めながら
夏美は思った。

 その表情は「え?」というメッセージを送っている。
「何て言ったのかしら?わからなかったわよ」というメッセージ。

 夏美は一瞬だけその目を見つめ、もう一度同じ言葉を繰り返してみた。
「ファースト・クラスの切手を5枚と、セカンド・クラスの切手を、7……」
「え?ごめんなさい…」

  今度は途中で遮られた。
  夏美は息を深く吸った。
― 落ち着いて。
と自分に言ってあげる。

 「ファーストクラス、5。セカンド・クラス、7、プリーズ」
 今度はジェスチャーも交えゆっくりと必要な単語だけ並べる。
 「OK」
  郵便局員は納得したというように首を振った。

  切手がファイルされた大きなノートを繰って、ファースト・クラスとセカンド・クラスの切手を取り出す。それを目の前に置くと、傍らに置いてあったメモ用紙に計算を始めた。式を書いて縦書き計算をしている。
 それを終えると、数字が書かれたその紙をガラス窓に押し付けるようにして掲げながら、これでもかというほど、ゆっくり、はっきり、合計金額を発音してくれた。

夏美は「ありがとうございます」といいながらお金を出す。
「すみませんが、領収書を切って頂けますか?」
「え?何て?」
「……」もう一度、息を吸い込む。
「・・……レシート、プリーズ」

 もう慣れっこの筈だった。
今までにどのくらい同じことを経験したかわからない。イギリスに来て5年。似通った応対は、枚挙に暇がない。

初めは自分の英語が拙いのだと思った。あるいは、発音が悪く聞き取りにくいのかもしれない、と。でも、もう5年だった。いくらなんでも上達はした筈だ。意思疎通には全く不自由しないほどの英語力は身につけられたし、発音もわからないと首を傾げられたこともない。

 それでも、ある種のイギリス人の反応はあまり変わらなかった。

 ある種。頭の中に決まった一つの考えを持っている人だ。

アジア人=英語がわからない=(多少わかってもレベルは低い+結構話せても発音がひどい)+教育程度が低いから頭が悪い

 そうした人たちはアジア人と認めた段階で以上のように決め付ける。
 一度決め付けたら耳など聞こえていない。理解できないと決めているからだ。仮にイギリス人と全く同様の英語で話し掛けたとしても、わからないと聞き返すのだろう。

― こういうのが、偏見?固定観念?先入観? ―

「気にしない、気にしない、もう、慣れっこでしょ、夏美」
 郵便局のドアを押して外に出る。

 歩き出すと、頭の奥でもう一人の自分が言った。
「うそつき。いつまでたっても慣れないくせに…」









レジ台の機戒が合計金額を告げた。
2,704円。
桃子は何気なく数字に目をやった後、足元に置いていた買い物篭を持ち上げた。
今夜、啓介と一緒にと思って買ったワインがいつもより籠に重みを加えている。
前のご夫妻の清算が終われば、ようやく自分の番だった。

婦人が五千円札を取り出し、お財布を覗いている。
小銭を探しているようだった。
手の平の空いた部分に一円玉が一つつまみ出された。
婦人はお財布を覗き込んだまま、ご主人に何かつぶやいた。
ご主人はその言葉に促されるかのように、手に提げていたビニール袋をレジ台に持ち上げた。
巾着型に口の結ばれる袋だ。
絞った口の紐がしっかりと二重に締められている。
太い指先が結び目を解きにかかる。
紐は中々緩まない。
ようやく袋が開き、中からお財布が取り出された。
ファスナーの上を右手の親指と人差し指が滑り始める。
途中、つかえたようにガクガクと何度も流れが止まる。
ようやく開いたお財布の口を押し開けると、ご主人はレジ台に身体を近づけた。
少し前かがみになる。
指がお財布の中でうごめいているのがわかる。
百円玉が一つ取り出された。
レジ台に置かれるカチリという音がする。また一つ。
同じ動作がゆっくり繰り返され、順に六つの玉が並べられた。
その時、婦人の手がご主人の腕に軽く触れた。
ご主人の動作が止まる。
婦人の口元が動く。

次に聞こえてきたのは、レジの婦人の確認の声だった。
「……、五千と四円からでよろしいでしょうか」
「…はい」と婦人の声。
婦人はご主人の腕をそっと叩く。
ご主人は台の上に置かれた百円玉を、一つ一つ拾い始めた。
コインは平べったく、ご主人の指には掴まりにくい。

桃子は思わず手を出しそうになる自分をかろうじて抑えた。

レジのご婦人は年配の方だった。
そうであったことに、ほっとする。
二人がお財布をしっかりしまい、買った商品を手に取るのを、桃子は、黙って見守った。




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