思いがめぐる

カテゴリ: 母を思う

太郎2013
太郎ちゃんが、2013年に国会議員に立候補した時、 私は母の介護で帰国していた。
地元の駅に太郎ちゃんが街頭演説に来ると聞いて、 母を車椅子にのせて連れて行った。
私が演説を聞きたいから一緒に行こうと・・・。 
夏の暑い日だった。

母は長く政治活動をしてきており、支持政党は決まっていた。 
だから、母に投票を頼むつもりは毛頭なかった。

太郎ちゃんは汗をかきながら演説をし、聞いていた母は大きな拍手を送っていた。
そして、
母は太郎ちゃんを手招きした。

気づいてくれるかな?と思ったのだけれど、 
太郎ちゃん、すぐに気が付き、母のところにやってきた。 
車椅子の前にひざまずき母と目線を合わせる。
母は、持ってきた新しいポケットタオルを二枚手渡し、「頑張って」と声をかけた。
太郎ちゃんは、母のその言葉に応えてくれた。

私は心から感謝した。
母は大きな手術をし、生死の境をさまよい、術後鬱にもなっていた。

選挙の投票日、母は父に連れられて投票に行った。
先に投票を済ませていた私は家で待っていた。
母は戻ってくると私に近寄り、小声でそっと囁いた。
「太郎ちゃんに入れてきたよ。 お父さんには内緒だよ」

☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;

Twitterに呟きが残っているはずだなと思い検索してみた。

2013年7月19日
”今日は近くに太郎ちゃんが来るので、母を連れて、演説を聞きに行ってきます。”

と呟いている。

そして、

”太郎ちゃんの演説。正にまん前で母と聞かせていただきました。
終了後に母が小さなプレゼントを渡そうと声をかけると、
太郎さん、母の視線まで膝を折って腰を下ろし、言葉を交わしてくださいました。
お人柄が感じられる温かな応対でした。”

その後、太郎ちゃんに声をかけている
太郎さんの三鷹での演説、目の前で母と聞かせて頂きました。
演説終了後、声をかけた母に、車椅子の母の視線まで膝を折って腰を下ろし、
言葉を交わしてくださいましたこと、本当に嬉しかったです。
ありがとう。(^-^)”

母はこんなことも言ったのね。
”母が太郎ちゃんの演説を聞いて言った。
「黙っていられなくなったのね。その気持ちはよくわかる」”

投票日、7月21日
”母は支持政党が決まっている。それでもと思い、
母を山本太郎さんの街宣演説に連れていった。
今日、投票日。
母は山本太郎さんに投票してくれた。
「だってあの話し聞いたら入れないわけにいかないでしょ」と母は微笑んでくれた。”

太郎ちゃんにもう一度声をかける。
太郎さん、 太郎さんの言葉、 母の心を動かしたよ。 (^0^)/”




Mom Daughter Photo copy





年老いた私が、ある日、今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなづいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように
見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを
悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の
準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り、飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない
足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら
あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい
私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど
私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい
あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい
私の子供たちへ
愛する子供たちへ




この歌を初めて聴いたとき、

「あ、あの詩だ・・」と思い出した詩があった。

随分以前に読んだもので、確か、動画も一緒だった。
とてもとても感動したのだけれど、なぜか残して置くことをせず、わからなくなってしまっていた。

ただ、母を介護する中で、何度となく思い出していた。

なので、この歌を聴いた時はとても嬉しかった。
樋口了一さんの歌としてWikiに載っていた。

『手紙〜親愛なる子供たちへ〜』 樋口了一の15thシングル。



以下のように説明されていた。

「元の歌詞はポルトガル語で書かれており、作者不詳(読み人知らず)。
樋口了一の友人、角智織の元に偶然届いたチェーンメールに詩が記載されていて、
この詩に感銘を受けた角が詩を翻訳、樋口に見せたところ樋口も感銘を受けたため、
曲の制作・発売に至った」


私が最初に見た記事と動画は英語で書かれていた。
どうしても、それを見つけたくなって、検索してみた。

そして、見つけた。




嬉しかった。

この動画での注釈によると、 詩は、Guillermo Peña というスペイン人の方。
そして、英語に訳されたのは、Sergio Cadenaさん、Spring in the Air という会社の創設者。

2012年、母の日に、この会社のFBのページに投稿され、
僅か2日で、世界中の2,200万人の人々に届いたという。


oldwoman


樋口さんの歌が、ポルトガルの作者不詳の詩が元になっているのか、
或いは、私が見つけた、この動画と関わりがあるのか、 私にはわからない。

ただ、それは私にはどちらでもいいこと。

私にとっては、どちらも素敵な歌であり、素敵な詩。









先がようやく見えてきていた
後少し頑張れば、明け渡しを終えることができそうだった。
両親が1981年10月10日から住まいとした家。
36年という月日がそこにあった。

11月13日、家の明け渡しの手続きのため、住宅供給公社の地域の窓口センターに行くことにした。
住宅返還届を提出すると、14日後に受理されることになっている。
午前中に家を出て、自転車を走らせた。
自転車は、友人が、滞在中使ってくださいと貸してくれたものだった。

手続き自体は簡単だった。
渡された書類に記入し、60年近くも前に渡された住宅使用許可書を提出する。
それ以外に、私の身分証明書、印鑑、父の委任状+父の印鑑。
必要なものはそれだけだった。

それまでも電話で何度となく方法を聞いていたので、要領はわかっているつもりだった。

「今日、返還届けを提出すると、二週間後に受理されるということですよね。
それまでに退去すればいいのですよね」
と確認をする。

「受理されるまでに二週間かかるのですが、退去は、それ以降であれば、
家賃を払って頂く限りいつでもいいです」

「え?二週間後には退去しなければいけないんではないですか?」

「いえ、あくまでも、受理に二週間かかるということです」

どこで誤解したのだろう?
対応してくれている係りの方を見つめながら思った。

確かに、何度も確認した。
返還届け提出の二週間後に退去と聞いたように思った。
と言っても今更、どうにもならない。
なんだ、それなら、退去届けは、もっと早くに提出しに来てもよかったんだと思い、気が抜けた。
二週間先には退去できるという目処が立たなければ、返還届けを提出できないとずっと思っていた。タイミングをすごく気にしていたのがばかみたいだった。
とにかく、返還届けを提出した。

「では、退去日はいつにしますか?」

改めて聞かれた。
退去日は自動的に28日になると思っていたので、それ以上は考えていなかったが、
ちょうど区切りもいいので、その月の最終日にした。
返還届けを無事、提出し終えた後、後片付けのことを尋ねた。

「いくつかお聞きしたいことがあるのですが・・・」

「はい」

「こちらのN氏と電話でお話をした際、減免措置を受けているので、
家の中に取り付けてあるものはそのままで構わないということだったのですが、
それでよろしいでしょうか?」

「・・・というのは?」

「例えば、風呂釜、浴槽、ウォッシュレット、エアコン、瞬間湯沸かし器、照明・・
と言ったようなものです」

対応していてくれた男性は、ちょっとお待ち下さいと席を立った。
戻ってくると、元の席に戻り、

「はい、結構です」と答えた。

あーよかった。

「では、後は、残ったもの、例えば、冷蔵庫や食器棚というようなものを処分すればいいんですね」

「はい、まぁ、そうです」

「わかりました」

そこまで話し終えると、男性は、もう一枚、書類を私の面前に置いた。

「これにもサインをお願いしたいのですが・・」

「これは何ですか?」

置かれた書面に目を落とす。
遺留品廃棄云々というタイトルが綴られていた。

「退去後、残っているものを廃棄しても構わないという承諾書です」

「例えばどんなものでしょうか?」
今度は私が質問する。

「例えば、家具とか、電化製品とか・・とにかく、残されたもの全てです」

「わかりました。ただ、例えば、冷蔵庫を処分しそびれて、残していった場合、
その処分にかかる費用はこちらに請求されるわけですよね」

「はい。最初に頂いた預かり金以上になった場合はそういうことになっていますが・・・
ただ、ですね・・・○○さんの場合、減免措置をうけているので、
仮に処分費用が最初の預かり金を越えても請求されることはありません」

「え???」

自分の耳が信じられなかった。
今まで、何度、お客さまセンターに連絡をしても、
『持ち込んだものは全て撤去してください』と何度も言われてきた。
『もし、撤去できずに残した場合はどうなるのでしょうか?』と聞くと、
その度に、『預かり金で賄えない分は、後ほどの請求になります』と言われてきてた。

ある方には、
『場合によっては、二桁では足りず、三桁の額になったということもあるので頑張ってくださいね』とまで言われた。

三桁。
100万円以上ということだ。
なので、取り付けてあるものはよしとしても、その他のものは全て処分すべく頑張ってきていた。
それが、これである。

「あの、では、仮に不要なものを全部残していっても構わないということでしょうか?」

「・・できれば、片付けて頂きたいですけれど、もし、残していっても、
預かり金以上の料金は発生しないということです」

絶句してしまった。
なんのことはない。
私は、実家から、必要とするものだけを持ち出し、
後は放り出して行ってもよかったということだった。

何でそれならそうと、最初から言ってくれなかったのですか!
と声を荒げることも可能だった。
が、そんなことをしたとしても、何もならないのはわかっていた。
今、私の目の前に座っている男性は、単に係りとしての仕事をしているに過ぎない。
男性にしてみれば、カウンターの向こうに座っている私は、
日々やってくる処分対象者の一人に過ぎないだろう。
恐らく、彼の中に、記憶にすら残らない、その他大勢の一人。

もちろん、このことを住宅供給公社に訴えることはできた。
理不尽な扱いを受けた場合にはいつもそうしてきた。
闘うことは厭わない。
必要であればいつでも声は上げる。
でも、行いは、いつでも何でもすればいいというわけではない。

「時」を考えること、
そのために費やされる「時間」や「エネルギー」を考えること、
「相手」を考えること、
その結果得られるものを考えること、が必要だった。

今はその「時」ではなかった。
しばし呆然とした頭の中を必死でとりまとめ、最後の鍵の返却について確認し、
オフィスを後にした。

気が抜けていた。

一体、今まで何をやっていたんだろうとも思った。

腹も立った。

何故早く教えてくれなかったんだろう?
でも、そんなことを今更、言ってもどうにもならなかった。
住宅供給公社のお客さまセンターは、たくさんいる居住者の退去に際し、
事務的に応じるだけのことだ。
彼らは彼らの仕事をした。

対応した相手に、その人の事情があり、家族があり、人生があるなどと、いちいち考えてはいない。
要するに、ああした組織を相手に、私がそこまで確認できなかったのが悪いのだ。
それでも、最後の最後にわかっただけでもよかった。

それに・・・
仮に、必要なものだけを取り出して、家を後にしていいと言われても、
わたしにはできなかったかもしれない。
終ったことは、振り返るまい。
私は、友人に借りた自転車を漕ぎ、家に向かった。


その日から、月末まで、淡々と仕事を続けた。
もう、ものの処分にやっきになることはなかったが、
欲しいと言う方がいればもらっていただきたかった。
嬉しいことに、両親が使っていたベッドにも貰い手が現れ、
ほとんどのものが誰かの元に去っていった。

残ったのは、取り付けてあるもの他は、冷蔵庫、食器棚、古い鏡台、調理代ぐらいだった。

最後の一週間ほどは、今まで、お世話になった人々へのご挨拶に費やした。
住んだことはない家だったが、両親のお陰で、多くの協力者が回りにいた。
たまに現れるだけの私にも、誰もがとてもよくしてくれた。
滞在中、めぐり歩いていた、いくつかの場所に顔を出し、幾人かのお宅に食事に呼ばれ・・・、
そんな風にして両親のこの地での最後の時間を過ごした。
家を後にする当日までも、顔を見に来てくださる方もいらっしゃった。

2017年11月30日朝

全てを終え、玄関で靴を履いた。
もう一度振り返り、部屋を眺めた。
重い扉を開け、廊下に出て鍵を閉める。
そして、家に向かって、深く深くお辞儀をした。
両親と、両親を守ってくれた家に敬意を込めて・・

顔を上げ、歩き出す。
今、私は片付けを終え、両親の家を後にする。

一つの歴史が静かに閉じられた。






母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html
親の人生の後片付け(私の場合) その2
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68696099.html
親の人生の後片付け(私の場合) その3
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親の人生の後片付け(私の場合) その4
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親の人生の後片付け(私の場合) その5
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
両親の移住 その後3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68661586.html
両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html


母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html
母の最期 ⑤ - 海へ  http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68676140.html











介護保険を利用して取り付けてもらった手摺について、住宅供給公社に問い合わせていたのだが、
中々返事がもらえぬまま、日にちが経っていた。
私は痺れを切らし、地域のナーシングホームに連絡を取ることにした。
介護について色々、相談に乗ってもらってきていた相談員の方に聞いた方が早いのではないか
と思ったからだった。

「お久しぶりです。両親のことでは色々、お世話になりました」と挨拶から入り、

「あのね・・・」と事情を説明した。

IZさんとは、年も違わず、二人で話しをする時には、友達同士のように会話していた。

「え??手摺?外さなくていいんじゃないかな~?」

「え?外さなくていいの??」

「うん、そう思うよ。地域の窓口センターに聞いてみた?」

「ううん、そうしたいんだけど、電話で問い合わせはできないのよ。住宅供給公社に電話しても、
地域の窓口には回してくれないの」

「そうなの~?じゃ、私の方から聞いてあげる。個人じゃないから、直接連絡取れるから」

ということで、IZちゃんは早速連絡を取ってくれた。
折り返し、すぐに電話がかかってきた。

「あ、ゆみちゃん、やっぱり、いいってよ。そのままで構わないみたい。
あのね、そこの窓口のNさんがそう言っているから、直接話して聞いてみて。
住宅供給公社に電話をして、私の名前を出して、Nさんに連絡を取るように言われました。
と言えば大丈夫だから」

「ありがとう!!!」

私は早速、住宅供給公社のお客さまセンターに電話を入れた。
IZちゃんに言われた通りに告げると、地域の窓口に回してくれた。

おおお、初めてだ!
Nさんとお話をする。

「あ、はい、先ほど、連絡を受けました。○○さんですよね。×▽□号室の」

「はい。そうです」

「確か、減免を受けていましたよね」

「はい。しばらく前から受けています」

減免というのは、所得の低い場合や、退職等により収入が減少した場合に、
使用料(家賃)の減免を受けられる制度だ。

「でしたら、取り外さなくてもいいですね、たぶん。ちょっと待ってください、
確認してもう一度お電話します」

5分も待たずに折り返し連絡が来た。

「あ、Nです。やっぱりそうです。取り外さなくてもいいです。
それから、そこに取り付けてあるものですね。例えば、お風呂とか、エアコンとか、
そうしたものは、そのままでも結構です」

「え???外さなくていいんですか?でも、そうしたら、それを取り外すための料金が後でかかりますよね」

「はい、でも、減免の場合は、最初入居時に頂いた預かり金で賄うようにしますので、大丈夫です」

「でも、最終的な料金が、その預かり金より大きくなったらどうなるんでしょう?」

「それでも、料金は発生しません」

これは朗報だった。
私は、念のために外さなくてもいいものを確認した。
お風呂、トイレ、エアコン、瞬間ガス湯沸かし器、照明、ガス警報機、鏡などなど
礼を述べて電話を切り、ほっと大きく息を吐いた。

あーよかった。これで業者を頼まなくて済む。
でも、それならそうと、なんで早く教えてくれなかったんだろう???
文句もあったが、ま、いい。仕事が減ったことを喜ぼうと、片づけを進めた。



処分するものとは別に、父のいる施設に送らなければならないものもあった。
いくらかの父の衣類、鞄、そして、書類類・・

それから、
母が作り、軒下に置いておいた梅酒、梅サワー、梅酢、ラッキョウ汁・・・

母は、庭の梅を使って長い間、梅干、梅酒を作っていた。もちろん、311前まで。
元々、添加物や化学物質は徹底的に避けてきていたので、作る材料にも気を使っていた。
母の作る梅干、梅酒は最高だった。
梅干は早い段階で、持って行ってしまっていた。梅酒もそれほど残ってはいなかった。
ただ、お料理などにも使う梅サワー、梅酢、ラッキョウ汁は2ℓ入りのガラス製の保存容器に
まだいくつも残っていた。
一時は、みんなにもらってもらおうかとも思ったのだが、これは私が使いたかった。
母の手作りの品。最後の一滴までできれば私と家族の口に入れたかった。

最後に、アルバム。
これも結構な量があった。
アルバムから写真をはがし持っていくことも考えたが、それをしている時間がなかった。
仕方なく、そのまま段ボールに詰めた。
後は少しずつ、父の施設で整理するつもりだった。

郵便局でゆうパックを送る場合、箱のサイズは多々あるが、一箱の最大重量は30キロまでだ。
私はできるだけ個数を少なく、どの箱も最大重量ぎりぎりまで詰め込みたかった。
4つの箱を、近所のスーパーマーケットで集め、それぞれの重さを考慮しながら荷造りをした。

一応、体重計を使って量ってはみたのだが、大きな箱を体重計で量るのは結構難しい。
箱の蓋は封をせず、4箱、詰め終えた時点で、郵便局の集配に連絡をとった。

「重量がオーバーしてしまっているかどうか自信がないので、集配に来て頂いて、
もしオーバーしているようだったら、仕切り直したいのですが・・・」と伝えた。

東京から送るものなので、できるだけ、道中で余計な放射性物質を集めたくはなかった。
荷物はビニール袋にいれ、段ボールもビニール袋で包むようにした。
これは結構、大変だった。

集配に来てくれたのは、若いお兄ちゃんだった。
再度、事情を説明して、上の蓋は開いたままの段ボール箱を渡した。

一つ目。
持ち上げるなり、「あ、これはダメかな~」と言う。

「やっぱ、だめっすね~、オーバーです」

「わかりました。じゃ、次です」

次々に渡したが、全て重量オーバーだった。

「体重計で量ると大体、わかるんですけどね~」

「ええ、一応、量ってはみたんですが・・・だめですか・・・。わざわざ来て頂いたのに、
ごめんなさい」と頭を下げた。

「いえいえ、いいですよ」

「あの、申し訳ないのだけれど、もう一度載せて、どのぐらいオーバーしているのか
教えてくださいますか?」と頼んだ。

「あ、これ、ダメなんっすよ。30キロまでしか量れないんで」

「え!?」

30キロまでしか量れない???そりゃ、どういうことだ。
秤の役目を果たさないじゃないか!と思ったが、そんなことをお兄ちゃんに言っても仕方がない。

「わかりました。一つだけでもいいので、もう一度、箱を載せてくださいますか?
大丈夫なところまで中身を出してみます」

お願いして箱を載せ、中身を少しずつ引き出した。
何のことはない。ほんの少しだった。

とりあえず、お礼とお詫びを言い、また、依頼しなおしますので、よろしくお願いしますと頭を下げた。
というわけで、箱をもう一つ頂いてきて、詰め直しだった。

あーめんどくさい。

数日後、無事、5箱を送り出した。
残るのは、譲るか捨てるかのものだけになった。





母の移住
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家の中の物理的なモノの後片付けはもちろん、最大の仕事だったが、
東京に戻り、一番最初にしたのは、事務処理だった。

まず、母の死亡届を役所に提出し、戸籍、住民票、後期高齢者医療保険、介護保険、
年金などの手続きをしなければならなかった。
加えて、父の住民票も移動し、保険や年金のそれに応じた書き換えなども必要だった。

それらのことには金銭的な受け渡しが含まれるので、銀行の届出なども必要になる。
また、配偶者である父が手続きをとるのではないため、ことよっては父の委任状が必要となった。

煩雑ではあったが、東京に戻る前から、電話などで問い合わせをし、
必要な書類等を準備しておいたので、時間はかかったものの、徐々に片付けていくことはできた。
市役所に何度か赴き、年金機構に行き・・・としながら、仕事を進めていった。

ただ、東京を後にする日が決まってからではないとできない手続きなどもあり、
タイミングをはかる必要があるものも中にはあった。

その最たるものが、家の明け渡しだった。
家を明け渡すという旨を告げてから、出るまでに2週間と聞かされていた。
ということは、ここまでできたら、後2週間見れば大丈夫という時点で、
住宅供給公社(JKK)に手続きに行く必要があるということだった。
(と少なくとも、問い合わせの返答から理解していた。)

そのことを頭に置きながら、様々な仕事を進めた。
家を片付けながらも、何度となく、JKKには問い合わせをしていた。

いくつかわからないことがあるからだった。
① 設置されているものが、入居時からあったものなのか、後から持ち込んだものなのか。
② 入居後、設置されたものではあるが、それは取り外すべきものなのか否か。
③ 入居後の設置であることは間違いがないが残していった場合はどれぐらいの費用がかかるのか。
などということだった。

わからないものと遭遇するたびに連絡を入れた。
できれば、地域の窓口と直接話をしたかったが、いくらお願いしても回してくれなかった。
そして、地域の窓口に直接連絡を取る方法は、実際に、そこに赴く以外なかった。
要するに、電話連絡は不可だった。

様々なものを片付けながら、目に付いたものは外していった。
壁に打ち込まれている釘、取り付けられているコードやプラグ、
インターフォンなどの電気製品類などなど・・・

自分でもなんとかなりそうなものの中に、介護用の手摺があった。
要介護になった母のために、トイレ、風呂場、居間やキッチンのそこここに設置されたものだった。これらは介護保険を利用して取り付けてもらったものだったので、
外していいのかどうかわからなかった。

Jkkに問い合わせてみた。取り付けられている箇所を告げる。
と言っても、もちろん相手方も、それらが誰、或いは、どこがいつつけたもので、
取り外すべきかどうか即答できるものではない。
私の質問を受け、数日中にお返事するということで一旦電話は終った。

エアコンや、ガス瞬間湯沸かし器、鏡、照明器具などは業者に頼むつもりだった。
お風呂場は、入居時には、何もなかったということがわかっていた。
ということは、風呂釜も、浴槽も全て撤去しなければならない。
両親のお風呂は最新式のものではなかったが、全て自動で行なえる。
ボタンを押せば、お湯がはられ、準備ができたことを音声で知らせてくれる。
設置したばかりというわけではなかったが、まだまだ十分新しかった。
それを、全部撤去してしまうということにどうにも納得できず、私はまた、問い合わせをした。

結論から言えば、残しておけば、次に入る方たちにとって、公平にならないということなので
撤去してほしいということだった。
それはわかる。でも・・・と私は押した。

すると、
「あるタイプの風呂釜、浴槽の場合は残しておいてもいい場合があります」
ということを教えてくれた。

何で、最初からそれを教えてくれなかったのだろうかと思う。
いつでも、問いたださなければ、こうしたことは教えてもらえなかった。

どういうものであれば残してもいいのかということを詳細に聞き出した後、
風呂釜と浴槽の会社に連絡をし、それぞれが、残してもいい型のものであるかどうか問い合わせた。幸運にも、双方とも、残しておいてもいいものであることがわかった。

そのことを告げるために、再度、JKKに連絡を取った。
型がよいことはわかったが、それらを実際に検分し、十分に使用に耐えうるものかどうか見てから、そのまま残してもいいかどうか決めると言われた。

「それは、いつになるのですか?」
「そちらが、出られた後です」
「ということは、もし、仮に、私が残して行き、使用に耐えないとそちらが判断した場合は、
撤去料を請求されるということでしょうか?」
「はい、そうなります」

あほらしい。
そうは思ったが、取り外す手間と料金を考えると、賭けてみる価値があるのではと、
浴槽と風呂釜を眺めながら思い、それはそのままにすることにした。
ただ、ウォッシュレットは取り外さなければならず、それは業者に頼むしかなかった。

様々なモノを処分するのに、周りの人ばかりを当てにしてはいられないので、
業者へも働きかけてみようと思った。

これまで、本の処分、家電製品の処分、貴重品の処分には業者を当てにしてみていた。
本は状態の良い、売れるものであれば買取がある。
それは、家電製品も、洋服も、貴重品もしかりだ。
と言っても、両親の家に、それほど売れるような品物が残っているわけではない。

元々、それを元にいくらかでもお金にと欲張っていたわけではなかった。
使えるものは、ただ同然でも持っていってもらい、誰かの役に立てばという思いだった。

本は、段ボールを送ってもらい、そこに積めて送り返すと言う方法で、
いくらか売却することができた。
家電製品も、一つ二つ売れたものがあった。
ただ、ほとんど二束三文だった。

それでも、そうしたものを送る時に、例えば、売れないものはあちらで処分をしてくれる
というところもあり、重い本などをまとめてゴミ置き場に持っていくより、
段ボールに積める方が簡単だと思い、それらを利用した。

大量にある洋服、着物、それから、記念コイン類は業者が持っていってくれないだろうかと期待し、
査定に来てもらった。
繰り返し言うが、儲けを期待していたわけではない。
例え、洋服は、キロ単位でもよかったし、着物もただで持っていってもらっても構わなかった。

洋服も着物も中には新品のものもあったが、一つとして持って行ってはもらえなかった。
コイン類も同じ結果だった。

となれば、後は、処分するしかない。
コインは、使用できるものは、銀行に持っていき、使いやすいように変えてもらった。
洋服と着物は、知り合いに大々的に声をかけ始めた。
業者やお店に引き取ってもらうことは無理だとわかった以上、
積極的に処分のために動くしかなかった。

洗濯機と掃除機は貰い手が見つかっていた。
冷蔵庫は見つかりそうもないので、廃棄するための業者に連絡をし見積もりを頼んだ。
和箪笥、洋服箪笥、食器棚、ベッド、ガスコンロも見つけられそうもなかったので、
市の粗大ゴミを手配するつもりだった。

再び、シルバー人材センターや、リサイクルショップに連絡を取った。
バスタオルやシーツなどは、施設に寄付をした。
大量にあった文房具用品や雑貨類は地域の様々な公共の施設にもらってもらった。

キッチン用品、洋服やバッグ、ハンカチやスカーフ、アクセサリーなどは教会の人々の協力で、
バザーや寄付に回してもらえることになった。

人が生きていく上で、家の中に集めるものは、小さなものまで含めると、際限なく色々ある。
行き先を考えなければならないものはまだまだあった。

そうしたものを私は一つ一つ、処分していった。
それは、父と母の歴史の後片付けでもあった。





母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html
親の人生の後片付け(私の場合) その2
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68696099.html
親の人生の後片付け(私の場合) その3
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68697367.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
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両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html

母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html
母の最期 ⑤ - 海へ  http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68676140.html








ほんの少し体を休めた後、私は仕事に取り掛かった。

家具類はまだいくつも残っていた。
洋服箪笥、箪笥、ベッド2台、食器棚、鏡台、調理台、鏡、折り畳みテーブル、椅子2脚、数え切れないぐらいあるプラスチック製の衣装ケース。

家電製品でまだあるのは、冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロ、ガス瞬間湯沸かし器、ガス風呂給湯器、エアコン2台、オイルヒーター、電気カーペット、掃除機、LED照明、ドアホンなど。

上記のものは、貰い手が見つからなければ、粗大ゴミで出すか、業者に頼まなければならないものがほとんどだった。
それ以外に粗大ゴミ扱いしなければならないものといえば、ポータブルトイレ、シルバーカー、ショッピングカートと脚立。

その他の品、調理器具、食器などのキッチン用品、洋服、装飾品類など日常生活に使用する様々なものなどは、誰かに譲ることができなくとも、ゴミとして出すことができた。

私はまず、箪笥と衣装ケースを空にしながら洋服を捨てるものと譲れるものに分けることから始めた。
これは大仕事だった。何しろ、母の服が半端じゃなく多い。
母の性格なのか、或いは、世代ということもあるのか、母はものすごく服を所有していた。

例えば、パジャマ。夏物、春秋物、冬物とそれぞれが20枚ぐらいずつあった。
下着にしても、シャツだけでも、袖のないもの、半袖のもの、薄地の長袖、厚地の長袖というように、箪笥の引き出しを二つぐらい占領していた。上だけでもそうなのだから、下も押して知るべしである。

ブラウス、Tシャツ、セーター、ズボン、コート、とにかく何をとっても数が多かった。
下着類、パジャマ類、靴下類は、譲るわけにはいかないので、そのまま全て処分した。
その他のものを、譲れるもの、捨てるものに分け始めたが、一日二日で終えられるような量では全くなかった。

同じことだけをしていると嫌になってしまうので、合間に他のものの整理も進めた。
何しろ、たった一人でやっており、長い介護で疲労も蓄積している。
一日にできる仕事は限られていた。
朝から晩まで、家で片付け物をしていたら気が滅入りそうだったので、日に一度は外に出るようにした。

以前にも触れたが、両親は、地域活動に長く携わってきていた。
私は、両親のためにも帰国の度にそこここに顔を出していたので、住んだことはないこの地にもある程度の知り合いはあった。

地域では居場所作りも盛んに行なわれていた。
私は、それらの場所を日替わりで訪問した。
単に気晴らしの目的もあったが、そこで、処分するものの行き先を見つけるためでもあった。

行き先は主に三つだった。
「居場所プロジェクト」により作られた、2箇所の「居場所」。
そして、地域の人材と建物を有効活用した上で、年間1千万円(テンミリオン)を上限とした市の補助を得て運営する近・小・軽の家「テンミリオンハウス」だった。

テンミリオンハウスは、介護保険制度導入を機に、高齢者の生活全般を地域において支援する新たな「公的介護」のしくみ作りが求められ、市では、地域における『共助』のしくみとして展開してきた事業だった。
それに加えて、地域にいくつかある「コミュニティセンター」にも時々、顔を出した。

新しくできた、テンミリオンハウスでは、前回、我が家で処分した家具や文房具類が既に使われていた。それらを見学するのも兼ねて、東京に着いて、10日ほどした頃、初めて顔を覗かせた。

私が知っている方は、一人しいらっしゃらなかったが、ほとんどの方が父を知っていた。
「○○の娘です。父が大変お世話になりました」と挨拶をすると、誰もが歓迎してくれた。これはありがたく、父に感謝した。

そこで、お目にかかった方々に、その他の居場所でもしているように、今、自分がしていること、家の明け渡しのため、不要品を処分していること、をお話しした。
それを知ると、それぞれの方が、ご自分の知識内で、色々なアドバイスをしてくださった。
地域のリサイクルセンターを教えてくださる方、洋服の買取業者やお店を教えてくださる方、家具などの大きな不要品を一手に引き受ける業者を紹介してくださる方。

それらの情報をありがたく頂きながら、お話を進めていると、

「11月の初めに教会でバザーがあるんですが、そこで今売る品物を集めているので、不要品を見にご自宅に伺ってもいいかしら?」

と初対面の方に声をかけられた。

「もちろんです。そうして頂けると助かります」

と答え、住所や電話番号など、連絡先を伝えた。

その方、T子さんから連絡を頂いたのは、2,3日後だったかと思う。

「よかったら、明日のお昼頃うかがって、不要のものを見せていただきたいのだけれど」
私は一にも二もなく承諾した。

「どうぞどうぞ、差し上げられるようなものがあるかどうかわかりませんが、いらして見てみてください」

翌日、約束の時間になると、総勢、4人の女性がいらっしゃった。
T子さんともう一人、お二人ぐらいでいらっしゃるのだろうと思っていたので、多少驚いたが、そんなことは関係なかった。不要品を持っていってくだされば助かる。皆さんを歓待した。

4人の女性は、みな、教会の信者の方だった。
中に、お一人だけ、「居場所」を通じてお目にかかったことがある方がいらした。
Y子さん。
この方とご主人のことは父からお話しもよく聞いていた。ご主人は、父が引退後、20年ほどしていた幼稚園での仕事を引き継いでいらした。

「あら、Y子さん」とご挨拶をすると、「T子さんが、ゆみさんが、不要品を処分したいと言っていると教えてくださって、みんなでおしかけました」と笑顔を向けてくださった。

女性達はまず、キッチンから攻め始めた。と言っても、キッチン用品だけで、かなりの品がある。
食器棚にある半分ほど、調理用品をいくらか、より分けるだけでもかなりの時間がかかった。
それだけではと思ったので、その他のものも仕分けして集めておいた押入れから出し、見て頂いた。

私は、ものを粗末にすることが好きではない。
どんなものでも、使用できるものは
、きれいにして使い続けたい。
特に、両親が使ってきた品物だ。
私はそれぞれの品を、極力、きれいにし、同じものは、ひとつに集め分類した。
また、状態のよいものは、一つ一つ、ビニール袋に入れたりして、見てもらう方に見栄えがいいように準備していた。私にとっては、「できるだけ」のことをしたに過ぎなかったのだが、これはとても好評で感謝された。

この日、もらっていってくださったものは、かなりのものになった。
食器、調理具類、スカーフ、風呂敷、バッグ類、キッチン小物、バスルーム用品、文房具類などなど・・・・。

大きなものでは、オイルヒーター、シルバーカー、ショッピングカートなどももらって頂いた。

この後も、教会の方には何度となく来て頂き、かなりのものを引き取ってもらった。

最終的に、最後、全てを引き受けてくださったのは、ほかならぬ、Y子さんご夫妻だった。





母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
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父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
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親の人生の後片付け(私の場合) その2
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
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母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html
母の最期 ⑤ - 海へ  http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68676140.html







2017年3月、父を移住させた後、落ち着いた時点で、すぐにでも東京に戻り家の明け渡しを済ませるつもりでいた。
だが、母の容態が安定せず、移住先を離れることが難しくなってしまった。
加えて、私自身も負傷したりしたため、タイミングを見計らっているうちに、夏を迎えていた。

蒸し暑い夏の東京で、明け渡しの仕事をするのはしんどい。
もう少し涼しくなったらと考え、少し時間を置くことにした。
この間、もちろん、家賃や光熱費の基本料金をは払い続けなければならなかった。

母の容態は、緩やかに下降線を描いていたが、先は全く読めない状態だった。
8月末の時点で、とりあえず、10月に東京に行くという計画を立てた。
もちろん、それは、母の容態次第では変更せざる得ないことは承知していた。


母は、容態が急変し、9月14日、旅立った。


結果、皮肉にも、予定していたとおり、私の東京行きは10月になった。

両親は私が生まれる前から、公社賃貸住宅に入居していた。
最初に入った住宅は建て替えになったため、途中、住居を移した。
今回明け渡しをすることになった住宅に越してきたのは、1981年10月10日。
今から36年前のことだった。

私自身は、ここに越して来た時には既に独立していたので、この家に暮らしたことはほとんどない。
3DKという狭い間取りであったが、「捨てられない世代」であったた両親の住まいはもので溢れていた。

私は、親の人生の後片付け (私の場合)その1に記したように、親が旅たった後のことを思い、荷物の整理を以前から少しずつ始めていた。
2017年3月に東京を離れた時点で、ある程度までは、処分を済ませてはいたが、それでも、残されたものはまだまだあった。

東京に戻ったのは、10月14日。
全てを片付けるのにひと月、或いは、それ以上かかるだろうと考えていた。

賃貸住宅を借りている以上、返還には条件がある。
そのことについては、随分以前から、両親に聞かされていた。
基本的には、『現状回復』が条件だった。

要するに、借りた時の状態に戻すということである。
言い換えれば、持ち込んだものは全て撤去する必要があるということだ。
36年の暮らしの中では、様々に変化が加えられる。
その中には、時代の変遷にも促されたものもあった。

窓には網戸が取り付けられ、当然、カーテンが下げられる。
照明器具は変えられ、それに伴うようにスイッチも変えられていた。
玄関にはインターフォンが設置され、各種の警報機器も付け加えられた。
トイレはウォッシュレットに、お風呂は音声で沸いたことを伝える全自動になり、もちろん、エアコンも設置されていた。
また、母は後年、要介護の状態でもあったため、各所に、手摺も設置されていた。
それらを全て取り除き、最初に借りた状態に戻して返す。それが、公社賃貸住宅の返還条件だった。
そのことについては、両親から、随分以前に聞かされていた。

明け渡しが具体的になった時点で、私は、住宅供給公社(JKK)に連絡を取り、詳細を確認した。
原状回復が条件であることは間違いがなかった。
唯一、劣化部分はそのままでOKということだけが救いだった。

だが、ここで一つ問題があった。私には入った時の『原状』がわからなことだった。
そのことをJKKサイドに伝えた。
明け渡しの準備過程で、度々、連絡を取り、指示を仰がなければならないと思うということを改めてお願いしておいた。

10月14日、夜、7ヶ月空けていた家に戻った。
(本来ならばこの間、長期不在届けというのを出しておかなければならなかったが、すぐに戻るつもりでいたため、提出を躊躇っているうちに時間が経過してしまっていた)

留守の間、時には風を通してほしいと知人にお願いしておいてはいたが、家の中は黴臭かった。
実際、冷蔵庫を開けてみると、中は黴だらけだった。
7ヶ月の間、掃除をしていない部屋に寝るわけにはいかない。私は疲れた身体を奮いたたせ、とりあえず、眠る場所だけでもと清掃した。

冷蔵庫もすぐに使用しなければならない。
全ては無理でも、ある程度のもを収納できる部分だけ掃除をした。

移住先で、1年以上住んでいたアパートを閉め、そこで使用していた荷物を、父の施設に置き、飛行機で到着したばかりの身には辛い仕事だった。

最低限のことを済ませ、何とか身体をベッドに横たえた時には15日になっていた。
こうして私の親の人生の最後の片付け家が始まった。





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20171006_171006_0048




最後は海に流してほしい。
それが母の生前からの願いだった。

初めてそう聞いたのは、もうずっとずっと以前のこと。
その頃には、それが可能であるかどうかすら知らなかった。
洋画でそんなシーンを目にする以外、実際にそうした方のお話を周りで耳にすることもない頃だった。

母の最期が遠くないと思えるようになった時、「息を引き取った後のこと」を思った。
が、私はどうしても、残された母の身体をどうするのか、具体的なプランを立てることができなかった。

他の事に関しては、いつでも十分に調査をし、事前準備をする。
だが、このことについてだけは、まるで、心で遮断するかのように、目を背けていた。
考えたくなかったのだろう。

母が、お通夜もお葬式も、お経も戒名もいらないということは、生前から何度となく聞いていた。
そのことについては納得していた。
そこまでは何とか済ませることができた。

母を荼毘に付し、遺骨を胸に帰る途中、父が言った。

「ゆみ、この後、どうする?」

私はくたくたで、すぐにそんなことを考えられるような状態ではなく、

「お骨は置いておいても大丈夫なんだから、しばらく置いておいて、そのうち考える」

ぶっきらぼうにそう応えるのがやっとだった。


ブログに母の最期の様子を記してきていた。
時折、使い慣れない葬いにまつわる言葉の確認などを、この言葉はこれでよかったのかな?とネットでしたりしていた。
そんな折だった。
ふと「散骨」に関するサイトが目に留まった。

「え?できるの??」

以前、姉に、母が、最期は海に返りたいと言っていると告げたことがあった。
その時、姉は言った。

「日本ではそんなことできないのよ」

日本を長く離れている私は、あーそうなんだと思っていた。

調べ始めると海洋散骨も可能であり、それを請け負う業者もあることがわかった。
海洋散骨の方法はいくつかあった。合同で行なうもの、散骨自体を業者に依頼する委託代行散骨・・・。
できるのなら、私は自分の手で行いたかった。

小型船をチャーターし参加者で散骨を行なえるという個人貸切海洋散骨を提供している業者を見つけ、そこに依頼することにした。
散骨の日は、息子の21回目の誕生日である、2017年10月6日に決めた。

散骨と言っても骨をそのまま、撒くわけにはいかない。先に粉骨が必要である。
母の遺骨を事前に業者に送った。
チャーター便は日に3便。12時出港を選んだ。


2017年10月6日

11:30 港に集合
12:00 出港
12:20 散骨ポイント到着
12:30 海上にて散骨、黙祷
13:00 沖縄の海、景色を見ながらクルージング
13:30 帰港



朝、10時、父が、施設からタクシーで私達のところに到着。そのタクシーに乗り込み、みんなで港へと向かった。
予定より早く11時過ぎには着いてしまったが、依頼業者はそれに応じてスケジュールを早めてくださった。

天気は晴れ。
ただ、波が少し高く、通常より多少荒れて気味だった。

案内をしてくださるのは、W御夫妻。行程の説明を受け、ライフジャケットを着込むと出発だった。



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久しぶりの海だった。
2005年にイギリスを離れて以来、いつでも海の傍に住んできていた。
一週間と海を身近で見ない日はないという日々を過ごしてきていたが、この地に来てからは、遠目に目にすることはあっても、海風を感じられる距離までは中々来られずにいた。

船が走り出した。
風が身体を弄り始める。
思わず深呼吸をする。
気持ちがよかった。

海はそこここで、その地の色と表情を持つ。
この地の海もまた、他の海とは違った色合いと表情をみせてくれていた。

私は海面を波を、そして空をただ眺めた。

しばらくして、Wさんが、姿を変えた母の遺骨を出してきてくださった。
桐の薄い箱の中、母は白い紙の袋に入れられていた。
全部で6袋。
紙袋は水溶性なので、一緒に海に流して構わないと告げられた。



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沖合い2キロほどの散骨ポイントに到着。
散骨の仕方はご自由にと仰ってくださっていたが、一つだけ、注意を促してくださった。

「あまり高い位置から撒きますと、風に煽られて、戻ってきてしまい、目に入ったりしてしまいます。なので、なるべく低い位置から散らした方がいいかと思います」

なるほど。
ドラマチックに撒き散らすと、穏やかに海に着水できないかもしれないということだ。

まず、父から始めた。
小さく折り畳まれた袋の口を開き、海へと向けた。
さらさらと白い粉となった母が風に乗り、海に浮かび、静かに溶け込んでいった。
きれいだった。



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父の口からも、私の口からも、たった一つの言葉が自然と漏れていた。

「ありがとう。ありがとう。お母さん、本当にありがとう」

父と私はその言葉を何度も何度も繰り返した。

父に続き、私、ダーリン、息子と順に母を海に送った。



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最後の2袋は父と私で流した。


Wさんが、二つの籠に盛られた切花を手渡してくれた。
献花。
色とりどりの花を一つ一つ、海に投げる。
風に舞い、波に舞い、花々が、海面を彩っていった。
美しい景色だった。



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黙祷。

母は海に返った。

これからは、海は母の眠る場所。

「お母さん、これで世界中どこへ行っても一緒だね」
私はそっと呟いた。



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港に戻り、帰途のタクシーに乗り込んだ途端、雨が落ちてきた。
空と海が雨で繋がったかのように感じた。





母の移住
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2017年9月16日
AM8:00 集合、出棺式
AM8:30 出棺
火葬場へ
AM10:00 火入れ
AM11:50頃 収骨




私にとっての初めての「死」は祖父だった。
祖父は59歳という若さで、膵臓癌で亡くなった。
私はまだ、5歳にもなっていなかった。
母の実家の6畳の間に、祖父の棺は斜めに置かれていた。その周りを親族が囲み、皆が振り絞るような声で、祖父を呼んでいた。
若い母も泣いていた。

「ゆみちゃん、ほら、触って御覧なさい、おじいちゃん、こんなに冷たくなっちゃった」

そう言いながら、私の手を祖父の額に持って行った。
指先でそっと触れた祖父の額は氷のように冷たかった。

祖父の身体は火葬場に運ばれ、皆の涙と共に送られた。
母が空を見上げ立ち上る煙を指差した。

「ほら、ゆみちゃん、見てご覧!おじいちゃんが煙になってお空に上っていくから」

そして、祖父は骨になった。

「お父さんが骨になっちゃったよ~」まだ若い母の妹たちは泣きじゃくっていた。

祖父の骨を皆で拾った。長い箸から箸に骨が渡された。私も母の手に手を添えて一緒に拾った。

5歳の私の中で、それが、死の最期だった。
いつの日にか、大人になり、思うようになった。
両親の骨を拾うこと、それは私がしなければならないことなのだと。



空に上る母のために晴れた空をと望んだが、まだ台風の影響が残っており、天気は荒れ模様だった。
風が強く、時折雨がばらついていた。

8時少し前に斎場につき、母が置かれた部屋に行った。
母はとても美しく化粧を施していただいていた。

「ああ、お母さん、とってもきれい。よかったね。最期まで美人だね」

私は母に声をかけ、顔を覗きこんだ。
母の口の端から、体液がほんの少しこぼれていた。
ちょうど部屋にいらしたM氏にそのことを告げると、棺の蓋を全て外しその部分をきれいにし始めた。

母の体が白いサテンのような布の下に現れた。
M氏が母をきれいにしてくださっている間、私はもう一度、その布の上から母の身体を触った。
肩、胸、腹部、そして、手足をゆっくりと撫で、

「お母さんの体、本当に長い間ありがとう。お母さん、ありがとう」と呟いた。

M氏は、一度部屋を出られると、棺に入れる花を持っていらした。

息子とダーリンと三人で母の顔の周りを花で飾った。
ダーリンが、カメラを掲げて、どうする?と聞いた。
私が頷くと、息子と二人、花に囲まれた母の姿を写しはじめた。

出棺の時間になった。
母の棺は、いわゆる霊柩車ではなく、普通の車に載せられた。
後部扉が閉ざされると、運んできてくださったスタッフが深々と頭を下げた。
私とダーリンは、後部座席で母の傍らに腰を降ろした。
「では、出発します」という運転手の方の声と共に、車が動き出した。
M氏が、車の外で、深く低頭された。その姿を見つめ、私も、頭を下げた。
頭を下げると人の行為に、「敬意」を強く感じた。

火葬場までは、一時間弱の道のりだった。あちらで父と合流することになっていた。
土曜日で道が空いており、予定時刻より早く到着した。前の順番の方がまだ、終わられていないということで、しばらく車の中で待つことになった。

火葬場は、近代的に美しい建物だった。半世紀以上前、祖父を送った火葬場とは、似ても似つかなかった。
台風の残りの風と雨が空気を大きく動かしていた。建物の入り口近くにあるガジュマルの樹が枝を大きく揺らしていた。

ほどなくして、施設の方が父を連れてきてくださった。と直ぐに、私達の番になり、建物の中へと案内された。
必要な手続きを済ませた後、母の棺が安置された大きな部屋に通された。
普通は、故人の写真が飾られ、多くの親族が集い、最後の別れをする場所だった。
私達家族にとっては、母と父、ダーリンと息子と私で過ごす最後の場所だった。
そして、父にとっては、この短い時間が、65年という長い月日を共に過ごした、母の死に顔との対面であり、別れだった。

「○子、長い間、本当にありがとう。私はお前と一緒になったことを一度も後悔していない」

父は母にそう語りかけていた。

係りの方の「それでは・・」と言う声に、私達は振り向いた。

「ご遺族の方でご一緒に、そこにある白い布をお顔にかけてさしあげてください」

父と私とでその小さな白い布を持ち、母の顔の上にそっと置いた。

「それではこれから棺の蓋を閉めますので、皆さんご一緒に、蓋を持ち、静かに降ろしてください」

4人の手で、母の棺の蓋を降ろした。

「それでは出発いたします」

母の棺が動き出し、私達はその後に続いた。
火葬炉に母の棺が納められると、間違いがないようにと番号札を渡された。
扉が閉められた。

「では点火ボタンのロックを解除いたします。このボタンを押しますと、火葬が始まります。ボタンははどなたかが押されますか?」

「お父さん・・」私は父を促した。

少し背中が曲がり始めた父の右手が上がり、点火の赤いボタンを力強く押した。ライトがつき、母の火葬が始まった。
約2時間弱ということだった。

建物に設置してある控え室で、時間を過ごした。
私は本を読み、ダーリンズと父は、喫茶店で購入した食べものを食べ終えると、横になって寝入っていた。
皆疲れていた。

アナウンスで名前が呼ばれ、係りの方が迎えにきた。

ここで、私は大きなミスをしていた。
ダーリンは以前から、箸の使い方のマナーにおいて、箸から箸へ食べものを渡してはいけないということを知っていた。そして、その禁忌が骨上げの際、死者の骨を拾うときにする作法に由来としていることも理解していた。なので、てっきり、ダーリンは骨上げのことを知っているとばかり思っていた。

が・・・
ダーリンはそれは特殊な宗教関係の方々がすることだと思っていたらしい。一般の人々の火葬においても、骨を拾うことになるとは、考えてもなかった。

係りの方に連れていかれ、部屋に案内され、火葬の済んだ母の姿を見たときの二人の驚愕はかなりのものだった(であろうと思う)。
私は、母の姿とこれからしなければならないことに心が向いており、二人の動揺に気づけなかった。
呆然としているような二人を横に、父と私は、必死になって母の骨を拾った。
この期に及んでと思うが、後がつかえているのであろう。係りの方がやんわりとでもしっかりと先を急がせた。

事前に、「箸渡し」のことを聞かれていたが、人数が少ないこともあり、父は断っていた。
ダーリンズにも手伝ってと声をかけたが、二人は、躊躇いがちに箸を伸ばししていた。その時には、どうしたのだろう?ぐらいにしか思わなかったのだが、当然の反応だったのだと後になって納得した。

ダーリンズ、ごめんなさい。。゜゜(´□`。)°゜。

私は心配だった。
母の身体が火葬炉に送られ点火する時、火葬された母の姿を見る時、私は自分が冷静ではいられないのではないかと。取り乱し、泣き叫んでしまうのではないかと。
が、私は冷静だった。もう一人の自分が自分の行いを見ているかのような思いで、するべきことを淡々と行なうことができた。

そうできたことに心から感謝している。

母の骨を足から骨壷に入れ、残った細かな砕片を箒と塵取りちのような道具で集め終えると、収骨が終了した。
父が骨壷の蓋をし、壷が桐の箱に収められた。係りの方が、丁寧に、手際よく白い布で箱を包んだ。

「こちらが前になります。こういう風に持ってください」

手渡された白い布で包まれた母の遺骨を私は胸に抱いた。

「お母さん、ここまでちゃんとできたよ。」

子どものように、私は母にそう報告した。





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2017年9月15日(母の死の翌日)

なるべく睡眠をとらなければと思ったのだが、最低限の用事を済ませて、ベッドに横になっても眠ることができなかった。結局、一時間ほどまどろむと起きる時間になってしまった。

朝一番で市役所に赴いた。
火葬許可証を申請できるのは、故人が亡くなった場所の役所か、或いは、届出人の住民票が置かれている役所だという。
普通は娘である私が届出人になるのだが、私の住民票はまだ東京にあるため、こちらに住民登録をしているダーリンに代わりを務めてもらうことになった。

ダーリンには印鑑がないので、多少ごたごたするかな?と懸念したのだが、何とかスムーズに手続きが済んだ。ダーリンは、盛んに指を振り回して拇印アピールをし、係りの方を笑わせていた。

火葬許可証を頂き、タクシーで斎場に着いたのは、10時ごろだったと思う。
もう火葬場の予約は取れていた。許可証を渡し、翌日の火葬までの手順を説明をして頂いた。


2017年9月16日
AM8:00 集合、出棺式
AM8:30 出棺
火葬場へ
AM10:00 火入れ
AM11:50頃 収骨



費用についてなどのその他の必要事項を伺った後、母に会わせて頂けますか?とお願いした。
担当してくださっているM氏がお部屋へと再び案内してくださった。

母が安置されたお部屋は、畳のお部屋も併設されており、希望があれば、宿泊も可能だということだった。
部屋に入ると、母の傍に跪いている方がいらっしゃった。死化粧をしてくださっていた。

「あ、お母さん、きれいにしてもらっているのね」と声をかけた。

振り向いた女性に「ありがとうございます」と頭を下げる。

「見せていただいていいですか?」と少し傍に寄った。

女性が聞いてきた。
「どのぐらいなさりたいですか?ここのところにを消すようにすると、少し厚塗りになってしまうかな?とも思うのですが、どうなさいますか?」

母の頬にある赤っぽくなっている部分を指し示しながら尋ねる。

「母は、生前、死化粧は、きれいにしてほしいと申しておりました。目いっぱい、きれいにしてあげてください」とお願いした。

ダーリンと二人、しばらく女性の仕事を眺めていた。

ダーリンがふと、「どうしてこの仕事をしようと思ったんだろう?」と英語で呟いた。(以後、英語のやりとり)

「そうだね・・・」

「普通さ、子供の頃に、将来の夢は何ですか?と問われて、亡くなった人のお化粧をする人とか言うのって、ないよね。いつ、どうして、この仕事につこうと思ったんだろう?」

「うん、ほんとだね・・。聞いてみれば?」

「ね、ゆみ、聞いてよ。僕は気分を害さないように上手く聞けないと思うから、ね、聞いてみて・・」

私は一呼吸置いた後、言葉を選んで質問してみた。

女性は答えた。
「若い頃から、この仕事がしたかったんです。人はこの世に生を受ける時には、たくさんの祝福を受け、多くの人々に歓迎されます。でも、去る時には、決してそうではない。でも私はその時もまた大切な時であり、十分なお世話をして送ってさしあげたいと思ってきました」

女性は続けた。
「私の若い頃には女性にはこの仕事が許されていませんでした。一度は諦めざる得なかったのですが、その後、子育ても終え、もう一度、挑戦したいと思った時、女性も可能になったことがわかりました。それで・・・
この仕事を始めて5年になります」

私は応えた。
「そんな風に考えていらっしゃる方に、死化粧をしていただけるなんて、母も、そして私も本当に幸せです。母は生前、最後の死化粧はきれいにしてほしいと申しておりました。どうぞ、きれいに化粧を施してあげてください」

私とダーリンは女性に深々と頭を下げた。


同席されていたM氏にも同じ質問をしてみた。

M氏は答えた。
「実はこの仕事に入る前は、17年間パチンコ業界にいました。20歳で結婚しましたので、お金も必要でした。この地では、パチンコ屋は一番給料がいいんです。子供達を育て上げた頃、大切な友を送りました。その時に、この仕事をしたいと思いました。心を込めて人生の最期を送る仕事をしたいと・・・」

M氏は、母の遺体を丁寧に丁寧に扱ってくださっていた。
お仕事だからされているのだろうなと、思っていたその行いに血が通った一瞬だった。

「そんな方に最期のお世話をしてもらえる母は幸せです。私たちからも感謝の言葉を述べさせていただきます」

私とダーリンはM氏にもまた深く頭を下げた。

最後に私は女性の名前を伺った。
私達は、お二人を名前で呼びかけ、もう一度丁寧に頭を下げて斎場を後にした。





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お通夜もお葬式も、お経も戒名もいらない。
荼毘に付し、そして遺骨は、それが叶うなら、海に流してほしい。

それが母の希望だった。

死後のことについては、随分以前から話し合っていた。


息を引き取った後、遺体をどうするかと尋ねられた時、母が火葬だけを望んでいたことを告げた。

「それであっても、とにかく葬儀社にお任せするのが一番いいと思います。どこか、頼もうと決めていらっしゃる葬儀社はありますか?」と主治医に聞かれた。

全く知識も情報もなかった。

「病院では、葬儀社を紹介するということはできないので、検索するか、新聞を見るなどして決めてください」

「わかりました」

母のいた施設の方に力を借りようと思った。

「これから、ご遺体を清めて、故人が望んでいらっしゃったお洋服などがあれば、それに着替えさせて差し上げようと思いますが、お洋服はお持ちですか?」
と看護師が問うてきた。

母が最期にと望んでいた洋服は持ってきてはいたが、施設に置いたままだった。
そのことを告げると、

「それでは、一度戻って、お洋服をとってきてくださいますか?そして、葬儀社にご連絡がついたら知らせてください」と言われた。

母の遺体を清めて頂いている間に、再びタクシーに乗り、母がいた施設に向かった。
タクシーの中で電話を入れ、これからの用向きを伝え、助力を請うた。
お世話になった看護師の方は、「葬儀社は新聞で探しておきます」と仰ってくださった。

施設に着き、母の洋服を用意した後、教えて頂いた葬儀社に電話をした。
何から伝えたらいいのかもわからず、最初に口にしたのは、「最初に何をお伝えすればいいでしょうか?」だった。

故人の名前、依頼者である私の名前と連絡先、病院名を告げた後、お通夜、葬儀は必要なく、法律的に必要な処置だけお願いしたいと伝えた。
遺体はご自宅に置かれますか?と問われたが、とても引き取れるようなスペースはない。

「では、こちらでお預かりいたします。お支度が整いました頃、病院にお迎えにあがります」と告げられた。

話の中で、東京出身だということがわかると、では、ご遺体は、内地に送られるのでしょうか?と聞かれ、ああ、そうなのか、普通は、そうするのだろうなとぼんやりと思った。

母の死出の洋服を手に病院に戻ったのが、11時近かっただろうか?
葬儀社は12時にお迎えに来るとのことだった。

母は看護師さん方の手で、きれいに整えられていた。
葬儀社が迎えに来るまでの間、母の傍に腰を降ろし、まだ、少し温かみのある母の身体に触れながら語りかけた。

葬儀社の到着を電話で受け、母を霊安室に移動した。
そこで、簡単なお焼香をして頂いた。主治医の先生、看護師さんも手を合わせてくださった。

車で20分ほどの斎場に着き、母を安置した後、今後の話し合いが行なわれた。
最初にしなければならないことは、火葬許可証を役所から取ることだった。
通常は、葬儀社がしてくださるのだが、我が家の場合、住民票をここに置いているのがダーリンのため、葬儀社の方は首を傾げた。

「あの~、印鑑が必要なのですが、ご主人様の印鑑はございますか?」

ダーリンは、指を持ち上げて見せた。

「となりますと、私どもが参るわけには参りませんので、大変、申し訳ないのですが、明日、あ、もう今日ですね。なるべく早く市役所に行き、火葬許可証を頂いてきてくださいませんでしょうか?それを持って、遅くとも午後3時までに、こちらに来てください。そうしましたら、火葬場の手続きを進めたいと思います」とのことだった。

母が亡くなったのは、木曜日。金曜日に役所で火葬許可証を頂けなければ、週明けになってしまう。
その上、この週末は敬老の日が入り、3連休だった。

「わかりました。では、明日、朝一番で市役所に行き、火葬許可証を頂いた後、こちらに参ります」とお答えし、その他、費用等のことなどを話し合った後、自宅まで送って頂いた。

家に帰りついたのは、午前3時近かったのではないかと思う。



ノウゼンカズラ2

母が好きだった花のひとつ ノウゼンカズラ




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2017年9月14日20時35分、母が旅立った。

85年という歳月をりっぱに生き抜いた。

お母さん、本当にありがとう。


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母を父のいる施設に入所させることができないとわかった日(2017年9月11日)、私はかなりショックを受けていた。ひとしきり泣いた後、それでも、夜には思い始めた。
「よし、そらならそれで、次の方法を考えよう」

だが、母は、翌々日、14日、逝ってしまった。

9月12日午後、歯の定期健診があった。その後、病院の最終のシャトルバスに乗り、母の元に行った。
着いたのは、4時過ぎ頃だった。母は、特に大きな変化もなく、ベッドに横になっていた。

知ったばかりの残念な知らせ伝える気持ちにはなれず、心の中で呟いた。
「ごめんね、でも、また、何かよい方法を考えるからね」

母がヨーグルトか何か冷たいものが食べたいと言うので、冷蔵庫にいれておいたリンゴジュースを開けてあげた。
母は美味しそうにゴクゴクと喉を鳴らしてジュースを飲んだ。
詰まると困るからゆっくりねと言葉をかけながら何度か口にストローを含ませた。

持ってきた三つパックのリンゴジュースを冷蔵庫に入れ、洗濯物を回収し、ベッド周りや戸棚の中を整えた。
ティッシュの予備が十分にあるかどうか確かめると、残り一箱しかなかった。

母がオムツ交換を頼み、看護師さんが病室にやってきた。
オムツ交換、着替えが終わり、シーツ交換になった段階で、「ティッシュを買いに行ってきます」と声をかけ病室を出た。

8月分の入院費の請求書も届いていたので、先に2階の支払い窓口に寄った。
カードで払うつもりでいたが、使用限度額を超えてしまっており、支払いができなかった。
どうせまたすぐ来るのだからと思い、次回来た時に現金で払いますと伝え、一階のコンビニに降りた。

ティッシュを手に病室に戻ると、母は、静かにベッドに横たわっていた。
傍に行くと眠ってはいなかった。
残っていたジュースを口に含ませ、「また台風が来ているのよ」と話しかけたりした。
ジュースを飲み終えると、少し落ち着いたのか、いつものようにまどろみ始めた。

閉じていく母の瞼を見つめながら、額から頭部へ、髪をそっと繰り返し撫で上げた。
少しでも安心して眠れるようにと、しばらくそうして傍にいた。

母の顔が、眠りへと誘われたのを確認した後、荷物を手に取り、部屋の入り口に向かった。
病室を出る前に、振り返った。
もう一度、戻ってキスをしようか?そうと思いながら、母の顔を眺め、そのまま辞した。
それが生きた母を見た最後になってしまった。

日本列島に台風が近づいていた。

9月14日、朝から、天気は荒れ模様だった。
ここ最近、一日置きか、二日置きに母の見舞いに行っていた。
その日も、朝から、行こうか行くまいか何度となく逡巡していた。

迷うのは、体が疲れている証拠なのだろうなと思いながらも、行った方がいいのではないだろうかと繰り返し自分に問いかけていた。
疲れてもいたのだろう。気づくと眠ってしまっていた。
目覚めるとやはり外は雨が降っており、シャトルバスも最終に何とか間に合うかどうか?という時刻だった。

今日はやめて明日いこうとようやく思い切り、午後の時間を過ごした。
病院から電話が入ったのは18時半頃だった。

「お母様の具合があまり芳しくないので、主治医の先生がお話をしたいとおっしゃられています。明日、12時にいらっしゃれますか?」という連絡だった。

「何か、緊急でしょうか?」と聞くと、そういうわけではないという。

「わかりました。明日、必ず、12時前に病院に到着しているように致します」とお答えして電話を切った。

母は、2015年の夏から、危ないと言われ続けてきた。
2015年の夏の時点で、後半年。それが、また、半年延び、2016年の夏に、この地に来た時にも、恐らく、この年を越えられるかどうかでしょうと言われていた。
2017年の春先には、夏ぐらいを目処に考えましょうと言われ、この日まで来ていた。

6時半の連絡を受けた時点では、来るべき時がやがて来るのだろうなと覚悟を新たにしたぐらいだった。

午後8時頃、再び、病院から電話が入った。
今回の電話は、切迫していた。

「すぐに来られますか?血圧も下がり、心拍数も・・・」

看護師さんの言葉がちゃんと耳に入らなかった。
とにかく、「すぐに行きます」と電話を切り、身支度を整え、タクシーを呼ぶために電話をした。
どれもスムーズにはできなかった。
全身が震え、スマホの操作も何度も間違えた。

タクシーに飛び乗り、急いでくださいと行き先を告げた後、父のいる施設に連絡をした。
それでも、その時には、これが最期だとはまだ思っていなかった。

父は休んでいる時間であることはわかっていたので、施設の方に事情を説明し、病院についてから今一度連絡をしますと伝えた。

タクシーが赤信号で止まる度に、赤いランプが恨めしかった。
ようやく病院の建物が見え始めた時、スマホが鳴った。
主治医からだった。

「心臓が止まり、呼吸も止まっています」

「母は、母は、もう逝ってしまったのですか?」

理性的に考えれば当然の結論であるはずなのに、私はそう叫んでいた。

タクシーを降り、エレベータに乗ると、同乗者がいた。
その方は、5階のボタンを点灯した。
何で、こんな時にという身勝手な思いが心を過ぎった。
5階につき、ドアが開き、その方が降り、再びドアが閉まってエレベータが動き始めるまでの時間が果てしなく長く感じられた。
エレベータが9階に到着し、ドアが開いた途端、私は駆け出した。

病室に入ると、主治医が沈痛な面持ちで母の枕元に佇んでいた。

「母はもう・・・」
主治医は首を横に振った

「苦しんだでしょうか?」
主治医は再び首を振った。

それからの主治医の言葉や、自分自身の行動は、思い返しても順序が定かではない。

「しばらく前までは、私ともちゃんとお話をされていたんです。午後、一度、吐かれたそうなのですね、その後、急激に・・・」
そのようなことを仰られていた。

その時の私にとって一番の問題は、母が苦しんだかどうかだった。

私は母の顔と身体全体を何度も何度も撫でた。
顔を撫ぜ、足を擦り、手を握り、お腹に触り、そうしながら母に声をかけ続けた。

「お母さん、ありがとう。ありがとう。よく頑張ったね、本当に頑張って生きたね。
りっぱだったよ。とっても偉かったよ。もうどこも痛くないよね、痒くもないね。もう何にも苦しいこともないね」

繰り返し繰り返し同じ言葉で母に話しかけた。
自分が泣いているのかどうかさえわからなかった。

母の最後の息を見届けてあげることができなかった。
そのことには、悔いが残る。

でも、私は、私のできる力を全て使い、母を最後まで、最期の瞬間まで守った。
それだけは自信を持って言える。

それで、ゆるしてね。お母さん。

お母さん、心から心から愛しています。

本当に本当にありがとう。





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追記
病院から翌日の話し合いをと連絡を受けた: 18:35
すぐに来てくださいと電話をもらった: 20:03
タクシーを呼んだ:20:07
タクシーの中で父の施設に連絡をした:20:19
タクシーの中で医師から母の心臓と呼吸が止まったことを告げられた:20:27
父に母の死を知らせた: 20:41









母を東京から移住させ、この地の施設に入れたのは、2016年7月20日。
約1年の後(2017年8月4日)、母はお世話になった施設を後にした。

施設に入ってからも入院は何度となく繰り返していた。
今回(2017年7月14日から)の入院は、浮腫みのためだった。
約2週間後、退院してもよいでしょうということになり、施設に戻るか、療養型病院に行くかという選択を迫られた。

施設に戻ることが不可能なわけではなかったが、母の現在の容態では、施設と病院を行ったり来たりすることになるだろうことは目に見えていた。それならば、父のいる施設に入れるまで、療養型病院で過ごした方がいいのではないだろうということになった。

療養型病院の紹介は、病院がすることになっている。
8月末、病院から療養型病院を見つけましたという連絡を頂いた。入院している病院のすぐ傍にある病院で、交通の便も悪くなさそうだった。先方が、母の容態を見たいと言う事で、看護師さんが面接にいらっしゃった。面接は基本的な母の容態の質問だった。

8月31日、相談員さんを通し、療養型病院から、受け入れがほぼ可能であるというお答えを頂いた。ただ、決める前に、ご家族に見学に来てもらいたいと言われ、連絡をして、日取りを決めた。お盆休暇がはいったため、すぐには予定がたたず、9月7日になった。

9月2日、父が入所している施設から、空きが出そうなので、母を検討会にかけたいのだがと連絡が入った。私にとっては、待ちに待っていた知らせだった。
ただ、入所をお願いした時点から日にちが経っているので、今現在の母の状況を今一度、主治医に確認してもらいたいということだった。すぐにでも、病院に連絡を取ってみたが、土曜日のため、何もできず、月曜日まで待つしかなかった。

週明け4日、朝一で、病院の相談員の方に連絡を取った。用向きを伝え、お返事を待っていると、看護師さんから連絡が入った。主治医の先生からお話しがあるので、病院に来られないだろうかということだった。それならば、直接お話をする方が速いであろうと思い、早速、病院に出向いた。主治医、相談員の方とでお話し合いをもち、先生からは施設でも大丈夫であろうという確認を頂いた。ほっと胸を撫で下ろした。相談員の方が、受け入れ側のMホームに連絡をしてくださるということで、お任せし、母を見舞った後、病院を辞した。後は、検討会での結果を待つばかりだった。

やっと、父と母を一緒にできる。そう思うと本当に嬉しかった。
最期の時は、同じ施設で迎えさせてあげたい。心からそう願っていた。
受け入れは、十中八九大丈夫であろうと確信していた。

Mホームに最初に、母の入所をお願いしたのは、2016年の5月のことだった。こちらに移住する前、施設を見つけに来た時だった。その後、ようやく、空きがでましたと連絡を頂いたのが、その年(2016年)の暮れ。ただ、その時は、母は入院をしており、回復も思わしくない状態で、お断りをするしかなかった。

2017年3月、父がこの地に移住してきた。母のいる施設に一度は入所させたが、Mホームにも申し込みをしておいた。はからずも、5月に空きができ、父の方が先に入ることになった。Mホームとは、それだけのおつきあいもあり、何も問題はないだろうと思っていた。

見学を予定していた療養型病院は、Mホームから受け入れのお返事を頂ければ、断るつもりであったが、様々な可能性を考慮しておいた方がいいだろうと考え、9月7日、予定通り見学に赴いた。もちろん、父のいる施設からの連絡を受けており、今現在、結果待ちであるということもきちんとお伝えした。

9月11日、朝、病院の相談員の方から連絡を頂いた。
Mホームからの連絡で、母の現在の容態を考慮した結果、入所を受け入れられないという知らせだった。

ショックだった。

母の容態は確かによくはないが、必要な医療行為は、酸素吸入だけだった。世話をするのには、それほど難しい状態ではない。どの辺りが、難しいと判断されたのだろうかと問うと、母の検査結果データなどから考え、とても、Mホームで責任を取れる状況ではないということだった。

午後にでも、Mホームの相談員さんから直接連絡が入るはずですと告げられたが、その時点から、私は何も手につかなくなってしまっていた。

両親をともに同じ施設に入れ、最期の時を一緒に過ごさせてあげたかった。
そして、そうしてあげられると思っていた。なのに、できない。
母にも父にも申し訳なく、そう思うとただただ涙が流れた。

先方からの連絡をただ待っていることに耐えられず、こちらから電話をしてみたが、相談員の方が会議中ということで、お話しができなかった。
午後一番でもう一度連絡をしてみた。が、やはり、お留守。
落ち着かない気持ちで時を過ごした。ようやく連絡をいただけたのが、午後2時過ぎだった。

お話を伺うと、やはり、施設の担当医の先生が、母の容態では責任が取れないと仰られているということだった。何かあった時に、対処ができない。これから母は痛みに苛まされるであろうが、その時に適切な処置ができなということだった。母の現在の主治医は、大丈夫であろうと言っているということを告げてみたが、主治医からの診療情報提供書から判断して無理であると結論したということだった。

「お母様のような状態であれば、ホスピスがいいのではとこちらのお医者様は仰られていますよ。近くに○○病院がホスピスを持っているので、そちらとかはどうでしょう?」とMホームの相談員の方は仰った。

ホスピスに関しては、東京にいる時から、可能性を考え、調査してみていた。東京でも、この地でもいくつものホスピスに連絡をし、入院の可能性を聞いてみていたが、どこも、受け入れているのは、癌の末期患者のみという答えだった。

その旨を告げると、
「そんなことないと思いますよ。先生も、きっと大丈夫だと言っていますよ」
私がホスピスに連絡をしたのは、去年のことだ。それほど簡単に状況が変わるとは思わなかったが、そのことを相談員の方と議論していても仕方がなかった。
礼を言い、電話を切った。

(後で確認すると、ホスピスに関しては、私の理解が正しかった。相談員の方が間違っていたということを言いたいのではない。ただ、こうした関連の施設にいる方、或いは、医師ですら、自分の管轄外のことについてはこれぐらいの知識だということを知らせるために記しておきたい)

それでも、納得がしきれなかった。
病院の主治医は、大丈夫だと言っているのに、どうして、施設側の医師はダメだというのだろう。
ダーリンと話しをし、今一度確認を求めることにした。

最初に思ったのは、母の主治医と、施設の担当医師が直接話をしてくれればということだった。主治医から直接、施設の担当医師が母の状況を聞くことができれば、もう少し、正確に容態を把握し、再考慮してもらう可能性もあるのではないか思った。

早速、病院の相談員の方に連絡をし、主治医と、Mホームの担当医師が直接話をすることはできないだろうかと聞いてみた。
そして、母がもし、今後、それほどの痛みに苛まされるのであれば、そのことについても主治医の先生に是非、今一度、確認のためにお話を伺っておきたいと申し出た。

相談員の方は、今一度Mホームに連絡を取り、聞いてみると仰ってくれた。
数時間後、連絡が来た。

Mホームの医師は、今の母の容態では、病院から施設への車中にも命を失う怖れがあり、そのような状態の人を受けいれることは不可能だと言っているということで、考慮の余地はないとのことだった。
がっかりした。

相談員の方は、主治医の先生に痛みについても聞いてくださっていた。
「先生は、お母様が今後痛みに苦しむ可能性については、0とは言えないが、それほど高くはないだろうと仰られていました。そして、お母様が、Mホームに移り、「何か」起きた場合は、再度、こちらの病院で引き受けると、まで仰られています。そのことも、施設の担当医の先生の方にお伝えしたのですが・・・・」
その言葉を告げても、Mホームの医師の気持ちは変わらないということだった。

相談員の方に、尽力の礼を丁寧に述べ、電話を切った。

その後、Mホームに連絡を取った。もう一度最後の確認をしておきたかった。
Mホームの相談員の方とお話をすると、施設の担当医師は、どういう条件であっても、受け入れはできないと言っているとのことだった。今の病院の主治医の先生が、何かあれば送り返してもらって構わないと言っているようですが、それでもダメなのでしょうか?と再度確認してみたが、答えはNoだった。

要するに、仮に僅かな期間であっても、母の面倒をみることは、責任を取れないのでできないということですかと念を押すと、そういうことですという答えを頂いた。

両親を同じ施設に、少なくとも、今父がいる施設に一緒にということは、諦めざる得なくなってしまった。





母の移住
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

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5月21日、遠方から沖縄に保養に来た友人と午後落ち合う約束をしていた。
施設から連絡をもらったのは、お昼少し前だった。母が転倒したとのこと。
「ただ、今は歩行器で歩いていらっしゃいますし、痛いと言っていらっしゃるけれど、起き上がれるので大丈夫かとは思いますが、娘さんを呼んでほしいと仰られているんですよね。今日、来られますか?」
一瞬、返答に迷った。
「・・・今日は、・・・・出かけることになっているのですが、でも、もし・・」と言いかける。
「それではまた様子を見まして、何かありましたらご連絡いたします」
外出するまでにはいましらばく時間があった。
「出かけるまでにまだ時間がありますので、とりあえず、参ります」
電話を切り、すぐにアパートを後にした。

3月7日から続いていた入院から施設に戻ったのが5月15日だった。まだ、一週間と経っていない。
施設に着き、部屋に急ぐと、母はベッドで眠っていた。
ロビーに行き、スタッフの方に様子を聞いてみる。
本人は転倒したと言っているが、見ていないのでわからないのだが、朝食は普通にとっていたので、大丈夫ではないかと思うという。
念のため、看護師さんにも様子を聞くため3階に行く。やはり、大丈夫ではないだろうかと言う返事だった。
部屋に戻ると、母は目を覚ましていた。
「大丈夫?」と声をかける。
転んだということを訴えてきた。痛くて起き上がれないと言う。再び、看護師さんを呼びに行き、部屋まで来てもらった。

「お昼は食べたいと言っているんですよね。痛かったらそれどころではないので、大丈夫ではないかと思うのですが・・」と部屋に向かう途中で仰られる。
看護師さんが部屋に入り、母に声をかける。母は、病院に行きたいと訴える。

看護師「お昼はどうする?」

母「食べます」

看護師「病院に行くんなら、お昼は食べないで行かないと・・骨折していたら痛くてご飯は食べられないと思うよ」

母「・・・・」

というようなやり取りが続き、母は昼食にロビーに出てきた。
看護師さんは、というような状態なので大丈夫ではないかと思うと仰られる。スタッフも看護師さんもそう言うのであれば・・・、
「そうですか・・・では、何かありましたらご連絡ください」
そうお願いして施設をあとにした。

久しぶりの外出だった。それも家族では、この地に揃って初めてのことだった。もちろん、スマホは傍らに置き、いつでも、連絡が入れば応答できるようにしていた。
友との会話を楽しみ、午後4時過ぎ、帰りのバスに乗った。そこで、初めてバッグからスマホを取り出してチェックしてみると、施設から再三、電話が入っていた。
なぜ気づかなかったのだろうと訝りながら、慌てて、連絡をする。やはり母を病院に連れて行った方がいいとのこと。ただ、もう遅いので、明日にということになった。

5月22日朝、母をCT病院の整形外科に連れて行った。
レントゲンを撮った段階では、新たな骨折は見られないということだったが、MRIも必要ということで検査入院となった。
MRIの検査結果について、病院から何らかの連絡があるのではないかと思ったが、何もなかったので、翌翌日問い合わせの電話をしてみた。が、電話での返答はできないので、医師と面談をしてほしいと言う。
MRIの検査結果を聞くためだけに、バスで半時間以上もかけて病院に行くのは、一時間に一本あたりのバスの便から考えると容易いことではなかった。相談員の方に連絡を取り、そのことを伝えてみると、医師から電話をもらえることになった。

5月26日、担当の外間医師が電話をかけてきてくれた。
12番目の圧迫骨折とのこと。
「以前のように、リハビリ病院に行くことになるのでしょうか?」と問うと、週明けにレントゲンを撮り、それにより、今後のことを決めることになるとのこと。

5月27日、母の見舞いに行くが、母は寝ていた。

週明け、レントゲンの結果を聞くため、相談員の方に電話を入れた。
相談員の方は、以前のこともあるので(3月初めの圧迫骨折の際、リハビリ病院に移ったが2日ほどで意識障害が起き、元に病院に逆戻りになってしまった)、リハビリ病院にはいかず、今の病院でリハビリをした後、施設に戻ることになると伝えられた。その後、担当医から再び電話。やはり、リハビリ病院に行った方がいいと告げられた。

今現在入院しているTC病院 ⇒ リハビリ病院 ⇒ 施設
という流れにどのくらいの時間がかかるのかわからなかったが、それをそのまま享受するとすれば、絶えず、二つの場所に費用を払い続けなければならない。既に、母は、今年に入ってから二つの場所を行ったり来たりしており、常に二重に費用がかかっていた。
ただ、今入っている施設を継続しないとすれば、リハビリ病院を終えた後、行き場所を考える必要がある。
父が入っているMホームにも、母の入所申し込みはしてあったが、それがいつ可能となるかは現段階ではわからなかった。リハビリ病院を終えた段階で、Mホームの受け入れが可能となれば、一番望ましいのだが、それは保証の限りではなかった。

今回母のCホームとの契約は、5月15日から6月14日までになっており、その前にどうするかを決めなければならなかった。
相談員の方に連絡し、事情を説明した。
いずれにしても、O市にあるリハビリ病院に転院の可能性を問い合わせてみるという。それに加えて、父が入所しているMホームの関連施設である、介護老人保健施設にも可能性を打診してみるということになった。
母の施設との契約が6月14日までとなっていることも告げてあったのだが、相談員の方からは、中々、お返事が頂けなかった。

6月12日、再び相談員の方に連絡をし、14日までに、リハビリ病院と老健へ移る可能性についての何らかの回答を頂きたいとお願いする。
翌13日、ようやく返答を頂いた。
O市にあるリハビリ病院はどちらも、母の内臓疾患を懸念しており、受け入れに難色を示しており、老健は空きがないとのことだった。
であるならば、Mホームに移るまでは、Cホームにいるしかない。

6月13日、MホームのKさんが父を母の入院先の病院に連れてきてくれることになっていた。
11時少し過ぎ、母の病室に着く。母は眠っていた。
11時半ごろ、父がMホームのKさんと看護師の方に連れられて病院にやってきた。それを追う様に、病院の相談員の方も病室に来てくださった。
母の状況をKさんに伝えると、相談員の方も加わり、話し合いとなった。
Kさんが、父と母をなるべく近くにいさせるために、母をMホーム近くのリハビリ病院に入れることを考慮してみてはどうだろうと提案してくれた。
その提案を受け、相談員の方が、いくつかのリハビリ病院を連絡をしてくださることになった。
ただ、仮に、Mホーム近くのリハビリ病院に入れたとしても、リハビリ病院を終えられた後に、Mホームに空きがなければ、それまでの行き先を考えなければならないという問題は以前としてあった。
また、リハビリ病院がMホーム近辺となれば、今住んでいる場所からはかなり遠くなるため、そのことも考慮しなければならなかった。その方面に越す方が無論いいのだが、母の落ち着き先が確定していない状況でアパートを決めるのは躊躇われた。
いずれにしても、相談員さんの調査結果を翌日まで待つことにし、病院を後にした。

翌日、6月14日、午前中の時点で、Mホーム近辺のリハビリ病院からの返答を聞くことは出来なかった。
ダーリンと相談し、やはり、一度、母にCホームに戻ってもらうことにした。
リハビリの可能性を閉ざしてしまうのは申し訳なかったが、私自身も頑張りの限界だった。
午後、Cホームに連絡をし、契約の延長をお願いする。

6月15日、相談員さんから連絡が入った。Mホーム近辺のリハビリ病院が受け入れをOKしてくれたこと、そして、今になり、O市のリハビリ病院からも承諾の返事を頂いたといううことだった。事情を説明し、今回はcホームに戻すことにしたことを告げる。
MホーのKさんにも連絡を取り、その旨を伝えた。

6月20日、母がCホームに戻ってきた。
母は、立ち上がることはできなくなってしまった。結果、トイレも行くことができな いため、おむつのお世話になることになる。
その日以降、毎日施設に通い始める。
母は、食事とおやつの時以外は、ほとんどベッドに横になっており、覚醒している時間も極僅かという状態になってしまった。

6月27日、血尿が出た。
入院中にも起きていたことで、膀胱炎ということで、抗生物質を処方され、その時点では一時よくなっていた。看護師さんと相談する。再発したのだろうが、今、急ぎ、病院に行ってみても診療を受けるためだけでもかなりの時間がかかるので、様子を見た方がいいだろうということになった。
退院時に、薬の量が増え、コレステロールの薬も処方されていた。薬の量はなるべく抑えたかったので、やめていただくようお願いする。

6月28日、母と父が電話で話をする。
放ったままにしてある、東京の家が気になり、友人に連絡をし、風を通してもらうようにお願いをする。

日々通ううちに、母の足の浮腫みが徐々に悪化してきているのに気づいた。次回の診療予約は、7月21日となっていて、2週間ほど先だった。予約を早めてもらおうと病院に連絡をしてみるが、担当医師の空きがなくできなかった。仕方なく、7月10日、予約外で診療を受けるため病院に赴いた。
朝9時半に受付し、午後4時半までかかる。
結局、担当医師に診察してもらう必要があるとのことで、7月14日、もう一度、病院に行くことになった。

7月14日、担当医師の診察の結果、入院となった。

今年に入り、母の入院は
1月19日から2月3日
3月7日から5月15日
5月22日から6月20日
7月14日から・・・
半分以上の日々を、病院で過ごしてしまっている。






母の移住
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母が再び、施設に戻れるほどに快復するとは、全く思っていなかった。
そして、父がこんなにも早く、また施設を変わることになるとも。

母が施設に戻ることはできないと言われた(3月末)後、療養型病院への転院を請われた。転院先は入院している病院で探すとのことで、4月に入ってからその連絡を待っていた。

転院先が見つかりましたと相談員の方から連絡を頂いたのは、4月末、27日のことだった。すぐにでも移ってほしいということだったが、療養型病院なので、先に見学をさせてほしいとお願いした。

過去、東京で療養型病院をいくつか見学していた。そこは、まるで、死を待つ場所のように私には見えた。いつかは、母をそうした病院へ送らなければならないとしても、それは、最後の最期にしたいと思っていた。

翌28日、紹介された療養型病院の見学に行った。病院は、やはり以前に東京で見学したような、寝たきりの患者さん方が並ぶ場所だった。

今、現在の母も、そのような状態であれば、そうした病院への転院もいたし方ないかと思えるのかもしれなかったが、まだ、母は、良い時には、普通の会話ができる状態だった。
とてもその病院に入れる気持ちにはなれなかった。

病院先から相談員の方に連絡をし、その旨を伝えた。相談員の方は、では、また他を当たってみますと仰ってくださった。

その段階では、病院からの連絡を待つしかないのだろうと思った。


このこととは別に、4月18日、父は、以前に申し込んでいた首里城の近くにある施設Mホームの方から入所検討のためのインタビューを受けていた。

このMホームは、2016年6月、二度目に沖縄に施設探しに来た際、訪れていた施設だった。その時点で母の入所の申し込みはしたのだが、満室だったため、空きが出たら連絡をくださいとお願いしていた。その後、2016年末に、空きが出ましたと言う連絡を頂いていたが、その時には、母が移動できるような状態ではなく、お断りをした。

今回、父を沖縄に連れて来る際、今現在入所しているCホームが、最初、入所打診の段階で、受け入れに難色を示したため、このMホームにも入所の申し込みをしていた。

父が無事、Cホームに入れた後は、母が施設には戻れなくなったりしたこともあり、申し込んでいたMホームのことはすっかり忘れていた。

その施設からの面談申し込みということで、正直言って、父が行くことはないかな?と思いつつも、選択肢は多いほうがいいだろうと、とりあえずというつもりで面談をお願いした。

面談後の結果は、ゴールデンウィーク明けにということだった。


母にと紹介された療養型病院を断った後、何度か、母を見舞いに行った。
母は、驚くほど元気だった。何より、頭がはっきりしていた。これほど、混乱のない母を目にするのは、2015年に母が東京で入院して以来のように思えるほどの状態だった。

その様子を見て、もう一度施設に戻る可能性があるのではないだろうかと思い始めた。再び、医師に面談を求めた。

5月3日、母の担当医師と面談のため病院に出向いた。医師が待つ部屋に入り、椅子に腰を落ち着け、開こうとした途端、医師の方から言葉がかけられた。

「今の状態ですと、お母様は、療養型病院と言う感じではないですよね。施設に戻れるかと思います」
「・・・・あ、そうですか・・・でも、先生、施設の方は断ってしまったのですが・・・」
「大丈夫です。退院を促すことはしないので、気長に探してください」

早速、元の施設Cホームに連絡を取り、入所の検討をお願いした。
Cホームでは、一度退所してしまったので、また、一からやり直しになりますということだった。現在の段階で、入所希望者が数名いるので、母もその中に含めて考慮するというお返事だった。
いずれにしてもGW中は何も動きはない。明けるの待つしかなかった。

GWが明けた5月8日朝、首里城近くのMホームから連絡があった。父の受け入れが決まったということだった。
驚きだった。実は、父が選ばれる?とは全く思っていなかったからだった。
お返事はいつまでにと問うと、少なくとも、10日までにはお願いしたいと告げられた。

すぐにCホームに連絡を入れた。母の入所状況を問い合わせるためだった。
母は、入所順番待ちの二番目にあるということだった。
一番目の方の入所の有無が決まるのはいつ頃になるか尋ねると、その週のうちにはということだった。ということは仮に、最初の方が入所を何らかの事情で断ることになったとしても、母の入所に関しての検討が始まるのは、早くて、週末、遅ければ週明けになる。そのことを確認した上で、もう一つ可能性を尋ねた。

このことは、再度の入所を申し込んだ際にお尋ねしていたことだったが、それまでにお返事を頂いていなかったので、再度確認した。それは、父の代わりに、母を入れることが可能かどうかということだった。つまり父をCホームから出し、母を代わりに入れるということだ。

施設を選ぶに当たって、制約が多いのは重い病のある母の方だった。であるなら、父を他の施設に移し、母を元のCホームに入れる方がいいのではないかと思った。
即答はできないので、午後に、お返事をいたしますというお答えを頂いた。

その日の午後、早速、ダーリンとMホームの見学に向かった。
施設を訪れるのは、1年ぶりだった。一年前より、ピカピカ度は減っていたが、記憶していた通り、施設の充実度は申し分なかった。
私達にとって、何よりもよかったのは、両親がこちらの施設に入所したとしても、県内居住が絶対条件ではない、ということだった。

私達の拠点は、やはり、欧州にある。
ダーリンの仕事の取引先も欧州にあり、日本にいる以上、昼夜逆転の生活を余儀なくされていた。この生活を長く続けることにはどうしても無理があった。

見学を終え、タクシーを待っている間に、Cホームから連絡が入った。朝のうちに問い合わせていた返事だった。

朝の段階では、母は、順番待ちの2番目だったが、午後にはトップになっていた。その週のうちに母にインタビューをし、受け入れをするかどうか決めたいということだった。もう一つの質問、父と母との入れ替えについては、事務手続き上、不可能というお返事だった。

帰途、二人で話し合った。

どうするべきなのか。

このままでいけば、恐らく、母はCホームに戻ってくることができ、父と同じ施設で、過ごすことができるようになる。それがどのぐらいの期間になるかはわからないとしても、当初の予定通り、二人は同じ場所で生活することができる。
でも、今、Mホームのオファーを断ってしまえば、今度のチャンスはいつ来るかはわからない。それも、二人一度にとなると、入所の可能性は遠のく。

短期的に考えれば、母と父を同じ施設に置くということが望ましいのはわかっていた。
が、長期的に考えた場合、Cホームに両親を入れて置く以上、私達は、この地に縛り付けられたままだった。
Cホームは、家族のだれかが、必ず傍にいることを要請していた。ということは、家族での旅行も叶わない。例えば、イギリスの両親に、二人で会いに行くこともできないということだった。

両親には申し訳ないと思ったが、私達は、父を先にMホームに移すことに心が向いた。
もちろん、父に話し、同意を得られれば・・

Mホームに見学に行った翌日、父に話しに言った。父は、反対するどころか、自分から、そちらに行くと言ってくれた。


父は、明日5月13日、Cホームを退所し、Mホームに移る。

母は、5月15日に元の施設Cホームに戻ってくることになった。




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2017年3月28日、息子が沖縄にやってきた。

両親にはこのことを告げずにいた。

私とは、約1年ぶりの再会。

両親とは、約7年ぶり。



3月29日、まず、母の入院する病院へと連れて行った。

母は、あまり意識がはっきりとしていなかった。

久しぶりに会う孫の顔を見て、

「大きくなったね・・・」と呟いた。



IMG_0088




その足で、父のいる施設に向かった。

父は部屋に入ってきた孫の顔を見て、しばし言葉が出なかった。



IMG_0091



IMG_0092




ようやく落ち着いた後、父は言った。

「生きていてよかった・・・・」

父の目に涙が光っていた。



私に黙ってついてきてくれた両親に、私がようやくできたプレゼント。



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気持ちが大きく揺れ動き、どこにどう着地させたらいいのかわからないでいる。
恐らく、着地させようと思うこと自体に無理があり、今の思いをそのまま、見つめ、受け入れるしかないのだろう、と思う。

2016年7月20日、母を東京の病院から沖縄の施設に連れてきた。
母の命は限られていた。

看護師の方は、「まず、お正月を目標にしましょう」と言った。
私も、それぐらいだろうか?と思った。

最初にしたことは母を目医者に連れていくことだった。
母の白内障はかなり進んでおり、随分以前から暗い暗いと言い続けていた。何とか、命を終える前に、もう少し明るい世界を見せてあげたかった。体力的にも手術ができるかどうかすら不安だったが、幸運にも手術は可能と言われた。手術が決まり、具体的な日程の相談の段階で、手術は11月と言われた。
私は医師に頼み込んだ。

「先生、そこまで命があるかどうかわからないのです。死ぬ前に少しでも明るい世界を見せてあげたいんです」

手術は8月初めに行なわれ、母は明るい世界を見ることができるようになった。

次にしたのは歯医者に連れていくことだった。
2015年7月に入院して以来、母は歯の治療ができずにいた。虫歯もあり、歯根の問題もあり、多くの歯が使い物にならなくなっていた。
痛みのひどい歯から治療を始めた。

「どこまで治療をしますか?」という歯科医の問いに、母は、「全部やってください」と答えていた。

どこまでできるかはわからなかったが、できるだけ通わせてあげようと思った。

施設に移り、毎日のように母の元に通い、よい時間を過ごしたいと思っていたのだが、私が願うようにはならなかった。

母は、文句しか口にしなかった。
愚痴、文句、嘆き、不満・・・それが母の口から出るほとんどだった。

ただ、それは、この地に来たからということではなく、東京に居た時から同じだった。私が毎日寄り添うことで、少しは母の気分が変わるのではないかと思ったが、それは叶わなかった。

私とダーリンは、毎日毎日、施設に通い、できるだけ母と時間を過ごすようにした。一緒に映画を見たり、本を読んであげたり、外で日光浴をしたり、でも、母の顔に笑顔はあまり生まれなかった。


沖縄に来てから、腹痛で何度か救急を訪れていたが、肝性脳症は起こさずに済んでいた。意識障害を起こし、入院となったのは、年も押し詰まってきた頃、12月21日だった。薬が投与されると思いの他回復が早く、数日で退院(12月24日)となった。

次の意識障害は2017年1月19日だった。この時の入院は長くなった。

父も沖縄に呼ぶ時が来たと思ったのは年が明けてからだったと思う。母の容態が落ち着いたら東京に行き・・と思っていた矢先の、1月29日未明、父が自宅で転倒、大腿骨頚部を骨折した。30日朝、地域の民生委員の方から連絡を頂いた。救急車で病院に搬送された。

母はまだ入院しており、容態もまだ安定していなかった。少し落ち着いたという医師の言葉を頼りに、母をダーリンに任せ、私は東京に飛んだ。

父の手術は2月3日に行なわれた。奇しくも、その日が母の退院の日となった。

父の回復を待ち、3月8日に沖縄行きのチケットを取った。

3月7日、沖縄の母の施設から連絡を受けた。日付が変わった頃だった。母が転倒し、痛みを訴えているとのこと。急ぎ、ダーリンに連絡をとった。7日未明、救急車で病院に搬送された。腰椎の圧迫骨折だった。

母が入院となった翌日、父は母のいる施設に到着。一日違いで、二人はすれ違いになってしまった。

その後、母はリハビリ専門の病院に移ることになった。病院が決まり、3月24日、転院の運びとなった。
あくる日、私は大量の衣服や身の周りの品を持ち、リハビリ病院に向かった。

翌3月26日朝、病院から電話を頂いた。母が朝から意識障害を起こしているという。
急ぎ、元の病院に救急車で搬送となり、私は元の病院に駆けつけた。

検査の結果、意識障害になる時には上がることの多いアンモニアの数値はそれほどでもなく、MRIの結果も大きな変化はなかった。

これなら、すぐにでも、また、リハビリ病院に戻れるのでは?と私は楽観した。
28日、病院より連絡を受けた。
「29日にリハビリ病院に戻れると思うので、迎えに来て欲しい」

3月29日、ちょうど、この日に入っていた、ダーリンと私自身の診療を終えた後、母の病室に向かった。
意識が回復したと聞かされていたのでそのつもりでいたが、母の反応は鈍かった。

「これで、リハビリ病院に戻れるのだろうか?」

私もダーリンも、搬送のために来てくれていた施設の方も同じ疑問を抱いた。
担当医師に相談してみると、「いや、数値も落ち着いているし、反応もあるので大丈夫でしょう」との返答。
一度は納得はしてみたものの、移動の準備をしている段階で心もとなくなり、再度、医師に問い合わせた。

医師は、しょうがないな~と言うような顔を見せ、
「ま、じゃ、そんなにご心配なら、もう少し、様子を見ましょう」
転院は延期になった。

明くる3月30日朝、再び、病院から連絡を受けた。
母の意識障害がひどいとのこと。そして、医師がご家族とお話をしたいと言っているので来られるだろうか?とのことだった。

連日の病院通いでくたくただった私は、もし、緊急ではないならちょっと待ってほしいとお願いした。
急ぎではないので、今度お見舞いに来た時に声をかけてくださいといわれ、電話を終えた。

4月3日、父を母の入院先の内科と整形外科に連れて行った。合間に母を見舞い、医師との面談をお願いした。

「お母様ののことなのですが・・・」と医師は説明を始めた。

母は、もう、一度や二度の点滴投与で病状が安定する状態ではなくなっていると告げられた。

「この状態では、施設に戻ることも無理でしょう。療養型病院への転院を考えたいと思います」

来るべき時が来たのだと思った。
医師との面談後、ソーシャルワーカーの方とお話をした。

「お母様は、薬が効いている時には、比較的、普通の状態でいられるので、所謂、療養型病院に送るのは、少しかわいそうかと思うんですよね」

私もそう思っていた。

母の最期の場所を選ぶ時がきた。

私は最期の最後まで、母を「人」として、送ってあげたい。



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親はいずれいなくなる。
いつかは送る日がやってくる。
そして、その時、残された後処理をするのは、通常、子供だ。

1993年に日本を離れて以来、そのことが常に私の頭の中にあった。
いつかは、ここ実家に戻り、最後の始末をしなければならない。
山のように残された荷物を泣きながら処分していく自分を想像した時、それだけは絶対避けたい。
そう強く思った。

母は整理が上手な人ではない。家の中はいつでもかなりごちゃごちゃだった。
二人が大丈夫な今この時から少しずつ処分を始めよう。
そう決心したのは、息子が生まれた頃だったと思う。(1996年)

1年に一度、息子を連れて、ひと月ほどの一時帰国をしていた。
私は、その度に家の中を整理し始めた。
母は協力してくれたが、父は嫌がり、「ゆみは病気だ」とまで揶揄し、批判した。

そんなことを細々と繰り返していた2007年、母が膵臓癌と診断された。
手術をして仮に成功しても術後存命期間は2年程度と聞かされた時、
来るべきときがきたのだと覚悟した。

必要なのは荷物の整理だけではないことはわかっていた。
人が生きてきた足跡は、至る所に残される。
まず、筆頭になるのはお金のことだった。

母の寿命がよくて後2年であるなら、その前に、両親に関わる事務処理に必要な事を全て把握しておかなければならないと思った。父は母に任せきりであり、もし、母がいなくなれば、お手上げであることはわかっていた。

私は病床の母からまず、預金のことを聞きだした。
どこにどのぐらいの預金があり、どのような形で預けられているのか。
そして、各種の保険、所属、或いは、登録している団体や組織、その会費の有無、
もっているカードについて。
実家は持ち家ではなく、都営住宅なので、その明け渡しについても知っておく必要があった。

両親は私を全面的に信頼してくれており、金銭的管理は全て任せると言ってくれた。
これはありがたかった。
以後、両親のお金の管理は全て私がしてきていた。



2016年7月、母が東京から沖縄に移住した。(母は2年と言われた寿命をはるかに越えてくれました)

この段階で、母に関する事務処理をもう一度見直した。
ほぼ全て把握していたつもりでいたが、あちこち整理して行く中で、
何かの書類、どこかの会員登録カードなどが出てきたりした。
それらをどう処理するべきなのか、もう母に聞くことはできなかった。

「あの、母の代わりに連絡をとっております。おかしなことを伺うかもしれませんが、ここにそちらの名前が記されているカードがあるのですが、これはどういったものでしょう?」

時にはそんな風な質問もしなければならなかった。
年会費があるものや、出資金を出しているものは解約の手続きが必要だった。
解約の旨を伝えると、大抵は、ご本人でないとできませんという答えが返ってきた。

「母は施設に入っており、もう、こうしたことに対処することができません・・。」
という説明から始まり、様々に説得を試み、そこここの手続きに応じて処理をした。
相手方に理解頂き、「では例外ですが」となるまで、いつでも時間がかかった。

保険の解約は、まだしない方がいいと思われるものもあり、それらはそのままにしたが、
解約方法を確かめ、いつでも、解約できるように準備も進めておいた。

保険は特に本人の承諾が必要とされる。
解約届けを送付してもらうだけでも、本人の言がなければと言われた。
私は保険会社に実家の父に電話を入れてくれるように頼んだ。
父に保険会社に電話を入れてもらえばいいのだが、最近の問い合わせのための電話は、
機械のガイダンスから始まる。音声に従って適切な番号を入力していくというようなことは、
耳が遠くなってきている父にはもう無理だった。
私は実家の父に電話をし、保険会社から電話が入るので、以後、この保険の手続きについては、
全て娘に委任するということを言ってほしいと頼んだ。



2017年3月、父が沖縄に移住することになった。

いよいよ、家を空にしなければならない時期がきていた。
家の荷物の処分を稼動させなければならなかった。

私はまず、リストを作った。
電気製品、家具類、寝具類、キッチン用品、衣服、介護用品、本類などなど。
そのリストを父が関わってきていたコミュニティーの方に配り、
欲しいものは差し上げるのでもらってほしいと頼んだ。

お金になるようなものはほとんどなかった。
残されたものでお金を得ようとは思ってはいなかったが、ただゴミにしてしまうのもしのびなく、
どこかで誰かの役に立つ方法はないだろうかと色々と調べてみた。

本、CD類は、ある程度新しく、状態がいいものであれば、引き取ってくれるところがあった。

電化製品は、購入後5年未満ということで、引き取ってくれそうなところはなさそうだった。

衣服類については買い取りはほぼブランド物だけだった。
無論、両親には関係あるわけもなく、貰い手が見つからなければゴミにするしかないのだろうかと思ったが、もう少し調べてみると、寄付できるようなところもいくつかあるようだった。

古いバスタオルやタオル類は、施設や幼稚園で使えるということで、そちらに持っていった。

寝具類は廃棄するしかなさそうだった。
押入れにいっぱいあるそれらを処分するのには、それなりにお金がかかりそうだった。
切り刻んで小さくすれば、燃えるゴミとして処分できるが、そうでなければ、
家具と同様に粗大ゴミ扱いになってしまう。

私は市のリサイクルセンターに連絡をしてみた。

「家を明け渡さなければならないので、引き取ってもらえるのなら、そうしていただきたいものがたくさんあるのですが・・」というと、では、まず見に伺いますということになった。

二人の方がいらっしゃり、家の中を見てまわった。
古い箪笥類、ベッドなどは無理だったが、比較的新しい、椅子や机、ワイヤーラック、
リビングボード、鏡、チェストとなどは持っていってくれるということになった。

私はだめもとだと思い、押入れを開け、寝具類は必要ないですか?と聞いてみた。
布団、掛け布団、毛布、タオルケット、ベッドカバー、ひざ掛けなどは、それぞれ
、収納袋に入れまとめておいた。
両親が使いやすいようにという配慮からだったが、それがよかったのか、

「これならきちんとしてあるので、全部貰っていきますわ」と次から次へと運びだしてくれた。
これはとても助かった。

工具類も、父の仕事上、山のようにあった。
これらは必要でしょうか?と聞いてみると、リサイクルセンターの仕事で使うのでということで、
持っていってもらえることになった。

母が、私にと、フリーマーケットで買い揃えた新品の食器類もたくさんあった。
箱は古くはなっていたが、それらをお見せすると、全て引き受けましょうと言ってくださった。

電気製品はリサイクルセンターでは扱ってくれないのは知っていた。
これらは専ら、友人知人、隣人に声をかけた。
洗濯機、電子レンジ、オーブントースター、掃除機、オイルヒーターなどの暖房機などは次々に貰い手が現れてくれた。

後は、衣服類と、使用していた食器類などだった。
もちろん、まだ、様々な日用品は残されている。
だが、最初、途方に暮れた頃と比べれば、大分、先が見えてきたように思えた。

父が家に戻ることがないとわかった時点で、電話も解約手続きをとった。
新聞の購読も休んでいたが、それも解約した。
後は、電気、ガス、水道、そして、郵便物だった。

今は、郵便の転送届けもネットでできる。
沖縄行きの日程が決まった時点で、早速手配した。

これで、事務処理としては、電気、ガス、水道の解約と、家の明け渡し、
そして、住民票の移動だけとなった。

父を沖縄に連れて行くまでに私ができたのは、ここまでだった。




母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
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親の人生の後片付け(私の場合) その2
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html














母の沖縄移住*が決まった時、父も一緒にと、何度となく声をかけた。

父は東京の生活にまだまだ未練があった。
そう簡単には思い切ることができないような父を無理矢理に連れていこうとは思っていなかったが、父が、沖縄と東京を行ったり来たりするという選択肢もあるのではないかと思っていた。
東京にひと月、沖縄にひと月というように。
でも、父は首を縦に振らなかった。

気持ちは理解できた。

東京の武蔵野の地に身を落ち着けてから60年近く。
三鷹、武蔵野と住まいは変わったにせよ、その人生のほとんどを費やしてきた場所だ。それほど容易く離れる気持ちにはなれないのも尤もだった。

父は、退職後、地域のコミュニティー活動に積極的に関わってきていた。近隣には、知人友人と多くの仲間がいた。
直に90歳になる父が、後、どれほどの期間、東京で一人暮らしを続けられるかはわからなかったが、気の済むまではそうさせてあげようと思った。

2016年7月20日、母の沖縄移住無事達成。

その後、父とは頻繁に電話でやり取りをしていた。母の日々の様子を伝え、父の日常を聞いた。
父は順調に一人暮らしを続けてはいたが、いかんせん、父も90に手が届く年齢。遠くない未来に一人暮らしが無理になる時が来るであろうとは思っていた。

今年(2017年)に入り、私は何度か父に言った。
「そろそろ、お父さんも、施設に入ることを考えなければならないと思うよ。今すぐとは言わなくとも、もう時期は近いと思う」

父は軽度の病を除いては、至って健康体であり、どこにでも一人で出かけていくことができていた。だが、そんな父も寄る年波には勝てず、2016年2月、階段で転倒、背骨の圧迫骨折という怪我を負っていた。
母を沖縄に送る5ヶ月前のことだった。

骨折直後は、ベッドから起き上がることすらできない状態だったが、入院もせず、コルセットをはめるだけで、自宅での療養に努め、母が沖縄に経つ頃にはほとんど完治にまで回復していた。

それでも、この怪我は、私の中で大きな不安となった。どれほど元気で頭もはっきりしていても、「何か」起きれば、一人での生活は立ち行かなくなる。いずれは、父も施設に入れることを考えなければと強く思うようになった最初だった。


両親のこととは別に、私達家族にも考えなければならない問題があった。
私達の拠点は、ヨーロッパにある。
私が日本を出たのは、1993年。もう24年も前だ。以来、私の住まいは海外だ。

無論、仕事も拠点は欧州であり、一人息子もまた、あちらでの生活を確立していた。
私達は日本に永住するわけにはいかなかった。

母が余命を宣告されたのは、2015年の夏。その時に、約半年と言い渡された。
その時点で、ある程度のその後の予定を立てた。が、母は予想に反し、長生きをしてくれた。
それは、本当に感謝すべきことだったが、私自身は両親の介護のために、日本と海外を行ったり来たりという生活が長引くことになった。そしてそれは、私達の家族にも少なからず影響を与えていた。

今回、母が沖縄に来たことで、伴侶であるダーリンも日本に住まいを移し、一緒に母を介護してくれることになった。だが、息子は、ヨーロッパに一人置いたままだった。

今の時点(2017年3月)で、私は息子ともう、1年以上会えていない。

もちろん、両親は大事だ。だが、私達家族のことも考え始めなければならない時期にきていた。
そうした状況を考え、父に沖縄に来てもらうことを考えた。
母の施設に一緒に入ってもらい、私達は一度ヨーロッパに戻る。
私自身は、必要に応じて、頻繁に往復するようにする。それが今考えられる一番望ましいあり方ではないだろうかという考えに至った。

父に相談をもちかけてみると、その提案を快諾してくれた。
1月末のことだった。

母はその時、入院しており、すぐに父を迎えにいくことはできなかった。
不運にも、父が転倒、大腿骨頚部骨折をしたのは、その矢先のことだった。

携帯が鳴ったのは、1月30日朝、母の病院へ行こうと支度をしていた時だった。母の病院からだろうかと思いながら返答すると、実家の地域の民生委員の方からだった。

「ゆみさん、お父さんが転倒して、骨折したらしいの。今、救急車で病院に来たところなのだけど・・・」
「え!?!?」
この時期にこのタイミングで???というのが正直な感想だった。

母の病院に向かいながら、民生委員の方、ケアマネの方とやり取りをし、父の様子を確かめた。
大腿骨頚部骨折。
最初に思ったのは、どんな骨折だろう?ということだった。かなり骨が損傷されていれば、回復は難しい。病院側は、すぐにでも手術をしたいらしく、ご家族はいつ来られますかと聞いてきていた。

母の容態が落ち着いていることを確かめた後、私は東京に飛んだ。2月1日のことだった。私がいくまで、手術は待ってくださいと病院側に頼み込んだ。

2月3日、手術。
幸いにも、骨折は単純なものだった。頚部がポキリと折れただけで、ボルトを三本差し込むという処置だけで済んだ。

手術の翌日2月4日、その日から、父のリハビリが始まった。
父は頑張った。何としてももう一度歩くと、日々真面目にリハビリに励んだ。

その間、私は、父を母のいる施設に入れるべく動いていた。
難しいことではないだろうと思っていたのだが、実際に動き始めてみると、そうは行かなかった。
父の入所を考慮して頂きたいと申し出てみると、施設側は、「ゆみさんは、いつこちらに戻られますか?」という質問が返された。

私は、できることなら、父の退院と共に一緒に沖縄に入り、施設に入所させられたらと考えていた。
父は怪我はしたものの、特別大きな病もなく、その上、施設側の方とはお目にかかってもいた。母の入所に当たり、施設から相談員と看護師の方が東京に来た折、父とも顔を合わせていた。そんなこともあり、入所に関しては、それほど難しいことはないのではないだろうかと思っていたが、施設側は、私と直接会って話をしなければ、こうした問題は進められないと返答してきた。

東京から沖縄に、入所の相談に戻ることになれば、入院している父を一人残していかなければならない。私にとっては、経済的にも身体的にもかなりの負担だった。

私は、電話、或いは、スカイプなどで、話し合いの場をもてないだろうかと提案してみた。或いは、主人は沖縄にいるので、主人が代わりではだめだろうかとも提案してみた。だが、提案は悉く却下された。

様々な言い方で、なぜダメなのだろうかと問いかけてみると、問題は、私達が少し前に可能性を打診した、父をこちらに呼び寄せ、私達はヨーロッパに拠点を戻したいという申し出だということがわかった。
母のいる施設では、入所者の家族が沖縄に住むというのは絶対条件だということだった。

となれば、今の時点で、私に選択肢はなかった。今現在、母が施設にお世話になっている以上、沖縄を去ることはできない。そう答えたが、それでも、父の入所に関しては、沖縄まで話し合いに出向かない限り考慮はできないと返された。
仕方なく、もし、そちらに伺うとしたら、相談の日はいつになるだろうか?と聞くと、施設側も忙しいらしく、今月は2月20日だけが可能だという返事だった。

選択は二つあった。
20日に沖縄に戻り、入所を申し込む。
或いは、
今の時点の申し込みは諦め、父の退院後、父を東京に短期間残し、沖縄に戻ってから入所申し込みを始める。

ただ、仮に、20日に入所を申し込んだとしても、絶対に受け入れてくれるという確約はなかった。
私はダーリンと相談し、他の沖縄の施設も当たりながら、とりあえず、20日の相談には出向かないという方向で考えることにした。

となると、父が退院した後、自宅で、サポートを受けながらしばらく生活をしてもらわなければならないことになる。
退院後、沖縄に連れていく?ということも考えたが、私達が今住んでいるマンスリーではとても父と三人で生活はできそうもなかった。
私はケアマネさんと相談をしながら、退院後の父の生活の準備も始めた。

20日の相談については、断ることを決心した。
その連絡をしようと思っていたその日、施設側から連絡が入った。当然その相談のことと思い、今回は申し訳ないのですが、伺えそうもありません。と答えると、

「こちらでも検討してみたのですが、やはり、話し合いのためにこちらまで出向くのは大変かと思いますので、ゆみさんが沖縄に在住するということであれば、お父様の入所も検討したいと思います」と言うことだった。
ではどうすれば?と聞くと、退院が決まったら連絡をと返された。

2月下旬、病院側から父の退院が3月第一週、或いは、第二週になるであろうということを告げられた。
私は急ぎ、沖縄の施設に連絡を入れた。
2月20日、ようやく診療情報提供書を送ることになり、父の施設入所が動き始めた。

2月24日、施設の入所受け入れが決まった。

2月25日、リハビリで、父の初めての外歩行が行われた。傍にある公園の外周を一回り、そして、100メートルほどある緩い坂道の往復。父は杖を持ちしっかりと歩ききった。

2月27日、病院側から、父の退院日についての具体的な日取りを聞くことができた。
3月の第二週のいつか。

ここでもう一つ片付けなければならない大きな問題があった。
両親共に東京を離れるということは、今まで住んできた住宅の明け渡しも考えなければならないということだ。
2月1日に東京に到着して以来、そのことも頭に置きながら家の整理を始めてはいた。
夫婦二人暮らしとは言え、30年以上住んだ場所を空にするというのは、容易なことではない。売却できるようなものはほとんどなく、全てを処分するしかなかった。

私はリストを作り、処分を始めた。
(このことについて書き始めると、それはそれで果てしなく長くなる。父の移住とは直接関係がないため、ここでは割愛したい)
ただ、父の移住と、家の明け渡しの両方を同時にすることは無理だった。
私はまず、父を移住させ、その後、もう一度、戻り、家の明け渡しをすることにした。

2月27日、ネットで航空チケットを検索、3月8日、沖縄行きのチケットを手配した。

最後の一週間は目が回るように忙しかった。
移住先で必要となる父の私物を送り、その間、できるだけの家財も処分した。

3月7日、父が長く関わっていた居場所「日比野さんち」でお別れ会が開かれた。

そして、

3月8日、入院していた病院から羽田に向かい、沖縄行きの飛行機に乗った。




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数日前(2016年11月6日)、疲れて爆発してしまった。

「もう、いや!これ以上、続けられない。疲れた。こんなこと後どれぐらい続けなきゃならないかと思うと何もかも嫌になる!!」

「お母さんも、もう、私の知っているお母さんじゃない。誰か知らない人。好きでいるのが難しい」
云々云々・・・

文句と愚痴を並べ立てた。

最初にダーリンが言ったのは、
「じゃ、休みを取ろう」ということだった。

「一週間でも、ひと月でも、必要なだけ休みをとったらいい。ゆみのようにはできないかもしれないけれど、その間、僕が面倒をみる。休みを取って、充電して、リフレッシュして、また戻ってきたらいい。今みたいな気持ちでは続けないほうがいい」

ダーリンは、様々な案を出した。
ひと月、友人のところに行く。
日本を離れて、どこかでのんびりする。
やりたいことがあるなら、ひと月ぐらい、例えば語学留学してみる。
などなど・・

その日、私は施設内で忙しく動き回っていた。用事は色々あった。そんな私を見て、ダーリンが言った。

「ゆみ、それは後でいいから、ここに来て、お母さんと話をして」

私はやることが山積みしている状況を思い、
「今、忙しいの・・」と答えた。

それからダーリンは私に意見をした。
要約すれば、
『大事なのは、身の回りの世話をすることではなく、お母さんと時間を共にすること』
ということだった。

「そんなこと言ったって、誰かが用を済ませなきゃならないでしょ!」
私はとんがった声で答えた。

爆発したのは、その夜だった。
疲れたのだと思う。

母を介護し始めてから、随分になる。
ここ10年程は、日本と海外を行ったり来たりし、母を介護してきた。

膵臓癌の手術入院、極度の鬱病、脊柱管狭窄症による坐骨神経痛の入院、肝機能障害などなど・・・・

そして、3年前(2013年)には自分自身が病に倒れた。
闘病中も母の状態は思わしくなく、何度となく、病院に運ばれた母のために、海外から手助けをした。
病院、医師との話し合い。ケアマネージャーとの相談。自宅介護のための手続き、時には救急車の手配の手伝い。

ようやく何とか日常生活が送れるようになった頃、母がまた入院した。
2015年7月のことだった。

そのふた月ほど前には、国を超えて引越しをしていた。
日本までのフライトも不安な中で、7月中旬、帰国した。

久しぶりの実家は、まるでカオス状態だった。無理はなかった。母は全く動けず、父は母の介護をしていた。
足の踏み場もないような家の中を片付けながら、入院している母の元に毎日通った。

大学病院から、療養型病院への転院を要請され、病院探しが始まった。
何とか療養型病院に母を移したのが9月の初め。

その後、過労で体調を崩してしまい、一時、日本を離れた。
10月の初めだった。

そのひと月後、11月初めには、また、国を超えての引越しがあった。

ようやく体調が落ち着き始めた、今年(2016年)の2月、父が階段から落ちて背骨を圧迫骨折した。
介護が必要になり、急遽、日本に飛んだ。

父を看ながら、母の病院通いが始まった。

そして、7月、母を東京の病院から沖縄の施設に移した。
私も移住した。

それから後は、この地で、母を介護している。
7月20日この地に来てから、母の元へいかなかったのは、2度だけ。自分自身の通院のためだった。

疲れて当然なのだろうと思う。
「『疲れた』って思って、『疲れた』って言っていいんだよね」
最後は私は泣きじゃくっていた。

その夜、ダーリンが言ってくれた言葉を考えた。

「ゆみ、これがお母さんと過ごすことができる最後のチャンスなんだよ。その大切な時間を、嫌だ嫌だと言う思いで、過ごしたらいけない。そんなことをしたらゆみは、後できっと後悔をする。休みが必要なら、休みをとって、そして、また、元のゆみに戻って、お母さんとの時間を過ごしたらいい」

施設にいる母は、もちろん、施設内のスタッフに面倒をみてもらっている。
だが、無論、母にしてみれば様々な不満がある。
そして、施設内ではまかないきれない要望も。

母が文句を言う度に、これがほしい、あれをしてほしいという度に、母をなるべく満足させるべく私は動き回った。
洗濯が遅いというので、私が洗濯をするようにし、部屋の掃除をし、整理整頓をし、足りない食事の埋め合わせをし、嗜好品を揃え・・・、
何もできなくなった母を満足させるためには、色々なことをしなければならなかった。

終いに私はそちらに心が奪われ、疲れ果ててしまったのだと思う。
となると、その仕事を乱す、母にも腹が立ってくる。
いくら整理しても散らかる部屋。一日に何枚も出す洗濯物。ここでは、これをしてくれない、こんなことをさせられる、これが足りない、あれが欲しいといい続ける母の愚痴と文句。


聖書の中にこんなお話しがある。
新改訳1970 ルカ

10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。


私はマルタになっていたのだと思う。
それに気づいた時、ダーリンの言葉が身に染みた。

「ほんとだ。後、どのぐらいにせよ、母が最期をの時を迎えているのは事実だ。この時を大切に過ごさなかったら私は一生後悔をする。部屋が散らかっていようと、少々、掃除が行き届いていなかろうと、汚れ物ばかりで着るものがなくなろうと、母の好物が時折切れたとしても、そんなことは、大事なことではないんだ。」

そう気づいた時、すっと気持ちが楽になった。
視点を変えることが出来たのだと思う。

しばらくこうして、続けてみようと思う。
あんまり疲れてしまったら、お休みも貰いながら、
最期まで、誰のためでもなく、私自身のためにしっかり母に寄り添おう。




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11施設を見学するのに、一日2施設として6日必要だった。
施設を地域毎にまとめ、見学のための予約を入れた。
満床であろうがなかろうが、この際、全てを周り、申し込みをするつもりだった。

到着の日から台風が来ていた。大荒れの天気。
だが、天気を理由に行動を変えてはいられない。たかだか雨と風だ。
それに、東京ほど雨に濡れることを怖れなければならないわけでもない。
荒れ狂う天気の中、施設周りを始めた。

思いがけず、C施設の相談員T氏から電話を受けたのは、N市に到着した翌日だった。
お断りはしますが、今後のことで相談には乗りますのでと、仰ってくださってはいた。

「あ、お久しぶりです」
T氏の「Hola!」という声に挨拶を返した。(私がスペインにいたことを知って以後、いつも電話での挨拶はこれが最初になっていた^^)
「その後、どうされましたか?施設はみつかりましたか?」
「いえいえ、まだなんです。一応、N市のK施設さんには申し込みをしたのですが、今はその返答待ちです。あ、今私、もう一度、来ているんですよ」
「え、こちらにですか??」
「はい、そうです。だって、C施設さんには断られてしまったから・・他の施設をみつけないとでしょ(笑)」
「そうなんですか!」
T氏は少し意外そうに返答された。そして、言葉を継がれた。
「K施設さんからのお返事が、どちらであっても、どうぞ教えてください。その後のこと、気になっていますので」
「ありがとうございます。お伝えしますね」
そんな会話をして電話を終えた。

翌日、6月13日、N市のK施設さんから、返答を頂いた。受け入れのお返事だった。
電話を受けたのは外出先。二つの施設を見学し終え、滞在先に向かって歩いている時だった。
思わず歩みを止め、深々と頭を下げた。ほっとした瞬間だった。

ほっとはしたが、安心しきることはできなかった。どこでどう転ぶかはわからない。K施設の相談員の方からも、受け入れることに決定しましたが、色々ご相談したいこともあるので、と再訪の要請も頂いていた。再訪の日は10施設巡り終えた最終日に決めた。

夢中で10施設の見学を終え、明日は、K施設への再訪という夜、C施設の相談員T氏から再び電話を頂いた。

「あ、Tさん。K施設さんからのご返事をお伝えしなければと思っていたんですが、毎日戻ると遅くなってしまっていて、ごめんなさい。一応、受け入れてくださるとのことです。それと、もう一つの施設からも受け入れのお返事も頂いています」
「あ、そうなんですか!よかったですね。もう一つの施設というのはどちらか伺ってもいいですか?」
「もちろんです」
私はその施設の名前を挙げた。
「ところで、明日の予定はどうなっていますか?」
「明日ですか?明日は、K施設さんに再訪して、相談員の方と色々お話しすることになっています」
「もし、よかったら、そちらの方まで参りますので、お目にかかれませんか?看護師のHと一緒に行きますので」
「え?あ、もちろん。喜んで」

せっかく、私がこちらまで来たからだろうか?それでも、わざわざ会いに来てくださるなんて、本当に良い方達なんだな、私はそんなことを思いながら申し出を快諾した。

K施設の相談員さんとのお話しは、やはり、病院のことだった。
受け入れ先病院が決まらない限り、K施設では母を受け入れることはできない。
K施設は、看取りはしない。となると、受け入れ先病院の確保は必須だった。
相談員の方は、これから候補先の病院と連絡を取るので、その後その病院から直接、私の方に連絡が行くことになるだろうということ、その際、私の口から、母の状況を詳しく伝えてほしいということを告げられた。
施設側では受け入れを快諾していてくださっていても、病院が見つからない限りそれ以上先へは進めない状態だった。

相談を終え、K施設を辞した後、C施設の相談員Tさん、看護師のHさんとの待ち合わせの場所に向かった。

お二人は、車で迎えに来てくださっていた。

どこか、ゆっくりお話しができるとところに行きましょうということで、車に乗り込み、軽い雑談を交えながら、今現在の私が対面している状況などをお話ししていった。
しばらく近辺を走った後、落ち着いたのは、チェーン展開しているカフェだった。

私としては、今現在の状況を伝え、これからの指針を仰ぐつもりだった。

週末のせいか、カフェはかなり込んでおり、席に着くまでしばらく時間がかかった。
注文した珈琲を前にようやく腰を落ち着けると、お二人は少し姿勢を正し、顔を見合わせた。
そして、
次に聞こえてきた言葉は、

「お母様を私達の施設で受け入れようと思います」

「え?!」

信じられなかった。
まるで、考えてもみない展開だった。
思わず、聞き返していた。

「・・・・あの・・・・、母を・・・・・、受け入れてくださるということですか??でも・・」

驚く私に、お二人は、噛み砕くように説明を始めた。
実際、母を受け入れることは簡単ではなかったこと。
私の申し込みを受けてすぐに病院探しを始めたが、いくつかに断られたこと。施設側としても、受け入れる自信を持てなかったこと。

「その状況で、中途半端に拘束していては、却って失礼だと思い、一度は断りをいれることにしたということはお話ししたか思います。ただ、・・・・」
看護師のHさんはそこまで言うと、言葉を切った。
相談員のTさんと再び顔を見合わせる。
一呼吸置いてH氏は言葉を継いだ。

「ゆみさんの必死さを目の当たりにしていて、そのままにしておけなかったんです」
「ええ、二人とも、その後どうされたかと気にかかって・・・・」

お二人は、一旦、断りを入れた後も、いくつもの病院に当たってみてくれていた。
そして、今現在は、T病院に打診していた。
「たぶん、T病院は大丈夫だと思います。でも、仮に、T病院が、受け入れを断ってきたとしても、どこかは探せます。ゆみさん、うちに来てください」
Hさんは仰られた。

私は、息を呑んだ。涙が溢れてきてしまった。
いくつも施設を見てきたが、私にとって、C施設以上のところは見つからなかった。
もう一つ、ここならと思うところを見つけてはいたが、そこは、かなり先まで満床だった。

「うちの施設に受け入れるに当たり、その前に、やはり、お母様にお目にかからなければなりません。東京に伺いたいと思っています」
私は絶句した。
移住先と東京は、飛行機で飛ぶ距離だ。
「え、東京にいらっしゃるんですか?」
「はい。主治医の先生ともお話ししたいですし、お父様ともお目にかかりたい。そして、何より、お母様の様子を実際に拝見したいです」

そこまでしてくださるということに、私は心から感謝した。その誠意に頭が下がる思いだった。
もし、これで断られることがあったとしても、本望だと思った。

こんな風に誠実に応対してくださる方がいらっしゃる限り、私はまた、一から始められる。

7月9日、お二人は、遠路はるばる東京にいらっしゃった。
私は羽田まで出向き、お二人を母の病院に案内した。
母の主治医であるM医師と面談し、母の状況について詳細なお話を交わされた。私は同席を許されなかった。その後、病院で待っていた父と会い、母にインタビューをした。

正式な返答を頂いたのは、7月11日。
14日から、施設での受け入れが可能とのことだった。

7月20日、私は母と共に、沖縄に飛んだ。





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母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html










振り出しに戻ってしまっていた。また一から施設探しだった。思わずため息が漏れた。
母の時間が十分にあるのなら、少しぐらいの手間と時間は少しも苦にはならない。だが、そうではない。
こうしている間にもどんどん時間は短くなっていく。

でも、時間がないからこそ、泣いている暇も、嘆いている暇もなかった。
「申し訳ないのですが・・・」というC施設の相談員さんの言葉を聞いた時、頭をがーんと殴られたかのような思いに打ちのめされたのは本当だった、が、と同時に、「じゃ、どうしよう?」と次のことも考え始めていた。

その日のつぶやき。
「明日まで、『がっかりした』という気持ちに思いっきり浸ろう。
そして、明日、次の行動を始めたら、もう振り返らない。」

ダーリンに連絡をし、次の手立てを二人で討議した。
最初に考えたのは、施設が病院を見つけられないのだとしたら、私が病院を探したらいいのではないだろうか?ということだった。

N市の施設を見学した際、その施設の方が母の病状を聞き、病院の緩和ケアに入ることを考えてみましたか?といくつかの病院を紹介してくださっていた。
そのことを、C施設の相談員さんに話してみると、その病院の中では、A病院が一番いいのではないかと教えてくださった。

すぐに検索してみたが、A病院の緩和ケアは末期の癌患者しか受け入れないということだった。
翌日、念のため電話でも問い合わせてみたが、返答は同じだった。

病院の緩和ケア病棟に関しては、東京で、いくつかの病院に問い合わせてみていたが、状況は同じだった。緩和ケア病棟で受け入れるのは、基本的に、余命を宣告された、癌の末期患者のみだった。

C施設からの断りの電話を頂いた翌日、見学したN市の2施設に連絡をとった。
L施設はやはり満床だったが、K施設は空きがあった。すぐに申し込みをした。そこがもし母を受け入れてくれるのなら、とりあえずでもそこに母を入所させ、もし、どうしてもそこが母に合わなければ、それから、また、他の施設を探してもいいのではないかと思った。

もう一度、移住先を訪れ、施設見学を始めるよりは、早く事が進められるのではないかと思ったからだった。

ダーリンに話をすると、それは、一つの考え方ではあるけれど、一度、入所した場所をまた移動するというのは、それはそれで、お母さんにはストレスになるのではないかと意見された。それもまた尤もだった。
どこかで、楽な道を選ぼうとしていた自分を認めざる得なかった。

申し込みをしたN市のK施設からは、決定に一週間ほど猶予をほしいという返答を頂いていた。

私は、もう一度、移住先の「介護付き有料老人ホーム」を洗い直すことから始めた。今回は、地域を広げ、中心地から大きく離れた地以外は、全て対象として考えるようにした。

結果、計10施設を選ぶことができた。電話をして空き室状況を確認すると、その時点で、7施設に空きがあった。もちろん、これらは流動的であり、よいかどうかも見てみるまでわからず、また、母を受け入れてくれるかどうかもわからない。

わからないのだから、動いてみるしかなかった。ここで、座っていても、何も変わらない。

5月30日に断りの返答を頂いて数日後、再び移住先に行くことを決心した。
その後、N市のK施設からは、もうしばらく保留にさせてほしいという返答が来ていた。どうせもう一度訪れるのだから、K施設へも再度足を運んでみるつもりだった。
見学数11施設の私の二度目の旅は、6月11日から始まった。



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移住するにあたり、母を療養型病院から施設に移そうと考えはしたが、実際のところ、私には何の知識もなかった。知っていたのは「老人ホーム」と「特養」という言葉くらいだった。
移住先の候補地は決めたものの、その地のどこにどんな施設を探していいのか皆目検討もつかず、何より最初にしなければならなかったのは、高齢者向け施設についての理解だった。

調べ始めてみると、高齢者や要介護者を対象にした施設は種類が多く、設備、サービス内容、費用、入居条件なども施設ごとに、様々に異なっていた。

施設をどう分類するか、その仕方も種々あるかと思うが、一つには「民間施設」と「公的施設」に分けることができると思う。
想像に難くないだろうと思われるが、、「民間」の方が費用が高くなるのが普通だ。

費用の面から言っても、介護度の高さから言っても、「公的施設」は人気があり、入所を希望する待機者も多い。場所によっては数百人待ちのホームも決して珍しいことではなく、そうなると何ヶ月、何年も入居まで待たなくてはならないことになる。それではとても間に合わない。そちらの方はさっさと諦め、「民間」に活路を求めた。

様々に調べてみた結果、母が入れる可能性のある施設は、療養型病院以外なら、「介護付き有料老人ホーム」になるだろうというところまでは辿りつくことができた。

次にしたのは、移住先の「介護付き有料老人ホーム」を調べ上げることだった。
その中でとても手の届かない費用のところは除外 し、それ以外の全ての施設に電話を入れた。
母のような病状の者を受け入れてくれるかどうか問い合わせる為だった。
その過程でいくつかの施設が消えていった。

問い合わせの段階で空室状況も確認した。
「満床」というところの方が多かったが、受け入れの可能性ありと応えてくれた施設に対しては全て、パンフレットの送付を依頼した。
その中から母にとって条件が良いと思われる施設をを選び出せたのは、4月も下旬になってからだったと思う。

気が急いていた。
移住までの工程が長引けば長引くほど、母に寄り添う時間が短くなる。
何としてもGW突入前に移住先に入りたかったのだが、タイミング悪く、風邪を引いて寝込んでしまった。
病気には勝てない。
仕方なく、移住先での施設見学はGW明けに延期した。

ようやく移住先に入ることができたのは、GW明け、2016年5月9日だった。
事前に、電話で4施設の見学の予約を取っていた。必要であれば随時、見学先を増やすつもりでいた。そのため帰路の予定は立てていなかった。
初めての地であったため、場所の距離感覚が全く掴めず、とりあえず、2都市をターゲットにした

到着翌日から見学を開始した。
一日、2施設の予定。最初の地は滞在していた場所からバスで一時間程のところだった。
嬉しいこと にTWで知り合った友が同行してくれた。バス停で初顔合わせ。でも、まるで旧知の友のよう。^^
施設の方に「長くお友達なのですか?」と問われたほどだった。

この日見学した2施設は、どちらも同じようによかった。
特に、2番目に見た施設は建物、設備、スタッフの方々の態度、施設内全体の雰囲気などどれもよく、ここなら、と思えるような ところだった。こんなにも早く気に入った場所をみつけられた幸運に心から感謝した。

翌日は、滞在先市内にある残りの2施設を見学した。
最初の施設は満床だったが、2番目に見た施設には空室があった。ここにも申し込みをするべきかと迷ったが、後日、また連絡させて頂くかもしれないので、よろしくお願いしますと頭を下げてくるに留めた。
この日見学した2施設も決して悪くはなかった

4施設を見学し終えた後、私はすっかり責務を果たしたかのような気持ちになっていた。これで、母をこの地に移すことができる、この分なら、6月中には移住が完了するだろうと、半分以上は、肩の荷を降ろしたような気分でいた。

思いの他、事がスムーズに運び、早くに当初の目的を達成できたので、数日は自分のために過ごしたいと思った。滞在先の町から、知人に借りた海辺のマンションに移った。

申し込みをしたC施設から連絡をもらったのは、見学数日後だった。
看護師さんとの面接を求められ、再び施設に出向いた。
相談員さんを交え、看護師さんとの面談を終えた後、もうこれで母の入所に関しては大丈夫だろうとjほとんど確信していた。
約10日間の滞在の後、5月18日、東京に戻った。
入所の不可に関する返答は一週間から10日後と聞かされていた。

約2週間後の5月末、返答を頂いた。

「残念ですが、当施設ではお母様をお引き受けできません」
電話口から聞こえてきた相談員の方の言葉を聞いた時、私は絶句してしまった。
頭をガーンと殴られたような思いだった。

受けた電話の段階では、とても頭が回らず、「そうですか、とても残念です」と応えるのが精一杯だったが、しばらく頭を冷やした後、相談員の方に電話をかけ直した。断られた理由を聞くためだった。
そして、詳細を伺うためにも看護師の方とももう一度お話をさせていただきたいとお願いした。
理由がわからなければ、また、同じ間違いを繰り返す。
それは何としても避けたかった。

母が入所を断られたのは、医療の問題だった。
医療の問題にも色々あるが、一つには、「看取り」の問題がある。
「看取り」はどの施設でも対応してくれる、或いは、対応できるわけではない。
また、仮に、対応してくれる場合であっても、その方の病の状態によっては、対応できない場合も出てくる。

入所を望んだC施設は看取りも可能ではあった。ただ、母の場合、それは比較的目前の問題でもあり、最期がどのような状態になるのか、はっきりとした予測がつけることが難しかった。
私は、母が最期に苦痛を感じた場合には、それをできるだけ取り除くための処置をしてほしいと望んでいた。となると、その苦痛の度合いによっては施設では対応できない場合も出てくる。

どうしても病院との密接な連携が必須だった。
施設と病院との連携のあり方は、その施設、その施設によって大きく違ってくる。
C施設では、その段階で、私が望む、母に必要な医療をサポートできる病院との連携体制を持っていなかった。言葉を変えれば、母のために準備することができなかった。それが、入所を断られた理由だった。

地元で施設を探した場合、この種の問題は割合、楽にクリアできることだろうと思う。なぜなら、それまでかかってきた病院との関わりが既にあるからだ。だが、移住先となると、その地での病院との関わりは全くない。ということは、施設側か、或いは、入所希望者本人が受け入れ先病院を探さなければならないということになる。

C施設の相談員の方は、こう仰られた。
「こちらでも病院を探す努力は続けようとは思うのですが、これ以上、宙ぶらりんの状態でお引止めしておくのも申し訳なく思いますので、今の段階ではお断りすることに致しました」

私は施設側の誠意に心から礼を言った。



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母の移住を考え始めたのは、約一年前だった。(2015年6月)

①私達のいる国に呼び寄せる。
②それが無理なら、国内で移住する。
③それもどうしても叶わぬなら、東京でどう介護するかを考える。

この選択肢の中でどうするべきなのかダーリンと二人で相談し始めた。
2015年の6月だった。

実際、母を呼び寄せようという話は、もう10年以上前からでていた。
だが、母の決心が中々つかず、そうこうしているうちに、私が病に倒れてしまった。

2013年から2014年いっぱい、私は全く動ける状態ではなかった。
悔しいことに、その間、母の体調は悪化した。

2015年6月、母は通院は難しいといい始め、訪問診療へと切り替えた。が、その後、坂道を転がるように母の病状は悪くなっていった。

2015年7月2日、大学病院への入院を余儀なくされた。
病名は、非代償性肝硬変。肝性脳症もひどく、余命は、半年そこそこと言う医師の診断だった。

母の入院後、私は東京へ飛んだ。
まだ身体は回復しきっておらず、フライトにも不安があり、空港に着いた途端、ひっくり返るのではないかと思いながらの旅だった。

大学病院は積極的な治療をしない患者は置いておいてはくれない。
転院を請われ、東京に着いて間もなく、療養型病院探しが始まった。

その時の私には、療養型病院がいかなるものなのか、知識すらなかった。
言われるまま大学病院の紹介先病院を見学に訪れた。

正直言って、絶句してしまった。
そこは、言葉は悪いが、まるで「姥捨て山」だった。
誤解してもらっては困るのだが、そこの病院が悪いのでも、スタッフが悪いのでもない。スタッフは懸命に仕事をしていた。

ある「療養型病院」を訪れたのは、午後2時頃。
施設の説明等を受け、院内を見学に行った。ほとんど物音がしない。廊下は静まり返っていた。
病室に案内され、驚いた。人々は、ただ、口を開けてベッドに横たわっていた。カーテンの仕切りも何もなく、ただ、人々が並べられていた。

療養型病院と言っても色々ある。たまたま私が見学に行ったのが、そうした寝たきりの患者さんばかりのところだったのかもしれない。だが、その後、いくつか見てみたが、どこも似たり寄ったりだった。
一つの病院でははっきりと伝えてくれた。
「ここは最終の地です。退院ということはありません」

私にはどうしても、母をそのような場所に入れることはできなかった。
ただ、横たわり、栄養を入れられ、オムツをされ、生物学上、生きているというだけの状態。
母には、人としての威厳のある最期を遂げさせてあげたかった。

母の行き先を決めるために、Twitterで知り合った方が、力を貸してくださった。私には分不相応の料金の施設だったが、半年の命ならとその病院に転院を決めた。

よい病院に母を移すことができ、少し安心したこともあったのだろう。その後、私は東京に来てから激務がたたり、すっかり具合が悪くなってしまっていた。

私事を言えば、
2015年 5月8日  スペインから英国に引越し
     7月18日 東京へ
     10月7日 帰英
     11月3日 ポルトガルへ引越し

という忙しさだった。
帰英後は、体調が悪く、救急に駆けつけることが続いた。
10代から持っている心の病も悪化してしまっていた。

10月に東京を離れたが、その後も、母の入院先には頻繁に電話を入れていた。だが、その頃の母は肝性脳症の症状がひどく、会話が成り立つ状態ではなかった。
早く東京に 行かなければと気持ちばかり焦り・・、体と心はついていかず・・・。
そんな悶々とした日々を過ごしていた。
ようやく何とか体と心がなってきたかな?と思った頃、今度は父が骨折をした。
急遽、東京へ飛んだ。

2016年2月19日、約5ヶ月ぶりの東京。
父と母の介護が始まった。
息子は中国へ留学、ダーリンはポルトガルへ残り、と家族はバラバラになった。

春、母を家へ呼び、父と母と桜を愛でることができた。
これは、およそ叶わぬことと諦めていたことだっただけに、心から嬉しかった。
母は驚くほどの生命力を見せ、その後も大きな変化がなく病院での療養が続いた。

母が余命と言われた時間を越えて共にいてくれることはもちろん限りなく嬉しかったが、この状態のままでは、私の家族はバラバラだった。ダーリンが東京に 来てということになればそれ相応の住まいを探さなければならない。仮に汚染の問題を横に置いたとしても、簡単なことではなかった。

母が入っていた療養型病院は、実家から片道約2時間ほどを要した。
往復4時間。高齢の父にとってその距離と時間は負担であり、私にとってもまた毎日のように会いに行くという距離ではなかった。
まず、実家から少しでも近い場所に母を移すことを考えた。様々な施設に問い合わせ、見学にも行った。

施設探しは簡単ではなかった。母にはかなり重症な病がある。そうした場合、どこでも受け入れ可能というわけではない。
そして、もちろん費用の問題があった。母が入っていた療養型病院はとても素晴らしいところではあったが、料金がとても高く、その負担は、経済的に私達の家計を圧迫していた。

料金共に母に見合ったような施設を実家の近くで見つけることはできそうもないことがわかり、ならば、少し郊外へとオプションを広げてみた。だが、そうなると、結局、遠距離ということになってしまう。

東京近郊での施設探しと共に、ポルトガルに母を呼び寄せる可能性も考慮し、ヴィザの取得についても調べ始めた。ダーリンもポルトガルの諸施設に問い合わせ、実際に足を運び、母がフライトに耐え得れば、呼び寄せることも可能であることはわかった。
後は母の体力の問題だった。

医師に相談を持ちかけた。応えは、「大変危険だ」というものだった。
であれば、その選択肢は捨てるしかない。

東京にい続けることは、私達家族にとって問題があり、私達の国に呼び寄せることは無理。
となれば、後考えられるのは、日本国内でどこかに行き、そこで母をみることだった。

どこであれ母を移動させることの危険性は考えた。高齢者にとって環境の変化は大きな影響を与える。その上、母は重病でもある。このまま何もしない方が いいのではないか。無理なことをしようとしているのではないか。ダーリンと二人、スカイプで顔を合わせ、話し合いに話し合いを重ねた。

結論は、「とにかく動いてみよう」ということだった。
まず、移住の候補地を決め、行ってみる。そして、施設を見てみる。行ってみてその場所が好きになれな いかもしれないし、いい施設を見つけることもできないかもしれない。また、こちらが気に入っても、施設側が受け入れてくれないかもしれない。

移住の候補地を決めた後、施設のリサーチを始めた。
ただ、その地に行ったこともないため、どこに施設を見つけるべきなのか検討もつかなかった。ネットで 調べ、電話をし、また調べ、また問い合わせる。その地を知っている人に情報を求める。そうした作業を始めたのが2016年4月に入ってからだったと思う。




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母のいる病室に足を一歩踏み入れた途端、空気の淀みのようなものを感じた。
流れていない。
止まっている。
ここに母を長くおいておきたくないと瞬間的に感じた。


2013年1月18日金曜日の朝方、成田に着き、リムジンバスで吉祥寺に向かった。
病院は駅近くなので家へ帰るより先に、スーツケースをガラガラと引き摺り、母の顔を見に行った。

受付で名前を言うと、インフルエンザが蔓延しており、面会者を制限していると言う。
娘であるということ、今、日本に着いたところだということを告げ、少しでもいいから顔をみせてほしいと申し出た。

3階までエレベーターであがる。ぐるりと回る廊下を伝って母の病室に行った。

そして足を踏み入れた途端、感じたのが最初に記した思いだった。
それが何を理由にし、根拠にしているのか、その時には説明しようもなかった。

母がいる病室には、ざっと見て8人ほどの患者がいた。
全員が横たわっているのでどこに母がいるのかわからない。
端からそっと顔を覗く。みな目を閉じている。キョロキョロと見回していると母の声が聞こえてきた。
ちょうど看護師さんがいらっしゃっているところだった。

母は私の顔を見るなり、話し出した。
「もうね、痛かったのよ~・・・・・」

私は母の手を握りながら、うんうんと頷いた。
母の話はしばらく止まらず、私はただ頷き続けた。

「・・・ごめんね、遠いのに・・・」
母は一息つくと、言った。
胸が痛む。

「もっと早く来ればよかったね。ごめんね・・」
そう答えるのが精一杯だった。

ふとベッドの横を見ると、尿道カテーテルが繋がれている。
私の視線に気づいた母が応えた。

「介助をしてくれればトイレに行けますといったのだけど、オムツにさせられちゃったの」

「・・・・・」

「ここの人はみんなそうみたい。3階に患者用のトイレがないんだって・・」

私の頭が警報を鳴らした。
「早く出ようね。転院するか、退院して他の病院に行こうね」

人手不足による病院側の事情もわかる。他の病院でも大同小異なのかもしれない。
それでも、その病室内に希望の光を見ることはとても難しいように感じられた。

自分自身も長旅と時差ぼけでふらふらだった。小1時間ほどで、病室を出、実家に向かった。

実家は・・・
かなりの惨状だった。
無理もない。母は約ひと月、ほとんどまともに動くことができなかったのだ。
あちこちに衣類が置かれ、郵便物などの紙類も、そこここにと積まれていた。
もちろん掃除は行き届くわけもなく・・・。
丸一日のフライトの疲れと共に、ケオスとと向かい合う。ため息をついている場合ではなかった。

放射能の問題もあった。
以前であれば、簡単に済んだことが、311以前のようにはいかない。
掃除をするにしても常に放射性物質を意識しなければならない。
食事の支度に関しては言うまでもないことだった。
家の中を掃除し片付ける。そうしながら父の面倒をみ、母の退院に向けて動く。
若くない私の身体が疲れたと悲鳴をあげていた。でも、負けていられない。

翌1月19日土曜日、病室に行くと、母は私の顔を見るなり詫びた。
「ゆみが空港からそのまま来たなんて思わないで、お母さんべらべら話して疲れさせてしまったのじゃない?ごめんね」
私は微笑んだ。いいのよ、それでいいのお母さん。

1月20日 日曜日 このまま母をここに置いておいてはいけないと金曜日に感じた思いをようやく行動に移した。看護師さんに退院の希望を伝え、主治医との面談を希望する。

1月21日 月曜日 主治医との面談。一日も早く家につれて帰りたいことを伝え、そのためにするべきことを聞いた。ケアマネージャーに連絡し、母を家に迎えるための必要な用具の手配を始める。

1月22日 火曜日 必要な用具、ポータブルトイレ、ベッドの補助フレーム、歩行補助フレームの搬入日を確認する。金曜日か、遅くとも月曜日との事。
あと少し。待っててねお母さん。

1月23日 水曜日 症状が良くなるに連れ、母の表情が和らいでくるのがわかる。最初に見た時の母の顔は見つめているのが辛かった。また、優しい可愛い顔になるね、お母さん。
必要な用具の搬入が金曜日の午後に決まる。

1月24日 木曜日 主治医に必要な用具が整うことを告げ、月曜日28日に退院したい旨を願い出た。
了解を得、介護タクシーの手配。月曜日、午後2時半に決定。

1月25日 金曜日 午後3時。ポータブルトイレ、ベッドの補助フレーム。歩行補助器が届く。使い方の説明を聞く。その後、母の病院へ。全ての準備が整ったことを告げる。母は上半身を起こせるまでに快復していた。

1月26日 土曜日 母が気にしていた、髪の毛を整えるため、ラヴェンダー入りのローションとブラシを持って行く。母は尿道カテーテルは外してもらっていた。母の意気が少し落ちていることを感じる。後、一日。その次には退院だからね。

1月27日 日曜日 今晩一晩だからねと、母を思い切り抱きしめる。

1月28日 月曜日 午後1時頃、病院に着く。母の着替えを手伝い、荷物をまとめる。退院の諸手続き支払いなどを済ませ、介護タクシーを待つ。
車椅子と共に迎えに来てくださった介護タクシーの運転手の方と病院を後にする。道中母は痛みを訴える。
家の中まで車椅子を入れてベッドまで連れて行ってもらう。



2月4日 月曜日 入浴サービスを受ける。母が3週間ぶりに湯船に浸かった姿を見て涙が流れて仕方がなかった。

2月5日 火曜日 リハビリの方の手を借りて、10歩、歩くことができた。

2月6日 水曜日 六畳にあるベッドから立ち上がり、補助を得て四畳半を通過、キッチンにある椅子まで歩き数分腰を降ろした後、またベッドに戻ることができた。

2月7日 木曜日 今日の母のリハビリ介助は娘の私。昨日より距離を伸ばしてベッドから椅子へ。10分も座っていられた。(^0^)/

2月8日 金曜日 1月15日以来、初めてテーブルの前に腰を降ろして、食事ができた。約15分。今日の歩行距離、20メートル!

2月9日 土曜日 着席時間は昨日と同じ15分。リハビリの方がいらして、しっかり運動。

2月10日 日曜日 ランチに着席25分。その後、這って、和室に行き、正座をしたり開脚をしたりして1時間10分過ごす。

2月11日 月曜日 ベッドから離れること1時間255分。入浴サービス、2回目。

2月12日 火曜日 訪問介護の方と運動。その後1時間20分ほどベッドから離れ、ランチなど。夕食、再び、テーブルに40分。確かな進歩。嬉しい。

2月13日 水曜日 朝、朝食に起きてきたまま、2時間15分ほど椅子に腰を降ろ下ろしたり、正座したりして過ごす。11時半、車椅子と歩行器が届く。リハビリの方もいらっしゃり、使い方の説明を受ける。どちらも試用し使い方の練習。その後そのまま昼食の席へ。3時間ほどベッドを離れて過ごす。夕食のために5時にベッドを離れ、6時半まで。日中、計6時間半以上、ベッドを離れて過ごすことができた。

2月14日 木曜日 朝、つかまり伝い歩きでベッドからキッチンまで10数歩歩く。腰を降ろして2時間ほど。そして!!今日は二度、普通のトイレで用を足すことができた。昼食、夕食共に、テーブルで、計4時間ほど。

2月15日 金曜日朝2時間。昼、1時間半。夕食前後2時間半着席。トイレに3回。どこにもつかまらずに数歩歩く。

2月16日 土曜日 朝、自分で着替えをたんすから出し着替える。トイレにも一人で行き、朝食の席に着くことができた。大きな進歩。歩行距離が確実に増えている。一人でできることも大分出てきた。

2月17日 日曜日 あちこちに捕まりながら、家の中で歩けるようになる。(^0^)/ 朝は4時間ベッドを離れる。

2月18日 月曜日 朝、一人で立って行ってお湯をわかし、急須と湯飲みを用意して、お茶を入れる。(^0^)/

2月19日 火曜日 家の中を歩き回ることができるようになる。みんなにありがとうと言いたい思い。母が作ったお味噌汁と大根の煮物を食す。

2月20日 水曜日 かかりつけの医師の元へ診察に。退院後初めての外出。

2月21日 木曜日 母を美容室へ・・




*入院までの事情*

母が、足の不調を訴え始めたのは2012年に入ってからだったと思う。正確にいつ頃だったのか覚えていないのだが、脚が萎えるような気がする。腰が砕けたみたいな脱力感で歩きにくい。時々歩けなくなると言い出した。

2012年の6月に帰国した時にも同じ訴えをしていた。

かかりつけの内科医師に状況を説明すると、整形外科に行くように薦められた。市内の医師を訪れたのが11月7日。
脊柱管狭窄症と圧迫骨折があると診断され、リハビリに通うようになった。12月中、リハビリに。

2013年明けから徐々に痛みがひどくなり、度々、整形外科を訪れ、注射、痛み止めの座薬などを頂いたが好転せず、14日には寝られないほどの痛みになってしまった。
16日、痛みに耐え切れず、内科に行くと、安静が必要ということでそのまま救急車に乗せられ入院となった。











誰しもが、何らかの問題を抱えている。
私も例外ではない。

その問題のひとつは生れた家庭にある。
父、そして、姉。二人は私にとって、大きな問題だ。

問題はいつもそうだが、複雑に絡み合っている。
そのこんがらがった絡みの中では、私の思いも言葉も行いも、スムーズには通過していかない。
あっちで躓き、こっちで躓き、そこに引っかかり、あそこに絡まり、転び・・・

母は、その絡みの森の中にいる。

母という人を守るために、絡まった森の中を何度も彷徨ってきた。
その度に傷だらけになった。
それでもやめるわけにはいかなくて、いつもいつも歯を食いしばった。

母は、30代で胆嚢炎を患い、手術をした。
後、術後の癒着に長い間悩まされ、つきに10日は寝込む日々を送ってきた。
そして、75才の時、膵臓癌を患い手術を受けた。

私は物心ついた時から、母を守りたくて守りたくて生きてきたように思う。

今、また母の介護をさせてもらっている。
そして、一番の問題は、やはり、父と姉だ。
母の介護の身体的、精神的大変さなど、それに比べればなんでもない。
私を苛ませるのはいつも一番身近な二人。










「自分を生きる覚悟」書いた後、最初に母に送った。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67685932.html


程なくして、返信が来た。


「いま、よみました。
あなたのくるしむのに、どれくらいよりそえたか?
わからないけれど、こころだけは、めいっぱいそっていきてきたと、おもっています。
わたしのいきているかぎりおなじです。」


ひらがなの文字が涙で滲む。


何度も何度も一緒に練習をしてようやく返信だけはできるようになった携帯メール。

「よ~くよ~くわかっているよ。お母さん。ありがとう。」

そう返すのが精一杯だった。


苦しむ娘を見て、母はどれほど辛い思いをしていたのだろう。
できるのなら、代わってやりたいと思うのが親の気持ちだ。
子供が苦しむ姿は、わが身を切り刻むよりはるかに辛い。
母となった今、私にも痛いほどわかる。

自分のことに精一杯だった。母の思いにまでとても気持ちを馳せることはできなかった。

お母さん、ごめんね。

そして、ありがとう。





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 約三ヶ月の入院生活を終えて家に戻った時、母は、立ち上がるどころか、寝返りさえうてない状況だった。ベッド脇にある手摺に掴まれば半身を起こすことは何とかできた。ベッドに腰掛けた状態まで持ってくれば、そこから手摺を使って立ち上がることもかろうじて可能だった。立ち上がるところまで行けば、足を滑らせるように動かすことは出来たので、杖あるいは、誰かの支えがあれば、そろそろとトイレに行くことは出来た。が、半時間以上、椅子に座っていることも、ドアのノブを回して開けることも、500ml以上のペットボトルを持ち上げることも、ほんの少し重量のある洋服を着ているということも、何もできなかった。

 入院中も体を動かすことは奨励されていた。今は病院でも、術後、できるだけ早い時期に起き上がるよう、立ち上がるよう、歩くようにと指導されている。病院の廊下は、いつも、ぐるぐると歩き回る患者さんでいっぱいだった。体を真っ直ぐ立てることも出来ない状態で人の手に縋りながらようやっと足を進める患者さんから、点滴の棒に捕まり無表情に歩きつづける患者さん、大分回復が進み、変化のない廊下をつまらなさそうに一人でくるくると歩き回る患者さん。一目見て入院患者と分かる人々が、絶えず、院内を歩き回っていた。

 母も、手術の翌日には体を縦にした。縦にしたというのは、立ち上がったと言う訳ではない。ICUのベッドに体を縦に起こされて足を床に下ろし二歩、足踏みをした。ずっと後になって、母にその時のことを聞いてみたが、何も覚えていなかった。「立ち上がってみますか?」と質問されて「はい」とお母さん言ったのよ。と記憶を促してみたが、その日どころか、ICUに入っている間の記憶はほとんどなかった。

 一般病棟に戻ってからは、まだ、息も絶え絶えながら、できるだけ体を動かすという方向に持っていくよう努めた。最初は上半身を立てること。そして、次はある時間座っていること。それから、立ち上がること。そして、歩くこと。21日に手術を受け、約一週間後の27日、母は両脇を看護師の方に支えられ20メートル程歩いた。それから、徐々に、徐々に、歩く距離と回数を増やしていった。点滴の棒に縋るようにして立つ母の手を取って一体どのぐらい病院の中を歩き回っただろう。初めは牛歩の歩みに過ぎなかったが、やがて、病室がある階の廊下をぐるりと回れるまでになった。それでも、屋内の廊下をただ無為に歩くというのは、効果的に筋肉を使うのとは違う。しないよりははるかに良かったのだろうが、それで、十分なリハビリができていたとは言えなかった。

 リハビリは体だけの問題ではない。心と頭のリハビリも必要だった。特に母のように高齢の場合、頭を衰えさせないようにすることは必須だった。病室にはテレビもあったが、術後、母の視力はかなり落ちてしまい、テレビにも新聞にも全く興味を示さなかった。尚且つ、母には耳に障害があった。幼少の頃にかかった中耳炎が原因で、母の片耳は全く聞こえない。体力が弱まれば、まず、故障のあるところに支障をきたす。目の機能はかなり衰え、耳は常時、耳鳴りに悩まされるという状態になってしまっていた。

 元気であれば、例え一日でも新聞を読むことを欠かさない母が、全く興味を示さないということは、私にとって怖いことでもあった。私は、毎日、前日の夕刊とその日の朝刊を持って行き、母に読んで聞かせた。無論、聞いているだけでも長い時間はとても無理だったため、記事を選んでの少しずつの読み聞かせだった。次に心がけたのは、できるだけおしゃべりをすることだった。咲いている花の話、出会った人の話、会話した友人の話、覗いたお店の話、とりとめのない話ばかりだったが、とにかく母に頭を働かせて欲しかった。そして気分が悪くさえなければ、車椅子で病室から外へと連れ出した。外を押して回ることはできなかったが、病院の入口のところお花屋さんがあり、そこには何回となく足を運んだ。精一杯の努力はしていたつもりだったが、ひと月を過ぎた頃から、日に日に、母の表情が乏しくなり始めた。私の話にも反応が鈍くなり、相槌すら返さないようになってきた。元来、明るい性格である母が、いくら術後の回復期であるとはいえ、こんな風に変わってしまうのは普通ではなかった。私は冷静に観察した。母の表情、他人への態度、会話の受け答え、そして、母にどんな気分かを日に何回となく聞いてみた。どう考えても、典型的な鬱症状を示していた。私は早速医師に相談し精神科に回して欲しいと願いいれた。担当医がやってきて母を診てくれたが、それだけでわかるわけもなかった。私は、とにかく一刻も早い精神科での診察をお願いした。精神科の医師は、母に2、3の質問をし、私の方を見て抗鬱剤を処方して見ましょうかねと言いながら、二種類の薬を処方してくれた。家に戻ってからネットで二つの薬を調べ、翌日から母に飲ませた。

 最後に病院を去る9月の下旬までに、母は、一度退院しては一週間も経たずに高熱を出し、救急車で逆戻りということを繰り返し、二度の入退院をしていた。三度目の退院の間際になって、院内でもリハビリが行われていることを知った。できるのなら受けさせて欲しいと申し出、3度ほど指導を受けた。退院後のリハビリについても、そこに通えないだろうかという可能性を考えてはみたが、車を利用しても、その時の母にはそれだけの体力はあるように思えず、諦めざる得なかった。

 退院に当たって、担当医からの話が最後にあった。私は、家に戻ってからのどのように生活していくべきなのかというアドヴァイスを具体的にもらいたかったが、担当医の言葉は一言、「普通に生活してください」というものだった。寝返りもうてない半病人が、どうやったら、普通の生活を営めるというのだろう。私は途方にくれた。

 介護保険については、看護師の方から、入院中に伺っていた。退院までに手続きだけは終えていたが、申請をして実際に適用されるまでは、二月以上かかると言われていたので、すぐにの利用は無理だった。それでも、何とか、介護サービスを行っている介護士の方に連絡を取り、その方の助言を得て、退院までに、介護用ベッドとお風呂場で使用する椅子を用意することができた。介護認定のための査定が済み、認定を待っている間に、介護保険でもリハビリの指導が受けられるということを知った。無論、その申し込みも急いで進めたが、申し込めばすぐに始めてもらえるわけではなく、介護士からの連絡をただひたすら待つしかなかった。
 
 退院直後の母の生活は、ほとんど寝たきりだったといってよいと思う。まだまだ、腹部に不快感もあり、時には痛みもあった。もちろん食事などまともに取れる状態ではなく、当然、体力も全くなかった。退院の時点で母の体重は11キロ減っていた。母が腹部から除去したのは、十二指腸と胆嚢、そして膵頭だったが、そのために新しく連結しなければならない部分はゆうに6箇所以上あった。幹線道路をパイパスして6つの新しい接続が設定されたわけなのだから、最初からスムーズに機能すると言うこと自体が間違いで、様々な、滞りが母を苦しめた。結果、口から入れたものが順調に出口に到達するために様々な障害が生じた。その一つに、排泄があった。トイレには頻繁に通わなければならず、それは、夜中も同じだった。夜を通して眠れるということは皆無だった。私は母のトイレの度に起き、連れ添った。口から入れるものは食べ物だけでは間に合わす、栄養補助食などでカロリーを補給しながら、ただ、ひたすら毎日を送っていた。

 退院後2週間ほど経った10月の初旬、母は風邪の症状を訴えた。風邪は肺炎に繋がる恐れもあり、病院に逆戻りということも十分に危惧され、悪化は絶対に避けたかった。直ぐに大学病院に連れて行くことを考えたが、大学病院の場合、予約のない状態では一日待合室で待たされるということも稀ではなかったため、以前に他の病気でかかっていた内科を訪れることにした。

 医師は診察室に入ってきた母を見るなり、「歩き方を忘れましたね」と言った。そして、ようやく椅子に腰を降ろした母をもう一度立たせると、「ダメですね。筋力が全く衰えています。リハビリをしないと寝たきりになりますよ」と告げた。それから、母の現在の生活について質問をし、今のような生活では、やがて、寝たきりになってしまう可能性もあるといい、これからの指針を与えてくれた。横になって眠ってしまっていてはいけないということ。疲れたら横になってもいいから15分だけにとどめるということ。一刻も早くリハビリの運動指導をしてもらうこと。規則正しい生活をリズムを持ってすることなどだった。幸運なことに、その内科でもリハビリ指導をしていたため、介護士の方に連絡を取り、そこから指導員を派遣してもらえることになった。

 こうして、週3回、1時間弱の母のリハビリ指導が始まったのは、退院後ちょうどひと月を過ぎた10月下旬だった。

 母は頑張った。リハビリの指導をしてもらえるのは、週に3時間にも満たない時間である。それ以外の165時間は母の責任である。私はできるだけの協力をした。毎日、母は、欠かさず指導された運動をこなした。最初はゆっくりとした緩やかな運動であったが、どれも、効果的に、筋力を高めるように考えられているものだった。私は母の生活の管理をした。朝、起きてから眠る時間まで、母を必要以上に休ませなかった。洗濯、炊事、掃除なのど家事もできるだけ協力してもらい、自分でできることはどんなに時間がかかっても一人でさせた。疲れたと言ってベッドに横になると、時間をチェックし、15分後には母の名を呼んだ。まるで、鬼軍曹だった。それだけに飽き足らず、大人の塗り絵、クロスワードパズル、漢字の練習帳などもさせ、5分でいいからと本も読ませた。映画も一本の作品を何度にも分けて一緒に見た。その上、天気さえ良ければ、日に2度散歩に連れ出した。長くなくていいから、玄関まででも外に行こうと手を引いた。

 母は健気に努力してくれた。洗濯バサミをつまむことさえ出来なかった母が、やがて、洗濯バサミでハンガーに吊るした服をヴェランダまで持ってくるようになった。テーブルに座ってまな板を前にし、ゆっくり包丁を使っていた母が、短い間でも流しに立って包丁を使うようになった。水を入れた片手鍋を持てなくて嘆いた母が、500mlのペットボトルに水をいれお花に水をやるようになった。回せなかったドアのノブが回せるようになり、ポストから引き出せなかった新聞が引き出せるようになった。少しずつ、本当に少しずつ、母の力が回復していった。

 体操をする時も、日常の動作をする時も、その時していることに全神経を集中して行うように心がけた。お座なりに等閑(なおざり)にするのではなく、一つ一つのことに心を込め、丁寧にするよう努めた。立ち上がることも、座ることも、歩く一足一足も、上げる腕の一動作も、私は母と一緒になって真剣に取り組んだ。日常何気なくしているそうした一挙手一投足がどんなにたくさんの筋肉とそれを動かすための脳を働かせているのか意識することは、新たな驚きだった。湯呑み一つを持ち上げる動作、箸を持つ動き、歯を磨くためにする一つ一つの動き、どれもがはかりしれないほどの能の機能とそれによって指令される筋肉の動きとの相互作用によってなされている。全てを「意識」することの大切さを、私は母と共に改めて学んだ。リハビリテーションの語源はラテン語で「本来あるべき状態への回復」である。私と母のリハビリテーションの過程は、「本来あるべき状態」への新たな認識の過程だった。

 ある日、近くのスーパーまで母と買い物に出た。外を歩く時は、母は片手に杖を持ち、空いたほうの腕を私に支えられ歩いていた。まだまだ、一人歩きでは転倒の恐れがあり、介助は不可欠だった。店内でふと、母が「あ、そうだ!」と立ち止まった。そして「あのね、ほら、この間言ったお煎餅……」と私の腕を引いた。母の体が人一人分ほど私から前方に離れた。初めて母が自らの歩みを踏んだ一瞬だった。
 母の背中が滲んで見えた。



「母の闘病記  入院・手術・退院」
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183803.html





杏林大学病院
病院長 東原英二様

2007年7月21日


 私(〇〇孝子)は、2007年6月11日、消化器外科に入院し、6月21日、跡見医師執刀のもと、膵頭部腫瘍の手術を受けました。

 まず、何よりも初めに、主治医の皆様、看護に当たって下さっている全ての方々のたゆまぬご助力により、順調に快復に向かっておりますことを心より御礼申し上げます。

 入院当初から、手術、その後の、ICUでの数日、一般病棟での日々を通じ現在に至るまで、温かな心遣いのある看護を受けて参りました。患者の身にとりましては、的確な医学的処置は言うまでございませんが、精神的なサポートも大きな支えとなります。執刀医の跡見医師を始め、四人の主治医の方々、そして、看護婦、看護士の方々の、暖かな励ましや優しい心配りが、どれほど心の安定を保つ支えになりましたことか、とても言葉にはできません。
 ここに改めて御礼申し上げます。

 一般病棟に移りましてからも、担当看護婦の方々には手厚く看護をして頂いておおります。
杏林大学病院の「患者様の立場に立って、温かい心のかよう医療を提供する」という理念そのままの医療が実践されておりますことを、畏敬の念を持って日々感じております。

 ただ、その中において、二つだけ、心痛むことがございました。
どのような言葉で申しましても、「文句」或いは「苦情」に聞こえてしまうことは、致し方ないことであるかもしれませんが、起こったことを責めるのではなく、今後、このようなことがないようにという意味においてご報告させて頂きたく存じます。

 ICUから一般病棟に移りましたのは、6月25日、午後のことでした。手術前におりました消化器外科の4階ではなく、リハビリ病棟の3-1BHCU、3101号室に移されました。そちらの方が、看護の目が届くのでという理由からでした。そこで、一晩過ごしたのですが、その晩の三人の看護婦の方々の態度に大変がっかりさせられました。

 ICUから移ったばかりで、まだ、熱もあり、患部の痛みも強い時でした。身体を冷やすために氷枕等を使用させて頂いたのですが、横腹に置いたそれは、かなり冷たく、体が冷え切ってしまいました。看護婦の方をお呼びし、冷たいのでタオルを巻いて頂けないだろうかとお願い致しますと、碌に返事もなさらず、とても、面倒くさそうに、傍にありました濡れたタオルを放ってよこしました。

 自分で体が自由にできるときではありません。放られたタオルを取ることすら難儀な時です。大変、哀しく、途方に暮れ涙いたしました。

 もう一つは、4階の消化器外科に移ってからのことです。看護に当たって下さったほぼ全員の方が、大変優しく、親身に世話をして下さってきております。
ただ、たった一人、お願いしても、返事もなく、碌に顔も見ず、用便を終えた処置を頼んでも快くして下さらない方がいらっしゃいました。終いには、その方がまた来るのかと思うと、ナースコールを押すのが怖くなり、トイレや痛みも我慢したいように感じました。
 看護婦の方にお願いしなければならないのは、自分でできるのであれば、人の手など患わせたくないような用ばかりです。申し訳なく感じるとともに、自分自身としては、なんとも情けなく感じております。
特にそうした時に、申し上げましたような態度で接せられることは大変辛いものです。
人間ですから、完璧に全てをこなせるわけではないことは、重々、承知しております。でも、プロである以上、そこに誠意のある対応があってしかるべきではないかと思います。

 今日に至るまで、それ以外のことに、何の不満もなく過ごしてきておりますので、以上、申し上げましたことが、なおさら、残念に感じられます。
なにとぞ、建設的意見として、お聞き願えればと存じます。



                                                         
〇〇孝子



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 母が検査入院ということで大学病院に入院したのは、2007年の6月11日のことだった。30代で胆嚢炎の手術を受けて以来、癒着があり、月に一度、10日は寝込むという生活を長年送っていた。もちろん、ここに至るまで様々な医者にはかかってはみていたが、癒着による痛み以上の診断は下されないまま、74歳を迎えていた。

 2007年に入り、いつもの痛みに変化が生じた。母はかかりつけの医師に検査を要求した。初めは、どんなに言っても「癒着だから」と取り合ってもくれなかったが、再三の要求の結果、MRIの検査をある病院で受けさせてもらうことになった。

 ここで、母がもし、医師の言うことを鵜呑みにして、「ああそうですか。やっぱり癒着ですか」と折れていたら、今、母はここにいなかったかもしれない。検査の必要性を認めないと頑固に言い張る医師に自分の“何か変だ”という感覚を信じて訴えたからこその結果だった。

 結局、その検査結果が思わしくなかったため、大学病院に回されることになった。大学病院での検査が始まったのは、2007年の春頃。そこで初めて、膵臓疾患の可能性を示唆された。それから、各種の検査が行われたが、本格的な検査のためにということで、検査入院を要請されたのが6月11日、母の75歳の誕生日の翌日だった。その前の時点で私は日本に行くこと考え、提案もしたが、検査なのでまだ来なくていいと言う両親の言葉に、躊躇しつつも従っていた。

 が、入院したあくる日、12日には病院側から手術の可能性を示唆された。私はそのことを知るなり取る物もとりあえず飛行機に乗った。日本に着いたのが14日の朝、そのまま病院に向かった。母に病状、手術のことを聞いてもはっきりした答えが返ってこない。私は早速担当医からの説明を求めた。担当医は4人おり、その1人が夕刻、病室で待つ私に会いに来てくれた。

 手術の可能性を示唆されたようですがと話し出すと、手術は来週の木曜日21日に決まったということを告げられた。驚嘆してしまった。検査入院ということで病院に入り、手術の可能性を示唆されたところまでは聞いていたが、手術日が決定しているとまでは思っていなかった。患者側への打診というものはないのだろうかと納得できず、担当医に詳しい説明を求めた。私が知りたかったのは、膵臓の腫瘍と言われたがそれは癌なのかどうかということ。手術は絶対にしなければならないのか、他の治療方法はないのかということ。もし、手術をするのであれば、75歳になる母にそれに耐え得るだけの体力があるのかどうかということ。仮に手術をしなかったらどうなるのかということ。手術の成功率はどのぐらいなのかということ。手術をした後、回復する可能性はどのぐらいあるのかということ。などなどだった。医師は忙しく、中々まとまった時間が取れなかった。私は4人の医師の誰でもいいからと捕まえるたびに、以上の質問の投げかけたが、医師たちからは、明確な答えが簡単には得られなかった。「癌なのか」という問いには、「他の場所に移動しましょう」と母の前での対話を避けた。私は母にも癌であるならそうであると知らせて欲しいと頼んだがスムーズには受け入れてもらえず、話は中々進行しなかった。14日から、毎日、私は医師との面会を求め、様々な質問をぶつけた。19日には執刀医からの手術の説明が行われた。その時にはこちらからの質問というのはほとんどできず、説明を拝聴しただけだった。私は自分が納得するまで、手術に同意をしなかった。全ての質問にある程度の答えを得られたのは手術の前日の夜。あくまでもくってかかる私に恐らくあきれ果てただろう担当医は言った。
「開腹のメスを入れる直前まで手術を止めることは出来ますから」と。私は手術の同意書にサインした。

 6月21日、手術の朝。私は母を手術室に送り出した。生きて帰ってくる可能性を医師は明確にしなかった。手術をしても助かる可能性も明確にしなかった。しなかったのではなく、できなかったのだろうと思う。要するに開けてみるしかなかった。ただ一つわかっていたのは、手術をしなければ一年と持たないということだけだった。私は覚悟を決め、母を抱きしめ手術室に送った。そして、9時間以上に及ぶ手術の時間をまんじりともせず待機室で過ごした。6時間を過ぎた頃待機室の電話が鳴った。連絡があった場合には、緊急の決断か何らかの説明などがあるときと告げられていた。私は卒倒しそうになりながら電話を受け、手術室に隣接する部屋に駆けつけた。自分の足がガクガクと震えているのを感じながら、どうすることもできなかった。

 執刀医が現われ、患部を除去できたことを知らされた。母の癌はまるで杏仁豆腐のような色と形をしていた。私は思わず、「助かるのですか」と聞いていた。執刀医は、手術では取るべきと思われるところは取り、患部に化学療法もしました。後は、患者の回復如何ですと、淡々と語った。

 母がICUに移されたという連絡をもらったのは、夜8時近かった。朝9時に母を送り出し、11時間が経とうとしていた。ICUのベッドに横たわる母を見たときに、私は神に感謝した。そして、これからが母と私の闘いだと覚悟を決めた。生きて手術室を出てきてくれた以上、絶対に死なすものかと思った。

 5日をICUで過ごした後、本来の病室である消化器外科病棟に戻る前に、リハビリ病棟へ移された。今思えば、単に病室がなかったがための処置だったようだが、その時にはそれらしい理由を告げられた。が、そこで母は夜間勤務の看護士に邪険な扱いを受けた。術後の高熱に苦しむ母の体にはあちこちに氷嚢が置かれていた。脇の下に置かれた氷嚢があまりにも冷たいため、母は看護師にタオルに包んでくれるよう願い出た。自分でできることであるのなら人に頼みたいことではなかったが、まだ、身動きすらできる状態ではなかった母には選択の余地はなかった。看護師はその母に濡れたタオルを投げてよこした。翌朝、母の元にやって来た私に母は泣きながらそのことを訴えた。私はとにかく、一刻も早く元の病室に移してくれるよう交渉に当たった。その日の夕刻には手術前の病室に戻ることができた。

 次の日、病室を訪れると母の様子が普通ではなかった。反応というものがほとんどなくなっており、私のこともわかっているのかどうかさえ危うかった。術後、高齢者の場合は、せんもう状態に陥る可能性があるとは聞かされていたので、まず、その可能性を疑った。そういう状態であるならそうで、それなりの対処をしなくてはならない。が、様子を聞くために医師を呼んでも中々来てくれず、ようやく現われた時には、母は薬で寝ていたりした。私は母が、せんもう状態なのではないかと聞いたが、一目見て判断できるようなものではなく、様子を見ましょうということで片付けられた。私は、この状態がどのくらい続いた場合危険なのかだけを確認するのが精一杯だった。母のせんもう状態は2日ほどで回復したが、その間の不安というのは計り知れなかった。医師の診断がはっきりしていないため、どう考え、どのように心構えをしたらいいのかわからぬことが何よりも不安にさせた。

 それから二度の入退院を繰り返し9月の末に退院するまで、私は、毎日、時には一日に二度病院に通った。その間、どのぐらい様々な要求を病院側に或いは医師に、看護師にしなければならなかったかわからない。ここに全てを書くことはできないが、黙っていたらどうにもならないことが山のようにあった。

 私は医師や看護師個人を責めているのではない。ほとんどの医師が、看護師が、与えられた状況の中で精一杯に治療に、看護に当たってくれていた。そのことは感謝してもあまりあるほど感謝している。ただ、医療の体制に対する疑問が様々残った。

 一つには医師からの患者側への情報が十分ではないこということ。極端な言い方をすれば、患者は医師に従っているだけのように感じるということ。医師は患者という病人を見ているのではなく、患者の病気のみを診ていると感じるということ。それゆえ、心のケアが置き去りにされがちだということ。患部の治療のみに専心しているため総合的な患者の容態に関する視点が欠如しがちだということ。この問題の打開のためには絶対的な医師間での科を越えた横の繋がりが必要だということ。

 もちろん、それらのことがどれほど大変なことであり、今の医療体制の中で達成することが容易でないことも重々承知しているつもりではある。だから、現段階では、以上のような部分は患者側が補足していかざる得なかった。そのためには、要求し訴えるしかなかった。

 私は、看護師の改善を求める書状を病院長宛てに一度提出した。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183807.html
それは、先にリハビリ病棟で母が経験した看護師からの扱いも含めていた。医師の態度に関しては事務局にその都度陳情に出向いた。ある医師は、入院治療をしている対象以外(母の場合は膵臓癌以外の疾患)の不調に関しての治療をしぶった。それ以外、諸所の要求はその度に声を大にして医師に、看護師に訴えてきた。恐らく、私の名前は病院のブラックリストに載っているに違いないと思う。でも、そんなことはどうでもよかった。母の命がかかっていた。

 退院時に、お伺いしたいことがあるので時間を設けて欲しいと医師に願い出たら、医師は苦りきった顔で、「今度はなんでしょうか?」と聞いてきた。よっぽど、辟易したのだろうと思う。
 退院後の生活についての注意事項を求めたときには、「普通に生活してください」という呆れた答えが返ってきた。私は、これ以上、病院に求めても仕方がないと思い、そのことに関しては何も言わずに母を家に連れて帰った。


『母の闘病記  リハビリ』
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67183813.html


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母の病室に飾ったお花、2007年7月3日
もっともっと飾ったのに、写真を撮る気持ちのゆとりなんてなかった・・












母が今日、2011年6月10日、79歳の誕生日を迎えました。

何よりも「ありがとう」と言いたくて電話をしました。

「お母さん、こんなに長く生きてくれて本当にありがとう。本当に本当にありがとう」

心を込めて母に告げました。

戦争が始まってからの母の人生は決して楽なものではなく、とてもとても苦労を重ねてきました。

病に伏せていることの多かった母。
そんな母を守りたくて守りたくて何度も男になりたいと思いました。

4年前に膵臓癌の手術を受けたとき、手術室に消える母の姿を見ながら、生きて戻ってきてくれたら全身全霊でお母さんの命を守るからねと約束しました。

生きて戻ってくれたとしても、どれほどの時が残されているのかすらわからないと言われていました。

その時のことを思えば、何度、母に感謝の言葉を伝えたとしてもとても足りません。

生きている限り、母への感謝の気持ちは絶えることはないでしょう。

お母さん、ありがとう。本当にありがとう。










この週末、さまざまなことが重なってひどく疲れた。

月曜日は、6時ごろにベッドに行ってしまった。

眠りに落ちる間際の状態で思ったのは母のことだった。
とても疲れると、母の腕の中に戻ってしまいたくなる。
しっかりとくるまれて目を閉じて母の身体のぬくもりを感じる。
幼い頃のあの安らぎの感覚を身体が覚えている。

仮に、世界が壊れようとも、母の腕の中なら怖くない。

それでもいい。

そう思った。

夢の戸口に入る寸前でその気持ち感じながら、よい母を持てたということはこの上のない幸せなのだと改めて思った。

母がいて、父がいて、家があり、食べることができた。

その基本すら壊れてしまっている世界の人々を思う。











何ができるだろう?と考える。
物理的な距離は気が遠くなるほど大きく、自らの力はあまりにも卑小だ。
それでも「何か」できることがあるはずだ。

毎日声を聞く。どうしてもできなければメールを打つ。
わずかな接触でもそれが重なれば大きな繋がりになっていくと信じる。

21日が来ると手術をして3年になる。
あの朝を覚えている。75歳になる母を手術室に送った瞬間を。
そして、生きて帰ってくれた瞬間も。

あの時、3年もの命があると思えなかった。
ただただ、日々生きていてくれることに感謝の念を感じる。

今のところ奇跡的に体は順調だ。
ようやく頭を巡らせるゆとりもできてきた。

毎日新聞を読んでいるのは知っていた。
天声人声を声を出して読んでいることも。

私が電話を入れるのは時差の関係でいつも夕方になる。
母に言ってみた。
「毎日読んでいる天声人語の内容を、電話をかけるたびに話してくれない?伝えなければならないと思えば、読む時の意識も違うでしょう?」

母は私の要請に応えてくれた。
今はメモを取って読んでいるという。

「意識が違うとね、読み方まで変わってくるの。ゆみに感謝するわ」

よかった。感謝するのは私の方。生きてくれて、今日も、頭を、体を働かせてくれてありがとう。






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