思いがめぐる

カテゴリ: 美をめぐる

Mom Daughter Photo copy





年老いた私が、ある日、今までの私と違っていたとしても
どうかそのままの私のことを理解して欲しい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴ひもを結び忘れても
あなたに色んなことを教えたように見守って欲しい
あなたと話す時 同じ話を何度も何度も繰り返しても
その結末をどうかさえぎらずにうなづいて欲しい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本のあたたかな結末は
いつも同じでも私の心を平和にしてくれた
悲しい事ではないんだ 消え去ってゆくように
見える私の心へと 励ましのまなざしを向けて欲しい
楽しいひと時に 私が思わず下着を濡らしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには思い出して欲しい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり 様々な理由をつけて
いやがるあなたとお風呂に入った 懐かしい日のことを
悲しい事ではないんだ 旅立ちの前の
準備をしている私に 祝福の祈りを捧げて欲しい
いずれ歯も弱り、飲み込む事さえ出来なくなるかも知れない
足も衰えて立ち上がる事すら出来なくなったなら
あなたが か弱い足で立ち上がろうと私に助けを求めたように
よろめく私に どうかあなたの手を握らせて欲しい
私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないで欲しい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのはつらい事だけど
私を理解して 支えてくれる心だけを持っていて欲しい
きっとそれだけでそれだけで私には勇気がわいてくるのです
あなたの人生の始まりに私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに少しだけ付き添って欲しい
あなたが生まれてくれたことで私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛を持って笑顔で答えたい
私の子供たちへ
愛する子供たちへ




この歌を初めて聴いたとき、

「あ、あの詩だ・・」と思い出した詩があった。

随分以前に読んだもので、確か、動画も一緒だった。
とてもとても感動したのだけれど、なぜか残して置くことをせず、わからなくなってしまっていた。

ただ、母を介護する中で、何度となく思い出していた。

なので、この歌を聴いた時はとても嬉しかった。
樋口了一さんの歌としてWikiに載っていた。

『手紙〜親愛なる子供たちへ〜』 樋口了一の15thシングル。



以下のように説明されていた。

「元の歌詞はポルトガル語で書かれており、作者不詳(読み人知らず)。
樋口了一の友人、角智織の元に偶然届いたチェーンメールに詩が記載されていて、
この詩に感銘を受けた角が詩を翻訳、樋口に見せたところ樋口も感銘を受けたため、
曲の制作・発売に至った」


私が最初に見た記事と動画は英語で書かれていた。
どうしても、それを見つけたくなって、検索してみた。

そして、見つけた。




嬉しかった。

この動画での注釈によると、 詩は、Guillermo Peña というスペイン人の方。
そして、英語に訳されたのは、Sergio Cadenaさん、Spring in the Air という会社の創設者。

2012年、母の日に、この会社のFBのページに投稿され、
僅か2日で、世界中の2,200万人の人々に届いたという。


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樋口さんの歌が、ポルトガルの作者不詳の詩が元になっているのか、
或いは、私が見つけた、この動画と関わりがあるのか、 私にはわからない。

ただ、それは私にはどちらでもいいこと。

私にとっては、どちらも素敵な歌であり、素敵な詩。







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日本の漁夫

ヒクメット/大島博光訳


大洋のうえで 雲に殺された
日本の漁夫は 若ものだった
かれの仲間がわたしに歌ってくれた
ある日ぐれ太平洋で出会った物語を

獲ったこの魚をたべるものは死に
わしらの手にさわるものは滅びる
見よ わしらの船は長く黒いひつぎ
この船に乗るものは命をうしなう

獲ったこの魚をたべるものは死ぬ
すぐにではなく徐々に蝕まれて
肉はくさり くずれおちる
獲ったこの魚をたべるものは死ぬ

わしらの手にさわるものは滅びる
太陽と砂にまみれた わしらの塩辛い手
仕事に疲れを知らぬ わしらのまめやかな手
わしらの手にさわるものは滅びる
すぐにではなく徐々に蝕まれて
肉はくさり くずれおちる
わしらの手にさわるものは滅びる

切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
見よ わしらの船を 黒い冷えきったひつぎを
この船に乗るものは命をうしなう
わしらのまうえに 雲がすべりおちたのだ

切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
妻よ わしを抱いてはならぬ
死がわたしからおまえへ乗り移るから
切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
見よ わしらの船を 黒いつめたい柩を

切れながの眼をした妻よ わしを忘れねばならぬ
おまえがわしから生む子どもは
くさった卵よりも早く潰えよう
黒い柩のようなわしらの船はわしらを運び
この海は死の海だ
ひとびとよひとびとよ わしらはあなたらに叫ぶ!



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大島博光氏


Nazım Hikmet ナジム・ヒクメット(ナーズムがトルコ語読みに近いそうです)という詩人の名を知ったのは、「チェルノブイリハート」という映画の冒頭に流れた詩、『生きることについて』を紹介されたのがきっかけだった。

氏に興味を持ち調べる中で、氏が幼い頃口ずさんでいた歌、『死んだ女の子』の原詩を書かれた方であるということを知った。

ヒクメット氏は原水爆への抗議を歌った詩をいくつか書かれており、その中に、第五福竜丸事件の漁師を悼んだ詩、『日本の漁夫』があるとのこと。訳詩を探していた。
今回、たまたまFBにアップしてくださった方がいらっしゃり目にすることができた。

訳詩者である大島博光氏にも興味を持ち、多少調べてみると、大島氏は私が生まれ育った場所に長く住んでいらっしゃった方であり、共通の知人がいることもわかった。

繋がりに不思議な思いを感じている。



「『生きることについて』 ナジム・ヒクメット」http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66796857.html

「Nazım Hikmet  ナジム・ヒクメット」http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66806088.html

「『死んだ女の子』 ナジム・ヒクメット」http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66800353.html








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The Rose




Some say love, it is a river
愛は河(のようだという人がいる)

That drowns the tender reed
葦の葉など容易く呑み込んでしまう

Some say love, it is a razor
愛は刃物(だという人がいる)

That leaves your soul to bleed
心に血を流させる

Some say love, it is a hunger
愛は飢餓(だという人がいる)

An endless aching need
永久に求め続ける心の疼き

I say love, it is a flower
私には、愛は花

And you, its only seed
そして、種はあたな


It's the heart, afraid of breaking
傷つくことを恐れていたのでは

That never learns to dance
踊れるようにはなれない

It's the dream, afraid of waking
目覚めることを恐れていたのでは

That never takes the chance
夢はつかめない

It's the one who won't be taken
奪われることがないような人は、

Who cannot seem to give
与えることもできない

And the soul, afraid of dying
死を恐れていたのでは

That never learns to live
生きることも学べない


When the night has been too lonely
一人きりの夜は長く

And the road has been too long
道はどこまでも果てしなく

And you think that love is only
愛は恵まれた人のためだけに

for the lucky and the strong
微笑むかのように思えたら

Just remember in the winter
思い出してほしい

Far beneath the bitter snow
冬の冷たい雪の下で

Lies the seed
種(あなた)は眠り

That with the sun's love, in the spring
春、太陽の愛の光を受け

Becomes the rose
薔薇になるのだと



(訳 ygj)






☆何とか歌えるようにできなだろうかと試行錯誤してみました。
歌を歌う方、感想を聞かせて頂けると嬉しいです。



The Rose



たとえば愛は河

若菜押し流す

たとえば愛は剣

心血を流す

たとえば愛は飢餓

永久に胸疼く

私には愛は花

その種はあなた


痛みを恐れたら

ダンスは踊れない

目覚めを恐れたら

夢は見られない

失うことないなら

与うることもない   

死ぬことを恐れたら

命わからない

一人の夜は長く

道は果てしなく

報われることなど

夢に思えても

思い出してほしい

冷たい雪の下で

種は眠り

光受け

薔薇になるのだと



(訳詩 ygj)









FOOTPRINTS

One night I dreamed a dream.
I was walking along the beach with my Lord.
Across the dark sky flashed scenes from my life.
For each scene, I noticed two sets of footprints in the sand,
one belonging to me
and one to my Lord.

When the last scene of my life shot before me
I looked back at the footprints in the sand.
There was only one set of footprints.
I realized that this was at the lowest and saddest times in my life.

This always bothered me and I questioned the Lord about my dilemma.
"Lord, you told me when I decided to follow You,
You would walk and talk with me all the way.
But I'm aware that during the most troublesome times of my life there is only one set of footprints.
I just don't understand why, when I needed You most,
You leave me."

He whispered, "My precious child,
I love you and will never leave you
never, ever, during your trials and testings.
When you saw only one set of footprints
it was then that I carried you."





footprints







あしあと

ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
 あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
 わたしと語り合ってくださると約束されました。
 それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
 ひとりのあしあとしかなかったのです。
 いちばんあなたを必要としたときに、
 あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
 わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
 わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
 ましてや、苦しみや試みの時に。
 あしあとがひとつだったとき、
 わたしはあなたを背負って歩いていた。」










☆ひとつの詩の背景にも様々な物語があるようです。
調べ始めましたらいろいろな記事にあたりました。
出典にも作者にも諸説があり、原文にもまたいくつかのバージョンがありました。
ここに載せたものが「正しい」ものかどうか私には確証できません。
それでも、一編のすてきな詩との出会い、
その入り口にはなるのではないかと思いここに載せさせて頂くことに致しました。







:::: 朝のリレー ::::



カムチャツカの若者が きりんの夢を見ているとき

メキシコの娘は 朝もやの中でバスを待っている

ニューヨークの少女が ほほえみながら寝がえりをうつとき

ローマの少年は 柱頭を染める朝陽にウィンクする


この地球では
   
いつもどこかで朝がはじまっている


ぼくらは朝をリレーするのだ

経度から経度へと

そうしていわば交替で地球を守る

眠る前のひととき耳をすますと

どこか遠くで目覚まし時計のベルが鳴ってる

それはあなたの送った朝を

誰かがしっかりと受けとめた証拠なのだ


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☆谷川俊太郎さん、大好きな詩人のお一人。
「朝のリレー」という詩は知っていたのですが、こんな素敵なCMになっていたのは知りませんでした。
紹介してくれた大事なお友達に感謝です。
ありがとう。

 

 

 

 

一瞬で心奪われるもの、がある。

それは美しい景色である場合もあるし、魅力的な誰かである場合もあるだろう。
また、絵や写真、音楽や歌、などの芸術作品ということもある。

この演奏も、またそのひとつだった。
最初の音から、心がとらえられた。
ただ、聞き入った。
何故なのか?
どこがよかったのか?
その時には、ただ、動きを止め、全身を耳にしていた。





これは1961年11月13日、カザルスがホワイトハウスで行った演奏である。
曲目は、『鳥の歌』 (El Cant dels Ocells)


この10年後、1971年10月24日、カザルスはニューヨーク国連本部において再び演奏する。
曲目は、同じく『鳥の歌』 (El Cant dels Ocells)

この時、94歳。

演奏前のスピーチで、

「私の生まれ故郷カタロニアの鳥はピース、ピースと鳴くのです」と声を震わせる。







94歳でこの演奏。

ふと肥田舜太郎先生のことが思い出された。
カザルスというこの演奏家に俄然興味が湧いてしまった。


(以下ウィキペディアより)

パブロ・カザルス(スペイン語:Pablo Casals、カタルーニャ語:Pau Casals)
1876年12月29日 - 1973年10月22日
スペインのカタルーニャ地方に生まれた。チェロ演奏家、指揮者、作曲家。
カタルーニャ語によるフルネームはパウ・カルラス・サルバドー・カザルス・イ・デフィリョ(Pau Carles Salvador Casals i Defilló)。

チェロの近代的奏法を確立し、深い精神性を感じさせる演奏において20世紀最大のチェリストとされる。
有名な功績として、それまで単なる練習曲と考えられていたヨハン・ゼバスティアン・バッハ作『無伴奏チェロ組曲』(全6曲)の価値を再発見し、広く紹介したことがあげられる。

早くから世界的名声を築き、ヨーロッパ、南北アメリカ、ロシアなどを演奏旅行して回った。
指揮者フルトヴェングラーはチェロ奏者としてのカザルスへ次のような賛辞を残している。

「パブロ・カザルスの音楽を聴いたことのない人は、弦楽器をどうやって鳴らすかを知らない人である」。

カザルスは平和活動家としても有名で、音楽を通じて世界平和のため積極的に行動した。


カザルスは、スペイン内戦が勃発するとフランスに亡命し、終生フランコ独裁政権への抗議と反ファシズムの立場を貫いた。
各国政府がフランコ政権を容認する姿勢に失望し、1945年11月、公開演奏停止を宣言する。

1950年代後半からはアルベルト・シュバイツァーとともに核実験禁止の運動に参加した。

カザルスがカタルーニャ民謡『鳥の歌』を演奏し始めたのは、第二次世界大戦が終結した1945年といわれる。
この曲には、故郷への思慕と、平和の願いが結びついており、以後カザルスの愛奏曲となった。


信念の人。
という言葉がふさわしいように思う。
自分の信じることに従って行動する人。

そういえば、小出裕章先生もそうだな~と思う。
自分の思いを曲げて、何かにおもねることをしない。

カザルスは公開演奏停止という形で、反ファシズムの立場を貫いた。
こうした経歴を読むと、
その心意気と人となりは生み出す音色にも反映されているに違いない。
それゆえに心惹かれたんだ。
と理屈をつけたくなる。

いずれにしても、どうやら、私は、平和を愛する頑固者が好きらしい。



【追記】2015年5月25日

Twitterで大好きな方から、カザルスの母の素晴らしい言葉を教えてもらった。
以下、調べたもの。



母にとって最高の掟は個人の良心だった。
母やよく言ったものだった。
「私は法律は重んじないのが主義のようです」
また、母は法律には役に立つのもあるが、そうでないものある、だから善い悪いは自分で判断しなければならないとも言っていた。母は特定の法律はある人たちを守るが、他の人には危害を加えることを知っていた。今日のスペインでは法律によって守られるのは少数者で、多数の庶民は法律の被害者である・・・母は常に原則に従って行動し、他人の意見に左右されることはなかった。己が正しいと確信することを行ったのである。

弟のエンリケにスペイン陸軍から召集令状が来たとき、
「エンリケ、お前は誰も殺すことはありません。誰もお前を殺してはならないのです。人は、殺したり、殺されたりするために生まれたのではありません・・・・。行きなさい。この国から離れなさい」
それで弟はスペインを逃げ出して、アルゼンチンに渡った。だが11年間、母は弟と合わなかった。・・・私は思うのだ、世界中の母親たちが息子たちに向かって、「お前は戦争で人を殺したり、人から殺されたりするために生まれたのではないのです。戦争はやめなさい」と言うなら、世界から戦争はなくなる、と。

(『パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』 アルバート・E・カーン著、14ページ)










ゴッホの作品を好きだと思ったことは一度もなかった。(ゴッホファンの方、ごめんなさい

どの作品を見ても、ピリピリと張り詰めた心やうねめくような苦悩が感じられて、穏やかな気持ちになれなかったからだと思う。
だが、一つだけ、一瞬にして心奪われた作品があった。

「花咲くアーモンドの枝」

目にした途端、春の風を感じたような気がした。開かれた窓から気持ちよく流れ込む春風。
本当にゴッホ?と失礼ながら見直してしまったぐらいだ。
その絵から感じられた包み込むかのような心地よさが何であるのか、ただ不思議な思いでしばらく眺めていたのを覚えている。
後に、その絵が描かれた経緯を聞いた。


なるほど。と思わせるようなエピソードがその絵にはあった。
描かれた経緯を知ってしまった後は、見るたびに、その話も思い起こされてしまう。
当然、相乗効果が起き、絵に対する思いに輪をかける。
結果、この絵はより私のお気に入りのひとつになった。

ま、それもいいかな?と思う。
いずれにしても、初めて目にし、「あ・・・」と呼吸を止めた、その思いは本物だ。




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「花咲くアーモンドの枝」は、現在、オランダ、アムステルダムのフィンセント・ファン・ゴッホ美術館にある。
ゴッホは死の半年前、収容されていたサン・レミの精神病院でこの絵を描いた。


アルルでのゴーギャンとの生活に失望し、自分の耳を切り落とすという事件を起こした後、
ゴッホは、アルル近郊のサン・レミの精神病院に収容される。

「 愛する兄上様、まだ調子が良くないと聞いて、とても悲しい。
僕の方は、いよいよヨハンナと幸せな生活を始めます。
だから余計に兄さんが悲惨な生活を送っていると聞いて、心が痛みます。」

弟テオはそんな兄に思いを寄せる。

ゴッホは1600枚あまりの絵を描いているが、生前に売れたのはたったの一枚。
ゴッホの生活と創作活動は、無二の理解者であった弟テオの仕送りによって支えられていた。

ある日、テオの妻ヨハンナ・ファン・ゴッホ=ボンゲルから手紙を受け取る。

「 親愛なる義兄上様、一大ニュースをお伝えします。
来年の冬、たぶん二月頃、子どもが、それも男の子が生まれます。
テオも私も男の子に違いないと思っています。
私たちはその子に、フィンセントという名を付けようと思っています。
きっと、男の子に違いありませんから・・・ 」

そして、翌年、夫妻には男の子が誕生する。

ゴッホはその喜びを手紙に託す。

「 子どもが生まれたと聞き、こんなに嬉しいことはありません。 ワォ!
ただ、息子に僕の名前より父親の名前を付けてくれたら良かったのにと思います。
いずれにしても、僕はただちに寝室に掛ける絵を、その子のために描きはじめました。
青空を背景に、白い花をつけた太い枝のあるアーモンドの絵です 」

以来、ゴッホ家の子ども部屋には何代にも渡って、この絵が掛けられることになる。

この絵を描いた半年後・・・ゴッホは自らにピストルを向け、命を絶つ。

37歳。

弟テオは、その半年後、兄の後を追うように、病気で亡くなる。


家族の誕生を喜び描いた一枚の絵。 

それが「花咲くアーモンドの枝」だった。

この絵は、ゴッホ家の家族の絆を物語るものとして、ファン・ゴッホ美術館の中央に飾られている。




「チェルノブイリ・ハート」という映画の冒頭で一編の詩が流れると教えてもらった。
ナジム・ヒクメットの「生きることについて」という詩だ。(ナーズムがトルコ語読みに近いそうです)
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66796857.html
作者の名を聞いても全く覚えがなかったので検索してみた。


作者は世界的に有名なトルコの詩人だった。
1951年度国際平和文化賞を受賞し、その詩集「牢獄のラッパ手」は日本でも翻訳され出版されたという。
プロフィールを読み進めると氏の作品の中に「死んだ女の子」という詩があった。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66800353.html
頭の中で昔昔覚えた歌が流れだした。



作詞:ナーズム・ヒクメット、作曲:木下航二
日本語詞:飯塚 広

1 とびらをたたくのはあたし
  あなたの胸にひびくでしょう
  小さな声が聞こえるでしょう
  あたしの姿は見えないの

2 十年前の夏の朝
  あたしはヒロシマで死んだ
  そのまま六つの女の子
  いつまでたっても六つなの

3 あたしの髪に火がついて
  目と手がやけてしまったの
  あたしは冷い灰になり
  風で遠くへとびちった
       (間奏)

4 あたしは何にもいらないの
  誰にも抱いてもらえないの
  紙切れのように燃えた子は
  おいしいお菓子も食べられない

5 とびらをたたくのはあたし
  みんなが笑って暮らせるよう
  おいしいお菓子を食べられるよう
  署名をどうぞして下さい



幼い頃、原爆で死んだ少女の歌と教わり口ずさんでいた歌だった。
改めて調べてみると、この歌は昭和32年(1957)、ナジム・ヒクメットの「小さな娘」という詩を元に、当時、日比谷高校の社会科教師であった木下航二によって作られた歌とあった。原水禁運動の集会や歌声喫茶で盛んに歌われた歌だそうだ。

木下氏は「原爆を許すまじ」の著者でもある。

原爆の歌として口ずさんでいた歌。その歌の原作者と長い時を隔て再びめぐり合うことになった。
ヒクメット氏に対する興味が募った。


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Nazim Hikmet(1902~1963年)

近代トルコ語文学を代表する詩人。世界においても20世紀の偉大なる詩人の1人として知られ、作品は50ヶ国語以上に翻訳出版されている。 詩人、劇作家、小説家、共産主義者。

ヒクメットはオスマントルコ時代の1902年、サロニカ(現ギリシア領テッサロニキ)で生まれ、11歳ごろから詩を書き始めたという。

第一次大戦後、ロシア革命後のソ連に渡り、詩人マヤコフスキーの影響を強く受けて、力強い自由律詩を書き始める。

1924年、新生トルコ共和国に帰国。執筆活動を中心とした社会改革運動を展開するが、左翼系新聞「アイドゥンルック」に掲載された記事と詩のため15年の刑を受ける。これより長い期間に渡り、釈放、投獄が繰り返されることになる。獄中生活は通算17年に及んだ。

地獄のような獄中生活の中でもヒクメットは人間味あふれる詩や小説、手紙を書き続ける。1949年、ピカソ、サルトル等が参加する国際委員会がヒクメット釈放運動を始め、1950年に釈放される。世界平和賞が授与されるが、その後も政府の弾圧は執拗に続けられる。2度暗殺されかかった後、モスクワへ決死の逃亡。政府によりトルコ国籍を剥奪され、ポーランド国籍を取得する。
 
ヒクメットはモスクワで、詩、エッセイ、小説、戯曲、映画、シナリオ、バレエ台本などを精力的に執筆するかたわら、反戦・平和を求める国際連帯運動の先頭に立ち戦い続ける。

1963年6月、亡命先のモスクワで、故国に残してきた妻子を思いつつ客死。享年61歳。

1991年、ヒクメットの業績を記念するため、トルコの文化人や芸術家たちが中心となり、「ナーズム・ヒクメット文化芸術財団」が設立される。

2002年、ユネスコがナーズム・ヒクメット年と定める。

2009年、国会の決議により、トルコ国籍が返還される。

ヒクメットは「生きることについて」「死んだ女の子」のほか、第五福竜丸事件の漁師を悼んだ*『日本の漁夫』や『雲が人間を殺さないように』など、原水爆への抗議を歌った詩をいくつか作っている。また、日本だけでなく世界中で、メッセージソングとしてのフォークや、プロテストソングとしてのロックに作曲され、多くの人に歌われている。



ナジム・ヒクメットという素晴らしい20世紀の知性が今また再び命の重みを私に教えてくれている。




 
*『日本の漁夫』 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/67710483.html






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ナジム・ヒクメット氏の詩『KIZ ÇOCUĞU(クズ・チョズーウ)』(小さな娘)が坂本龍一と元ちとせのコラボにより、再び歌として蘇り、2005年8月5日、第60回「広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式」の前夜、原爆ドーム前で披露されました。









『死んだ女の子』

あけてちょうだい たたくのはあたし
あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
こわがらないで 見えないあたしを
だれにも見えない死んだ女の子を

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 夏の朝に
あのときも七つ いまでも七つ
死んだ子はけっして大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしのひとみを
あたしのからだはひとつかみの灰
冷たい風にさらわれていった灰

あなたにお願い だけどあたしは
パンもお米もなにもいらないの
あまいあめ玉もしゃぶれないの
紙きれみたいにもえたあたしは

戸をたたくのはあたしあたし
平和な世界に どうかしてちょうだい
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉がしゃぶれるように
炎が子どもを焼かないように
あまいあめ玉がしゃぶれるように




(逐語訳)

1. 扉をたたくのは私です  扉を一軒一軒
みなさんの眼に私は見えません 死んだ者は眼に見えません

2. 広島で亡くなり10年ほどになります 私は7歳だった女の子です
死んだ子供たちは 成長しません

3. まず私の髪に火がつき 私の眼は燃えて焼かれてダメになりました
 ひと握りの灰になってしまい 私の灰は空中へ舞い上げられました

4. 私がみなさんから自分のために 欲しいものは何もありません
お菓子さえ食べられません 紙みたいに燃えた子どもは

5. みなさんの扉を私はたたいています おばさん おじさん 署名をしてください
子どもたちを殺させないように お菓子も食べられるようにしてください







☆作者であるナジム・ヒクメットについては以下をご覧ください。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66806088.html








《映画「チェルノブイリ・ハート」の冒頭で流れた詩だそうです》




「生きることについて」  
    
ナジム・ヒクメット


生きることは笑いごとではない
あなたは大真面目に生きなくてはならない
たとえば
生きること以外に何も求めないリスのように
生きることを自分の職業にしなくてはいけない

生きることは笑いごとではない
あなたはそれを大真面目にとらえなくてはならない

大真面目とは
生きることがいちばんリアルで美しいと分かっているくせに
他人のために死ねるくらいの
顔を見たことのない人のためにさえ死ねるくらいの
深い真面目さのことだ

真面目に生きるということはこういうことだ

たとえば人は七十歳になってもオリーブの苗を植える
しかもそれは子供たちのためでもない

つまりは死を恐れようが信じまいが
生きることの方が重大だからだ

この地球はやがて冷たくなる
星のひとつでしかも最も小さい星 地球
青いビロードの上に光輝く一粒の塵
それがつまり
われらの偉大なる星 地球だ

この地球はいつの日か冷たくなる
氷塊のようにではなく
ましてや死んだ雲のようにでもなく
クルミの殻のようにコロコロと転がるだろう
漆黒の宇宙空間へ

そのことをいま 嘆かなくてはならない
その悲しみをいま 感じなくてはいけない
あなたが「自分は生きた」と言うつもりなら
このくらい世界は愛されなくてはいけない



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☆作者ナジム・ヒクメットについて
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66806088.html








お手玉


「イチレツランパン ハレツシテ・・・・」

歌詞を読んだ時に、母がお手玉を投げながら
「昔はこういう唄を歌いながらお手玉をしたよの」
と教えてくれたことがその歌声と共に思い出された。

母に電話をして聞いてみると、
「意味は全くわからなかったのだけれど、とにかく調子がいいからね、その唄を歌ってお手玉をしたの」
ということだった。

だが、母も歌詞がうろ覚えで、どうやら他の歌ともごっちゃになっているらしい。
そもそもどういう歌なのだろうと思い検索をしていていくつかのことを知った。

まず、「数え歌」という歌がある。

これは、歌詞の各行の頭に数字を読み込んでいき、1から順に数え上げて歌うものだ。
民謡として古くから伝えられているものも多く、言葉遊び的な要素もある。
例えば一を「ひとつ」と読むのを「人」にひっかけ、歌詞を紡いでいくような感じである。

日本では、古くは降神の儀式の際の呪言として用いられたらしい。
「古今和歌集」仮名序には「かぞへうた」として記載されているとあった。

近世に入り、和歌、神事祭文、浄瑠璃、庶民歌謡まで幅広い分野で行われた。
童歌としては手毬、お手玉、羽根突きと組み合わされて発達した。

有名な数え歌としては、

・一番はじめは一の宮
・一かけ二かけ
・一列談判(イチレツランパン)
・よさほい節
・大漁節

等があるらしい。

それらの数え歌の中で、手毬をつきながら歌った童歌が「手毬歌」と呼ばれた。
代表的な手毬歌としては、

・あんたがたどこさ
・一番はじめは一の宮
・京の手まり歌
・一列談判
・乃木大将

等がある。

私の年代であれば、少なくとも「あんたがたどこさ」は馴染みがあるのではないだろうか?

母が口にしていた、「一列談判」は1950年代ごろまで歌われていた東京の手まり歌と書かれていた。

「一列談判破裂して、日露戦争始まった
さっさと逃げるはロシヤの兵、死んでも尽くすは日本の兵
五万の兵を引き連れて、六人残して皆殺し
七月十日の戦いに、はるぴんまでも攻め破り
クロパトキンの首をとり、東郷元帥万々歳」

という歌詞が上げられていたが地域によって歌詞は多少異なってくるらしい。
母の歌詞は「イチレツランパン」から始まり、その後、「一番はじめは一の宮」の方へ移行していた。

歌詞を読めば明らかだが、これは日露戦争のことを歌った歌だ。

母はこれが戦争の歌などとは全く知らずに歌っていたと言っていた。





山寺の和尚さん0505


「閑さや岩にしみ入蝉の声」という句から、山形の立石寺を思い起こした。

山形と言えば父の故郷だが立石寺は行ったことがない。写真を見ると荘厳な雰囲気の山の中のお寺という感じがする。あ、よく読めば、山寺と呼ばれていると書かれているではないか。

山寺か。とつぶやいて、次に思い浮かんだのは、童謡「山寺の和尚さん」だった。
大体、小さな頃に覚えた歌というのは意味もわからず、或いは、意味など考えもせず歌っていたものが多い。

「おどまぼんぎりぼんぎり~」で始まる五木の子守唄などは、聞いたときに外国語のように聞こえたので、それが面白くて歌っていた。昔の歌謡曲などもただ無闇に丸覚えにしていたものが多く、改めて口ずさんでみて、「え、そんな歌だったの?」と思うものが多々ある。
「山寺の和尚さん」も同じで、調子の良いリズムにただ口を合わせて歌っていた。

山寺(やまでら)の和尚(おしょう)さんが
毬(まり)はけりたし 毬はなし
猫をかん袋に 押し込んで
ポンとけりゃ ニャンとなく
ニャンがニャンとなく ヨイヨイ

山寺の狸(たぬき)さん
太鼓(たいこ)打ちたし 太鼓なし
そこでお腹(なか)を チョイと出して
ポンと打ちゃ ポンと鳴る
ポンがポンと鳴る ヨイヨイ

というのが歌詞だが、二番はともかく、一番って結構、あの、そのなんなんじゃないでしょうか?猫を紙袋に入れて蹴っちゃうの?オイオイ、和尚さん、それってちょっとかわいそうじゃない?アメリカだったら動物に対する虐待だとか何とか言って、動物愛護協会とかから訴訟を起こされそう。

大体、童謡とか童話は作られた謂れを調べてみたりすると結構シビアな話だったりもする。
野口雨情の「しゃぼん玉」も「赤い靴」も悲しい背景の歌だし、「とおりゃんせ」「はないちもんめ」「かごめかごめ」も厳しい現実を歌った歌だと言う説もある。
イギリスのマザーグースなどの歌もあれれ?と思わせるものが多い。

息子が幼い頃、地域の教会などで開催されているプレーグループなどによく連れて行っていた。小さい子供達を集めて歌を歌ったりお遊戯をしたりのお遊びをさせてくれるところだが、小さな子供を持つママ達にとっては他のママとの交流の場であり息抜きの場でもあった。息子を週に三つぐらいのプレーグループに連れて行っていたのだが、そのお陰でナーサリーライムはいやというほど聞かされいくつも覚えた。もちろんお遊戯とともに。

その中の一つ、リングリングロージズで始まる歌はペストに罹って死ぬ様子を歌っているとも言われていたものだった。その歌が歌われるたびに、「ほんとなの?」と思いながら一緒に声を合わせていた。愛らしい声で元気に歌う子供達とは似ても似つかぬ内容が逆に不気味に感じられた。

おっと話が飛んでしまった。
山寺の和尚さんの話だった。何で和尚さんは猫を蹴るのかしら?とちょっと気になって調べてみたが、江戸時代からあるわらべ歌ということ以外何もわからない。
以前にも「ずいずいずっころばし」を調べてみたが諸説あり決定打は結局見つからず終いだったので、確定は難しいのかもしれない。日本にいれば図書館なりに足を運ぶこともできるのだがそれも叶わぬので諦めた。
ただ、この「山寺の和尚さん」、なんと戦前の昭和12年(1937年)、服部良一さんにより編曲され、保田宵二さんにより作詞、「リズムボーイズ」によってレコード化され大ヒットしたのだという。この歌をきっかけに、作曲家服部良一氏の名は知れわたり、この歌は和製ジャズ1号といわれたとか。
その歌詞は以下のよう。

山寺の和尚さん
久保田宵二
 
山寺の 和尚さんは
毬は蹴りたし 毬はなし
猫をカン袋に 押し込んで
ポンと蹴りゃ ニャンと鳴く
ニャンが ニャンと鳴く
ヨーイヨイ

入り婿の 旦那さん
酒は飲みたし 酒はなし
渋茶徳利に 詰めこんで
グッと飲んで ペッとはく
ペッが ペッとはく
ヨーイヨイ
 
色街の お酌さん
太鼓打ちたし 太鼓なし
可愛いお腹を ちょいと出して
ポンと打ちゃ ポンと鳴る
ポン ポン ポン ポン ポン ポン ポン エー

ふむ。子供の歌からやや色っぽい戯れ歌のようになったわけだ。
それでもやっぱり和尚さんは猫を蹴っちゃう。
と言う訳で、私の疑問は、結局わからず終い。




☆追記

後にネットを検索していて見つけた記述です。


「山寺の和尚さんはまりはつきたしまりはなし猫をかんぶくろにおしこめてぽんとけりにやんとなく...」この童謡に出てくる和尚さんは大生寺の第八世、蔦道和尚という言い伝えがあります。

日向(宮崎)の古月師について修行の後、白隠という有名な老師のところに修行にやられ厳しさのあまり禅病にかかってしまいました。袋に入れた猫をけってたわむれた歌は鳥道和尚が禅僧の厳しい修行の途中、狂人になった姿をうたったもののようです。そして病をおして老師のおともをしていましたが、龍谷寺(兵庫県)≡でとうとう狂態となり大生寺に帰山しました。その後、6年間の監禁のような生活の間にありとあらゆる苦労を経験し、病気も克服、仏教の本旨を発揮して皆から敬われたといいます。










心惹きつけるものとの出遭いの瞬間、
人は「動き」を忘れます。

瞳に映じた美しい人、光景
耳に流れいる心地よい旋律、鳥のさえずり、木々のざわめき、風の音
鼻腔をくすぐる芳しい花の香、雨の匂い、風の薫り
舌に広がる懐かしい味
肌に触れるえも言えぬ感触
魂を酔わせる美しい言葉

その瞬間、人は心を奪われてしまうのでしょうか?
それとも、あまりにも躍動する心以外、
動かすことができなくなってしまうのでしょうか?

息をも呑みこむようにして、全身で対象にだけ向かう。
身体は静止しているのに、心だけは、跳ね回り、飛び回り…

そんな心の震えは何度経験しても心躍ります。


flaming-june



「Flaming June」は、私の動きを止めてくれたものの一つ。

19世紀ヴィクトリア朝のイギリス画家フレデリック・レイトン卿(1830~96)の作品です。
作風は新古典主義に属しますが、
主題はラファエル前派に多く見られる夢見る妖艶な女性たちです。
レイトンは、芸術家で初めて、卿(サー)の称号を与えられた方だそうです。


窓から射す光に包まれながら、

ガラスのテーブルに、頬杖をついて、

飽かず眺めていたい作品です。






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