思いがめぐる

カテゴリ: ふと立ち止まって

I wanna grow old with you


誰でも年を取る。

見た目や中身に個人差はあるかもしれないが、年は取る。


子供の頃から「老い」が怖かった。

おばさんになるのも、おばあちゃんになるのも嫌だった。

それでも生きていればやがてその時は来る。

そのこともわかっていたから、その時には

①無様に抗いたくない。

②潔く受け入れたい。

と思った。

ま、①も②もおんなじことだ。


いい年齢に見える女性が、若い人の恰好をしたりするのを見るとなんだか辛かった。

かなりのお年なのに、すごいお化粧でなんとか若く見せようとしている姿も切なかった。

だから、自分が年を重ねた時には、そのままを受け入れようと思った。

できれば、年を取るのが悲しくないように年齢を重ねたいなと願った。

そして、今、老いと向き合う日々を迎えている。


50代は、両親の介護と自分の病気で過ぎてしまった。

まともに自分の顔を見たり、おしゃれをしたりなんてしている余裕もなかった。

ようやく落ち着いたかなと思う頃には60代になり、

鏡を見つめたらすっかり年を取った自分がいた。

しばらくは嫌であまり鏡を見ないようにしていた。

ようやく気持ちが落ち着いてきて思い始めた。

これはあかんよな~。

このまま自分としっかり向き合わないでいたら、いつかものすごいショックを受ける。

そう思い、まずしっかり鏡を見つめた。

ただ鏡に映る自分と言うのは、他人の目に映る自分と同じとは限らない。

なので、写真を撮ってみた。

撮った後、その写真を見るのも怖かった。

それでも、恐る恐る見始め・・・・

あちゃ~と思った。


今の自分の姿を好きになるのはなかなか難しい。

(尤も、自分の容姿が好きだったことは過去一度もなかったのだけれど)

でも、どんなに嫌がったって若くなるわけでも、きれいになるわけでもない。

それなら、自分を嫌いにならないように年を重ね、

不快を与えないように身だしなみを整えるということを考えよう。

今ようやく、そう思える日々。




父が施設の敬老の催しで祝われる方々の一人になるという。

娘さんからお父様あてに手紙をと言われて・・

正直、これは結構悩んだ。 どうしようかと・・・・

一度は私にはできませんと断ろうかとも思った

何とか書き上げて、昨日(1010日)、Darlingsに聞いてもらった。

二人とも、It reads well. と言ってくれた。

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・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 

父を思う時、何よりも、

「父は懸命に生きてきた」ということを思う。

生きるということに必死だった。

そしてそうしなければ生きて来られないような人生でもあった。

生まれ落ちたのは東北の寒村、親は小作人、食うや食わずで子供時代を過ごし・・・。

やがて日本は戦争に突入。

召集された先は豊原海軍工廠、そこで武器づくりに従事。

そして、広島に原爆が落とされた翌日、87日、空襲に遭う。

戦後は誰しもが貧しく、学歴があるわけでもない父は職を転々とし・・・

語り始めればその後の父の人生も決して恵まれていたとは言えない。

交通事故、次々に襲う病・・

父はきっと「死んでなるんものか」と生きてきたのだと思う。

 

「お父さん、頑張って生きて来たよね。そして、ここまで生きて来られた。

そうして生きてきたその時間に心から敬意を感じます。」


私ごとき若輩者が言うまでもなく、「生きる」ことは一人でできることではない。

たくさんの周りの人々の助けが必要であり、そこにはたぶん「運」もある。

「生きたい」と思い

「生きよう」とし、

そして人々と境遇と運に「生かせてもらえ」て初めて生き続けることができる。

どんなに生きたくても道半ばにして、それどころか生まれてすぐに命を奪われる人もいる。
そんなことを思う時、「生きる」ことは生きているものの責任でもあるのだと感じる。

父は与えられた命に対してしっかり責任を果たしてきた。

「責任を持って生きる」

それが、父が娘である私に何よりも教えてくれたことだと思う。

「お父さん、頑張ったね。私もここまで生きて来る中で少しはお手伝いできたかな?」

今父に願うことは、今ある命を大事にしてほしいということ。

そして、今ある時をできるだけ慈しんでほしいということ。

「お父さん、私は、娘として最後まで寄り添います。」

最後になりましたが、父を見守り、日々世話をしてくださっている○○○○の皆様に

心から、本当に心から御礼申し上げます。

ありがとうございます。


娘、ゆみ

・‥…━━━☆・‥…━━━☆

 

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ようやく施設に提出 父がそこそこに満足してくれればと願う。

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父の敬老会の写真が送られてきた。

父への手紙は大丈夫だったかな?という思いもあり、 父に電話。

「ゆみがお父さんのことを一番わかってくれている」 と言っていたので、OKかな?と思う。

 

追記

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悲しかった。

でもいつものこと。

Darlingに言えば、また、同じことを思っているの?と言われるだけなので、

ここに書いて終わりにする。

私が書いた父への手紙 それを聞いた方が、父のことを感心した。

と父は私に語った。

「少しは、お父さんと言う人間がわかったようだ。 感心して、先生と呼ぶ人もいる。

見ている人は見ているんだな。 お父さんの生き方が少しは伝わったかと思う

「よかったね」と私は応えた。

父の自慢話はしばらく続き、私はただ、うんうんと頷いた。

最後に、「あれでよかったかな?」と聞くと

「ゆみが一番お父さんのことを理解している」 と言った。

私はわからぬようにため息をついて電話を切った






生きていて辛いと感じることは、受け入れられないことだった。

嫌なことで、変えられることは変えてきた。

でも、どうあがいても自分では変えられないこともある。


病気

よくなるように努めることはできても、元には戻らない。

 

過去

負った傷を癒そうとすることはできるけれど、傷は決してなくなりはしない。

 

年齢

どんなにあがいても年は取ってい

 

できることは、現状を受け入れること。


元には戻らない体と日々どうするか

癒えることのない傷とどう向き合うか

老いていく自分をどう受け入れる

 

それをしながら、どこかの途上で、ふっと、人生が終わったらいいと思う。

私はなくなり、誰の記憶からも忘れ去られ

私にはわからないこの世界の一部になる



桜


 

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気負っていたんだな~と思う。
日本の情報の遅さにとてもイライラして、
早くわかったことをみんなに知らせなくちゃとずっと思ってきた。
笑っちゃうよね。
私一人がジタバタしたって、できることなんかたかが知れているのに。

ここに来て、なんだか気が抜けてしまった。
というか、ふと、立ち止まってしまった。
パンデミックに翻弄されて情報を追ってきたけど、 
この状況はまだまだ続く(と思っていない方も多いんだろうけれど)、
だとしたら、翻弄されれてばかりいないで、自分のこともしっかり見つめなくちゃと思う。

今もいくつか読んだ記事や論文があって、 日本語では流れていないようだから、
訳して投稿すれば、役に立つこともあるかな?とも思うけれど・・・
何をどこまで言えばいいのかな~ 
自分の理解でとどめていればいいのかな~とか思ったりしている。

自分自身の時間だって限られている。
自分にとって何が大事なのか ということをまた改めて見つめなおして・・・
有限の時間の過ごし方を考えたいなと思う。
(2023年9月22日)





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高校生の頃、親友と話したことがあった。


私「〇〇は今幸せ?」

友は答えた。

友「ま、幸せかな・・と思うよ」


心底、羨ましかった。

当時、私は全く幸せではなかった。

あまりにも多くの問題を抱えていた。

そして、その時、高校生だった私にはすぐにはどうすることもできなかった。

家庭内の問題。

生まれ落ちた境遇は、子どもにはすぐには変えようもない。

私の家庭は、一般のいうところの幸せな家族とはほど遠かった。


ただ、

自分の不運を不幸を数えているのが嫌でしかたがなかった。


「私、絶対幸せになる」

そう誓ったのはいつだったのか。

そして、たぶん、その時には、「幸せ」が何かなのさえわかっていなかったと思う


私の人生の長い期間は、 自分が幸せと感じることは何なのかを見極め、

それをどうしたら手にすることができるかの格闘だったと思う。


何度も絶望し、

何度も投げ出し、

何度となく諦め・・・

それでも私は心のどこかで幸せを求め続けていたのだろう。

 

幸せの形など、人の数ほど、或いは、それ以上にあるのだろうと思う。

あがき続けてきた時間の中で、 気づいたら、私は私の「幸せ」を手に入れていた

 

それは、決して私だけの力ではなく、たぶんに、運にも左右されたこと。

幸運だったのだと思う。


「幸せ」を手にすることができた



 

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色んなことが頭を巡って落ち着けない

最悪のケース、私は日本に行かなければならない

思っている

通常であれば迷いはない

でも、この状況下で動き、もし、Covidに感染したら・・

どう考えても、私には後はないように思う

 

朝からDarlingと何度も話す

どうしてもの場合は、僕がいくとDarlingは言ってくれている

有難いけれど、申し訳なくも感じ、そして、自分が迷いなくできないことがなんとも情けない


自分の体の危険をかけても私はこの最後の仕事を終えるべきなのだろうか

 

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私が日本を後にしたのは1993

両親は70歳代だった

その年齢に達していた両親を残して日本を離れることには不安もあった

離れる前に母に言った

「もし日本にいてほしいならそうするよ。だから、そう言ってね」

母は答えた

「ゆみの人生を阻むことはできない」と・

 

英国での仕事の契約は5年だった。

だから、思った。

5年したら日本に戻り、両親を面倒みて暮らしていこうと。

結婚はとうに諦めていたし、そんな思いも微塵もなかった

 

人生は解らない。 私はこの地で、愛する人と出会い、 一度も考えたことすらなかった家族を持った

 

両親は私の結婚と出産を心から喜んでくれた。

娘が同じ国にいないということを受け入れるのは、辛いことだっただろうと思う。

両親に心から感謝した。

離れていても自分にできることを、精一杯していこうと思った

 

詳細を書き始めれば長くなる。

渡英して今年の秋で30 結婚して、27

その間、日本とその時住んでいる地とを何度となく行き来し、私の力及ぶ限り、両親に寄り添ってきた

 

元々、健康とは言えない両親は、その間、何度となく病になり、入院をし、手術となり・・

その度に私は日本に駆けつけた

父の前立腺肥大、母のすい臓がん、脊椎感狭窄症、鬱・・

2007年、母がすい臓がんの手術を受け、術後ほぼ寝たきりになった時には、

一年近く日本に滞在して両親の面倒をみた

今より若くもあったし、まだ大病もしていなかった

日本からの連絡を受け、次の日に飛行機に飛び乗ることになんの迷いもなかった

 

そして、311が起きた。

私は日本に行くことがものすごく怖くなった。

両親は年を重ね、私の助けを必要とすることが増えてきていた。

一年に二度は両親のもとに行き二人の生活を支えた

 

2013年、自身が病になった。

何とか病を切り抜けた頃、母が最悪の状態になり、再び日本に長期で滞在することになった。

東京での介護は無理と諦め、母を沖縄に連れていった。

父は東京に残ると言った。

母を沖縄で面倒をみている間に父が階段で転倒し大腿骨を骨折した。

父を説得し、沖縄に連れていった。

2017年、母を送るまでの数年間は、自分でも何をどうやって過ごしてきたのかわからなくなるほど忙しく、自分のことなど考える時間すらなかった

 

母を送り、東京の家を始末し、父を施設に入れた後も、休みはなかった。

父が動脈乖離で倒れた。

そうした日々を送り、何とか家族の元に戻った後、パンデミックが始まった

 

大病後、私の体は元になど戻ってはいない。

寛解はしたけれど、手術により抱えた後遺症と共存する日々だ。

幸いにも父はこの三年ほど大きな問題はなく過ごしてきてくれた。

そして、ここに来て・・

 

私ももう若くなく、体も健康体とはほど遠い。

いつかは父の人生の最期がくる。

その時、自分の手でしっかりと終わらせてあげたいと思ってきた。

母にそうしたように

 

今が、こんな風に感染症が蔓延する世界でなければ、

私は一瞬の躊躇いもなく、父の面倒を見に行っただろうと思う。

初めて躊躇した。

私にも家族があるということ。

娘としてのつとめと共に、妻として、母としてのあり方も考えなければならないということ

 

今の、そして、これからの自分にとって、 今私によりそってくれるDarlingsにとって、

何が最良であるのか しっかり考えなければならないのだと改めて思う

 

 

 

 

バー


大学生の時、それこそありとあらゆるバイトをした。

学費も生活費も稼がなくてはならなかった。

様々な経験をした。

そして、色んなことを学んだ。

その中の一つ。

 

喫茶店のウェイトレスはしていた。

でも、バイト料はたかが知れている。

ある時、会員制バーのウェイトレスの募集を見た。

何と、喫茶店のウェイトレスの倍額。

ちょっと怖かったけど、20歳そこそこの私は意を決して挑んだ。

 

正直、面接の時点でかなりビビった。

まさに水商売の世界。

私には馴染みがなかった。

ただ、あまり偏見は持っていなかった。

怖かったのは、例えば、裏の世界とかの繋がり。

でも、しっかりしていそうなママさんを信頼し、私は仕事を始めた。

 

6時から12時まで。

私のお仕事は、お客様にオーダーされたものを届けること。

その意味では喫茶店のウェイトレスとは変わりはない。

ただ、訪れるのは、ホステスと楽しい時間を過ごしたい男性たち。

 

初めはおっかなびっくり始めたお仕事だった。

けれど、段々と、とても興味深く人々を観察するようになっていた。

ホステスさん、お客様、その相互の関係。

どんなホステスさんが人気があり、どんなお客さんが、

どんなことを求めて訪れのるか・・

 

学んだことは様々だった。

まず、お姉さんと呼ばれるホステスさんたち。

ママさんがいて、10名ぐらいのホステスさんがいた。

そんなに大きなお店でもなく、駅前ではあったけれど、

歓楽街の中心地というわけでもなかった。

 

普通の方々がホステスさんにどんなイメージを持つのかはわからない。

その頃の私は、本などの知識から単なる色気を売るお仕事、とは思ってはいなかった。

案に違わず、お姉さんたちはよく勉強していた。

ママの始業の挨拶が始まるまで、それぞれ美しく身支度を済ませたお姉さん達は、

カウンターに優雅に座り新聞を広げていた。

情報収集は怠りなかった。

 

お姉さんたちには、それぞれに見合った役割があった。

とにかく場を盛り上げるのが上手い方。

色気むんむんで男性をとろりとさせる方。

機知に富んだ話題で会話を展開させる方。

中には、かなり年配のお姉さんもいた。

そういう方は、その年代に見合った方の話し相手になっていた。

 

そうした光景を目にしながら、

ああ、そうか、仕事に疲れた男性たちは、

ここに一時の安らぎを求めにくるんだなと思った。

(もちろん、それ以外の目的の方もいらっしゃるかもしれませんが)

 

お姉さんたちはまさにプロだった。

「〇〇さ~ん」としなだれかかってダンスをしながら、

背中に回した手首をちょっと捻り腕時計で時間を確認していた。

そんなお姉さんと目があう時があった。

お姉さんはほんの少し小さく舌を出して、かわいいウインクを返してくれた。

 

始業前には必ずミーティングがあった。

昨夜の反省と、今日の予約のお客様についてのお話。

お客様、お客様のグループ毎に詳細に検討される。

おもてなしの仕方、給仕に不備はなかったか、会話の内容・・・云々云々

 

店はビルの上階にあった。

帰られるお客様をエレベーターまでお送りするのは通常のお仕事。

頭を下げて扉が閉まるまで緊張は抜けない。

時には、閉まったと思った扉が再び開いてしまったりすることもある。

 

「いい、その時に、『あーやっと帰った』みたいな態度を見せるようなら失格よ。

エレベーターが下まで降りたのをしっかり確認するように」

ママさんは目を三角にして言っていた。

 

夜のお仕事の間、時間的には大変だったけれど、

全く違った世界を覗けてとても面白かった。

そうそう、 私は同じ名前のホステスさんがいたので源氏名をもらっていた。

 

お話は、まだまだある・・・

でも、今日はここまで。

 

あ、やめた理由は、是非ホステスさんにと誘われたからでした。

 

 


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私だけだなんて思っているわけでは全くない。

ただ、私も、自分自身を潰されて育った一人だった。

「あれはダメ」 「これもダメ」 「お前はダメ」 「そんなことじゃダメ」

自分を否定する要素しかなかった。

思いこまされた囲いの中から少しずつ自分を解放していくことが長い間の仕事だったように思う

 

「ダメ」じゃないんだ。

これでも「いい」んだと思えるようになるまで、 長い長い時間がかかった。

今もまだ、すぐに「ダメ」と自分にを付ける自分に気づく。

それでも、諦めなければその流れも少しずつ変えることができるよ。

できるなら、これから生きる人に伝えたい。

 

私と言う個を形作った生まれ落ちた家庭。

恐らくその世界だけを眺めれば、一番の元凶であった父。

個人的な恨みを感じないのかと問われれば、100%の否定などできない。

でも、それをして何になるだろう。

父もまた、負の連鎖の一つ。

 

私が抱く根源的な問題は、ほぼ全て家庭に起因している。

そしてそれがどこから来たのかと問えば、最終的には人間の所業故なのだろうと思う。

その意味で言えば、父も悲しい犠牲者

母も・・姉も・・ だから、今更、誰かを責める思いにもなれない。

 

私が唯一したかったのは、この負の連鎖を断ち切ること。

私がから次へとは繋ぎたくなかった。

だから、結婚する気も、ましてや、子供を持つ気もなかった。

 

ただ、人は弱い。

ある時から、せめて一緒に生きる誰かが欲しくなった。

そして、その過程で、再び間違いを犯す

 

七転八倒して、なんとかその間違いから少なくとも抜け出せたかな?と思った頃、出遭ったのがDarlingだった。

予期しない妊娠。

ここでも私は最初、堕胎を選択した。

理由は多々・・

 

でも、最終的にできなかった。

出来なかったとき、自分に誓った。

絶対絶対、この負の連鎖を断ち切ると。

それからの日々は、それに専心してきたと思う。

できたのかどうかはわからない。

でも精一杯やった

 

どれほどできたかはわからない。

それでも、 息子はそれなりに安定した人に育ってくれた。

たった一つ私がどうしてもできていないことは、 自分の過去を語ること。

息子は断片的にしか私の過去を知らない。

責任を感じる。

そして、埋め合わせをするかのように時折文章を綴る。

 




輪島塗

物事を見極める能力の大切さを実感する。

Twitter内を見ていても、どうしてこんなに大事なTwitterが全く注目されないの?

と思うことが多々ある。

そして、逆に、何でこんなツイにRTやいいねがいっぱいつくの?ということも


別に私が見極められる能力が優れているなんて思っているわけではないので、

この思いは全くの勘違いなのかもしれない。

一つ確実に言えるのは、真に大事なことって、あからさまに人目を惹くように、

キラキラはしてないんだよねということ。

すごく静かに真実を主張している


愚かな私にも長く生きてきた分だけの経験はあり、

若かりし頃にはわかりようもなかったことも見えてくる。

一見、派手に輝いて見えるようなものは、

よく見ると薄っぺらで、ただの張りぼてということ、 大人になって気づいた。

 

すごくすごく卑近な例。

20歳の頃、BFと能登を旅した。

BFは私に輪島塗の手鏡を買ってあげたいと言った。

二人でたくさんの商品を見た。

初めは、きれいに作られている偽物と、本物の区別がつかなかった。

 

途中、BFは、きれいに作られた豪華な輪島塗(っぽい)手鏡を購入にし、

私にプレゼントしてくれた。

もちろん、私は素直に喜んだ。

輪島塗に興味を持った私たちは、

それから、旅中で出会う度にたくさんの作品を手に取ってみていた

いくつもいくつも作品をみるうちに、

購入した手鏡が単に「きれい」に作られた 偽物であることに、ある時、ふと気づいた。


その後は若さゆえのこと、わざわざ購入した手鏡を来た道を戻り返品に行き、

BFは他店で見つけた本物の輪島塗の高価な一品を私にプレゼントし直した


面白い経験だった。

初め「わぁきれい」と思って見ていたものが、いくつもいくつも本物を見るうちに、

その偽物の表面的な美が目に写り始める。

同時に、本物の、内部から輝くような静かな美が 目の中に沁みこんで来る。

あーこういう差なんだ・・・と思ったのを思い出す


二つを比べたら、恐らく偽物の方が 一見、きらきらと美しく見えただろうと思う。

でも本物は、奥深くからにじみ出てくるような永遠の美しさを湛えていた。

その時のBFとは別れてしまったけれど、手鏡は今も私の手元にある


 


 

お散歩に出たら、いつも行く公園内に設えらえた庭園で、ガーデンパーティが行われていた。

お花は見たいなと思ったので、躊躇しつつ、足を踏み入れた。

雰囲気を上手く伝えられる写真がないのだけれど、こんな感じの場

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食べ物や飲み物も用意されていて、多くの方が集っていた。

全員ノーマスク。

屋外ではあるので、それもありかな?とは思いながら、私は不安で仕方がない。

結局、人々に交わることなく早々と退散した


それでもしばらくは、人と距離を置き、息子と二人庭に佇んでいた。

 

息「みんな普通に行動しているよね」

私「パンデミックは終わったと思っている方がほとんどだろうからね」

息「時々、自分がおかしいのかと思う。かつてと変わらず生活している人もいる」

私「そうだね。311後、日本に帰る度にそう思ったな~」

息「うん、よく覚えている。ママいつもそう言っていた」

私「今のこの世界、若い方には本当に申し訳ないなと感じる。もちろん、子供達にも。ママたちが何の躊躇いもなくしてきたことが、不安失くしてできないと感じる人たちがたくさんいる。ママはもう年だし、したいことはしてきたからこんな状況でも受け入れられる。でも、〇〇には本当に・・・ごめんね。という思い」

息「これから先どうしたらいいのかと思う」

私「わかるよ。ママには何も言えない。〇〇が決めたことを全面的に応援するだけ」

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比べる問題ではないけれど、

例えば、戦禍に生まれた方のことを思う。

或いは青春時代をその最中で迎え、亡くなっていった方。

或いは、大災害に遭遇し、全てを失くした方。

人生は悉く不公平だ。

 

人ができることは、置かれた状況の中でどう生きるかを決めること。

それしかできないんだよなと思う。






「すばる」と横で輝く金星の共演
すばると金星



「坂本龍一さんが語った死生観 がんで号泣....痛みに弱いから行動できた」
山内深紗子
”教授が天国に旅立ってしまった。
世界的な視野に立ち、考え、発言し、行動できる人を失ってしまった。
喪失感で眠れなかった。
2度目のがんとの闘病中だった。
2014年、62歳の時に中咽頭(いんとう)がんを経験してその後回復した。
18年のクリスマス坂本龍一さんにがんとどう向き合ったのかや死生観について伺った。

当時、記者(45)はがんの手術を受けて復職して間もない頃で、
そのことをどう受け入れて進めばいいのか悩んでいた。

翌年2月4日の世界対がんデーに合わせて、がんに向き合う方やその家族、社会へのメッセージを発信したいと考えた。

自身の経験や迷いも伝えた上で、

「坂本さんはがんとどう向き合い、その後の生き方にどう影響したのか、どんな死生観を持っているのかお伺いしたいのです」とお願いした。

ニューヨークからすぐに返事があった。

「良いですよ。お役に立つなら。クリスマスですが、いかがですか?」とあった。”


とてもいい記事だった。

坂本さんは62歳で最初のがんを経験し、寛解した。
だがその後再発。
62歳から約10年の期間は寛解の時期を含めれば、病と共にの日々だったことになる。

この記事を書かれた山内深紗子さんご自身ががんサバイバー。
2018年クリスマスに教授と会い、
がんとどう向き合ったのかや死生観についてインタビューをした。
ご自身の経験がなければ寄り添えなかった思いもあるのではと感じた。

読み終え、自身のがんとの日々を思い起こした。
私は運よく、まだ、命がある。
それでも、いつまたという恐怖は拭え切れない。
ただ、 それは恐怖ではあるけれど、死への恐怖ではない。
より明確に表れる残された時間を見つめることの痛み。
そこに愛する人々が関るから・・・


以下が、山内深紗子さん2018年のクリスマスに行われたインタビューらしい。
残念ながら、有料なので、最初の方しか読めないのだが・・

「痛みに涙、坂本龍一さんの治療 がんの究極の原因に気づいた」
あの人も向き合ったがん
聞き手・山内深紗子
”自分ががんになるなんて、1万分の1も疑っていなかったんです。
 若い頃は徹夜続きでも平気で、「才能は体力」と公言していたし、
40代からは健康オタクと言えるほど気を使っていました。”

”2014年6月、62歳のとき、のどに違和感を覚え、受診すると
中咽頭(いんとう)がんだと診断されました。ステージはⅡとⅢの間。
「まさか」でした。生まれて初めて死を意識しました。
「がん」という言葉は重かった。”

坂本氏のことを思いながら、つい 自身のことを振り返ってしまう。
病で命を落とされる方はたくさんいらっしゃり、その病もまた様々だ。
それでも、どこかの時点で「死」を意識したというその経験は、
理由が何であれ、そこに共通する思いがあるのではと思う。

自身が感じたことを語るべきなのだろうか?と時に思う。
と同時に、 そんなこと、誰が気に掛けるだろうという思いもある。

がんの宣告をされた後、様々な思いを振り切って、SNSで発信した。
ひとつには、自身と向き合うため。
そして、経験を語ることで誰かの役に立てたらという思いもあった。

が、残念なことに、その時にもらった誹謗中傷は、私を打ちのめした。
心底、人間に絶望した。

「わたしにはわからない」

病について発信する上で、辛かったことはいくつかあるが、
そのひとつは、善意からなのだろうと思うのが、
治療方法を押し付けてくるかのように言ってくる方が多かったこと。

これが絶対効くから、試すべきだと・・・
〇〇は絶対危険だからやめた方がいいと・・・

そして、自分が薦めた治療法を選ばないと、
「そんなことしていたら死ぬよ」
とりあえず選択した治療を終えたと発信したら、
「じゃ、確実に後何年もありませんね。」
そんな風に言ってくる方もいた。

驚いたのは「寛解しました」と発信した時、
「そんなに簡単に安心できないんじゃない?」と言ってきた方がいたこと。

人を嫌な気持ちにさせることで、どんな快感を得られるんだろう?
私にはさっぱりわからない。
正直、わかりたくもないと思った。

あら、愚痴になってしまった。

伝えたかったことは、
病と言うこと、死と向き合わざる得ないということ、
そんな時と今向き合っている方もいるということ、
そして、いつ自分にそんな時が訪れるかはわからないということ、
そんなことを思いめぐらすそんな瞬間も、もってほしいな、ということ。






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まだティーンエージャーだった遠い昔

街で若い男性に声をかけられ、映画の割引券のようなものを売られた。

初めは半信半疑だったのだが、話を聞くとお得のように思え、

金額がそれほどでもなかったことから購入した。


家に帰って母に話すと、普段穏やかな母が声を荒げた

「ゆみちゃんが、そんなものにひっかかるなんて、お母さんは情けない」

母の言葉が痛かった。

「すぐに戻ってその人を捕まえてお金を返してもらいなさい」

母の言葉に私は脱兎の如く、街に戻った。


彼はまだそこにいて、商売?を続けていた

あんなに幼かった私が一体、どう彼に迫ったのだろう?

とにかく私は彼に購入したものを返し、払ったお金を返してもらった。

家に戻ると、母はいつもの穏やかな顔で迎えてくれた。

忘れられない思い出のひとつ





 

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「お疲れ様」


職場に残る同僚に声をかける。

静かに少し長い息を吐き、エレベーターに向かう。

階下に降り、右手にある化粧室に入る。

手を洗い、髪を梳かし、身だしなみを整え・・少しだけ気持ちをリフレッシュする。


そしてふらりと街に流れる


夜を迎えた街は華やぎを見せている。

いくつか知っているお店のカウンターが頭を過る。

その中の一つを選び、ゆっくりと通りを進む。


見慣れた扉を開け、カウンターに近づく

目の前にコースターが滑る。

その模様に目を落としながら カクテルを注文する


飲み物が来る間、店の音楽と、バーテンダーがカクテルを作るリズムに身を任せる。

ちょうど肩の力が和らぎ始めた頃、グラスが優雅にコースターにランディングする。

そっと取り上げ、最初の一口を喉にゆっくりと流す。


というその瞬間が好きだったなと

ふと思い出す




やっとひと月ぶりに本アカにログイン出来て、

あーひと月ストレスだったなと振り返る。

何がストレスって、自分がどういう状態にいるのかが把握できなかったこと


ロックされたのか?

されたとしたら何故なのか?

ルール違反なら罰則はいつまでなのか?

それともただの不具合なのか?

認証コードを入力してもエラーになるのはなぜなのか?


疑問は山ほどあり、そして、毎日のように問い合わせを続けた。

が、私の疑問に対する答えは皆無だった。


自分が今、どの場所にいるのか、どういう状況下にいるのかがわからないほど、

私を苛立たせ不安にさせることってない。


大病した時のことを思い出す。

診断されるまで、やはりひと月ほどかかった。

自分の異常な状態が何が原因なのかわからぬまま悶々と過ごすほかなかった。

すごく辛かった


診断された時にももちろんものすごいショックで、

命さえ覚束ないと悟った時の恐怖と絶望は口では言い表せないけれど、

事実を受け止めた後は、何が何だかわからない時よりも落ち着けた。

そうか、今は、私はこういう状態にあるのだから、

今私にできることは?と考えることができた


立ち位置がわかったので、歩く方向を決めることができた。

自分のこれからを考え、心をそちらに向けることもできた。

やっと、顔をあげることができた


誰にでも当て嵌まることがどうかはわからないけれど、

自分で自分の状況を把握できず、

また自分に関して何も決めることもできないことほど 私を萎えさせるものはない

I would like to know where I stand.

I don't know


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Twitterを始めたのは311の時。

大事な人との連絡が目的だった。

 

その後、情報収集のためになった。

海外にいる私にとって、日本で起きたことを知るのに、当時はTwitterの情報が何よりも速かった。

 

日々アクセスするようになり、自身が知り得た情報も発信したりするようになった。

これまでの12年近く、そんな風に、いつもTwitterは身近にあった。

私にも色々なことが起きた。

Twitterから離れたり、戻ったり・・

気が付くとフォロワー数が増えていた。

 

Twitterは日本と繋がることのできる大事な場所でもあったし、今もある。

思いを呟き、 起こった出来事を呟き・・

出遭った人々と言葉を交わし・・

ここを通じて知り合い、お目にかかった方々もいる。

・・ その時々において、大事なツールだった。

 

だから、自分のアカウントにはそれなりの思い入れがある。

2023年1月4日にロックがかかり、強制ログアウトされてしまった。

未だ戻れずにいる。

 

私のアカウントには、

時間と共に積み重ねてきた人々との交わりがあり、

時間と共に収集してきた情報の集積がある。

過ごしてきた日々の記録や思いがある。

 

できるなら、戻りたいなと思う。

 





午後4時前。
・・・静か・・・
Darlingsは二人で何やら音楽の録音をするとか、二階に上がっていった。
私は階下に一人、スロージンを飲みながら、 Christmas Musicを聴いている。






渡英して迎えた最初のクリスマスのことを思い出す。
10月末に赴任し、夢中で仕事をこなしていたらクリスマスになった。
あっという間だった。
気が付くと、大学からは人がいなくなっていた。

下宿先の他の住人も、一人一人と故郷に帰り、 私は一人、大きな家に残された。
階下に大家さんはいたけれど、 下宿人と交わりがあるわけでもなく、
声はかけてはもらったけれど、 とてもその家族の輪に加わる気にはなれなかった。

クリスマス期間はお店も閉まる。
来たばかりの私の部屋には、TVもラジオもなかった。
部屋を暖めるためのラジエーターはコインを投入するようになっていて、
そのためのコインをお店に集めに行った。
キッチンに置いてあったラジオをつけ、誰もいなくなったキッチンやシャワールームを掃除した。

学生街であるその町は、灯りが消えたかのように静かで、
普段は目にしない地元の若者がパブに溢れていた。
本当に寂しくて、心細くて・・このクリスマスから年明けまでの時間を
どう過ごしたらいいのだろうと泣きたくなるような思いだった。

そして、その凍えるような寂しさからもあったのだろう・・と思う。
私は、”また”躓いた。
寂しくて重ねてきた失敗の中でも、たぶん、一番の失敗。

そこから、何とかしなくてはとここまできた日々を思う。
懸命に生きてきた。
多くの、本当にたくさんの人に助けられた。

そして、”今”がある。
クリスマス・イヴに、ふと振り返る来し方。



Film

後どのぐらいの時間がゆるされているのかな~と思うと
ふと越し方を思ったりする。

洋画は私にとって、外の世界への扉だった。
スクリーンに広がる世界を見てはドキドキした。
舞台は様々な国であったけれど、 そこで話される言葉にとても魅せられた。
日本語と違う感性をそこに感じた。

こんな言い方ができるんだと思ったことはいくつもあるけれど、その一つ。
ある男性が食事中、ネクタイに食べ物をつけてしまう。
彼はもちろん少し気まずい。
でも、それをこんな風に表現する。
「ネクタイもお腹が空いていたかな?」
それを聞いた一緒にいた女性が笑う。

居心地が悪くなりそうな些細なミスをユーモアで躱す。
その優しさがとても好きだった。
こういう言葉を知りたいなと思ったのが、
日本語以外の言葉に惹かれる理由の一つでもあった。
当時、一番身近な外国語は英語。
必然的に私は英語に興味を持った。

当時、洋画の世界は、ほぼアメリカだった。
もちろんアメリカにも憧れた。
でも、私が一番興味を持ったのはイギリスだった。
理由は単純だ。
あるイギリス映画が大好きになり、そこに出演する俳優に夢中になったから。

それが12歳の時。
その思いが自分のその後に大きな影響を与えるなどとは考えてはいなかった。
ただ、 思い返すと、いつも、心のどこかにイギリスがあったのだろう。
私は仕事を得て渡英し、そして、そこで家庭を持った。
思いが行く道に与える影響の大きさをふと思う。






heathrow airport


ヒースローに降り立ったのは、黄昏時だった。
スーツケース一つと、その時抱えていたのはワードプロセッサー。
コンピューターは普及し始めてそれほど経ってはいなかった。
今となっては遠い昔。
1993年10月24日、私は仕事のためイギリスの地を踏んだ。

空港で出迎えてくれたのはタクシーの運転手。
この地で知っている人は誰もいなかった。
ヒースローから赴任先の街までは3時間ほどだったろうか?
大学側が予約してくれていた宿に着いた時には、 外は暗闇に包まれていた。

Faxでやりとりしていた同僚となる方に到着の電話を入れた。
その時、その日が、夏時間から冬時間へと変わる日だと言うことを知った。
時差ぼけの私には何の意味もなかったけれど・・・

大学側は、一日でも早く出勤することを望んだ。
到着の翌日、月曜日から大学に初出勤した。
そうして、私のイギリスでの日々が始まった。
宿の予約は二日。
その後の宿泊地は自分で探さなければならなかった。

その後の日々はあまりにも忙しく、
ようやく自分の住むところが決まったのは、かなり後だった。
5年の契約で頂いた仕事。
それが終われば日本に戻るつもりでいた。

そして、今。
家族とともにここにいる。

10月24日はその意味で記憶に残る日となった。

そして、1993年 、同じ日に、生死を分かつ手術を受けた。

幸運にも命を取り留め、今ここにいる。
その日からの日々は、与えられた時間。
そう思い生きている。



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1993年10月24日。
夏時間が冬時間へと変わるその日、イギリスの地を踏んだ。

それから2か月、英国での最初のクリスマスを迎えた。
クリスマスは知人の家族と過ごしていた。
25日当日、女王のクリスマスメッセージがあると聞かされ、家族の人々とTVの前に集った。

私が赴任した地は北イングランド にある街。
その地の人々が話す英語には方言があり、私にはまったく聞き取ることができなかった。
それまでの勉強は何だったのだろうと泣きそうな思いでいた。

時間になり、女王様はTVの画面に現れた。
厳かにクリスマスのメッセージがが始まった。

女王様の話す英語が、私の耳に一語一語明瞭に響いてきた。

「私、ちゃんと聞き取れるんだ」

驚きと少しの安堵と共にメッセージを聞き終えた。

30年近く前の思い出。








 

救急車を要請してからちょうど12時間後(330日朝6時)、ようやく診察を終え、家に戻った。

シャワーを浴び、ほっと息を吐いた。

腹痛は、継続しての痛みはなくなっていたが、時折、絞り込むような痛みがあった。

それでも、とりあえず、今日一日は、何事もなければ、家で安心して過ごせる。

それだけでも嬉しかった。

 

翌日、331日の検査予約時間は朝11時半になっていた。

 

31日朝、予約通り、病院の指定された病棟へ向かう。

付き添いは許されていないので、ダーリンはここまで。

終わったら連絡をという言葉と共に一人残される。

 

基本的な検診、血液検査、尿検査などを終え、CTスキャンに必要なカニューレを腕に入れられる。

そして、順番を待った。

 

途中、一度診察室に呼ばれ、どういう状況でここにいるのかと問われた。

「初めから説明が必要でしょうか?」と聞くとお願いしますという返答。

説明後、触診、やはり、CTスキャンが必要ですねと言う言葉と共に再び待合室に戻る。

 

10人ほどが座れる待合室にはTVが置かれ、水も用意されていた。

待っている間、読めるものをと思いキンドルも持ってきていたが、体調がよくないと本にも集中できない。

TVの画面を眺めるともなく眺め、ただひたすら順番を待った。

激しい腹痛はなかったが、間欠的に痛みはやってくる。

不安な思いのまま、椅子に腰を下ろしていた。

 

明るかった窓の外が次第に夕方の光を帯びてきた。

このままでは夜になってしまう。できたらあまり遅くならないうちに帰りたいなと思いながら、何度となく時間を確認する。

午後7時頃、看護師の一人が現れた。

「実は・・・今日は検査が受けられないかもしれないの」

「え?」

耳を疑った。

午前中に到着し、今、午後7時を回っている。この時間まで待たされて、今日は検査ができないというのだろうか?

そう伝えに来た看護師が去った後、しばらくして名前を呼ばれた。

やっと検査なのかと思い腰を上げた。が、案内されたのは診察室だった。

さっき会った医師とはまた違う医師が「どういう状況でこちらに?」と聞いてくる。

「また、初めから説明が必要なのでしょうか?」と聞くとお願いしますという答え。

これまでの経緯をまた初めから説明した。

「わかりました。やはりCTスキャンが必要だと思います。ただ、今日はもうできないので明日、また来ていただけますでしょうか。或いは、今夜はこちらで過ごしますか」

溜息が出る。

「また、明日も、できるかどうかわからない検査のために朝から待つことになるのでしょうか?」

「明日はそんなことはないです。朝一番で検査を受けてもらえます」

それ以上、私に言えることはない。病院で過ごすより家に戻りたいと伝え、翌日の時間と場所を確認し、診察室を後にした。

ダーリンに迎えに来てもらい、家に戻ると午後9時を回っていた。

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朝、8時半、指定された病棟に行く。昨日告げられたことを受付に伝え待合室に入る。

ダーリンは、私が検査のためのカニューレの準備ができるまでと隣りに腰を降ろした。

まもなくして看護師の一人が現れた。

私たちを見るとどちらも患者なのかと聞いてきた。ダーリンが妻が患者ですと言うと、表情が固くなった。

「付き添いは許されていません」

「妻がこれからCTの検査なので、カニューレの準備ができるまでここにいようと思いまして」

ダーリンがやんわりと返す。

今はこの状況下で誰も付き添いは許されていない。すぐにほかの場所に移動するか、でなければ、帰ってほしいと声が上がる。

今日は朝一で検査を受ける予定になっており、もうすぐ準備ができると思うのでと返すと、看護師は、そんなことを誰が言ったんだと問いただしてきた。

昨日、一日検査を待ったが受けられず、最後に妻は医師に診察を受けた。その医師が妻に言ったとダーリンが答える。

看護師は医師はそう言ったかもしれないが、そんなことは保障できない。今日も検査はいつになるかわからないし、受けられるかどうかもわからないと声を荒げた。

 

限界だった。

そこまで聞いて・・・

それ以上耐えられなかった。

涙が止めどもなく流れ始めた。

29日に救急車に乗り、30日の朝診察を受け、昨日31日、一日検査を待った。今日朝8時半に病院に来て、聞かされたのがこの言葉。29日から、口にしたものはわずかな水だけだ。

また今日も一日、ここで一人、できるかどうかわからない検査を待つのかと思うと、溜まらなかった。

痛みもまだあり、体も心も疲れ果てていた。

 

その後、ダーリンと看護師あるいは病院側とどんな話合いがあったのか、泣いていた私にはわからなかった。最終的に、ダーリンは付き添いとして残ることを許され、私の検査は9時半に行われることになった。

 

CTスキャンは何度となく受けている。

わかっているプロセスなので、緊張することもなく検査終了後、待合室に戻った。

「結果がわかりましたら、診察になりますからそれまでお待ち下さい」と告げられ、腰を降ろす。

少なくとも今日は隣にダーリンがいてくれる。それだけで十分心強かった。

 

待合室に戻ったのは午前10時過ぎ。

後は、診察の時間が来るまで待つしかなかった。

待った。ひたすら待った。

診察に呼ばれたのは、午後4時半。検査から7時間経っていた。

診察室に入ると、「検査結果がでていますが、まず、状況を説明していただけますでしょうか」と促された。

「あの、初めからでしょうか?」

「はいお願いします」

ああそうか、要するに、横のつながりなんて、全然なされていないんだろうなと思う。

初めから説明を始める。

医師は聞き終えると、「では、検査結果からお伝えします」と口を開いた。

途端、怖くて、そばにいたダーリンの手を思わず握り締めた。

気づいた医師が、「大丈夫。何も怖いことは言いません」と微笑んだ。

検査では特に酷い病気であるというようなことはないと思うが、更に、便検査、MRI検査をしたいので、その予約を取るという。

考えられる原因としては、手術後の癒着か、腸の歪み、組織の傷などにより腸の流れに影響が起き、時折、通りにくい状況になり詰まってしまう。そうなると、嘔吐するしかなく、腸がある程度落ち着いた状態になり通じるようになるまで流れが滞るので、腹痛が起きる。入院というほどではないが、放って置けるような状態でもないので、MRI検査により対処方法を考えるとのことだった。

 

「私は経験がないですけれど、これは激痛だそうですね」と医師が半ば憐れむように目を向けた。

「はい。人によって違うのかもしれませんが、出産よりはるかに痛いです」と応えた。

 

MRIの予約が決まればそれで帰れるのかと思ったが、そうではなかった。

帰る前に、何か口にしてほしいと言う。

何かを食べて、しばらく待ち、吐いたりしないか様子を見てほしいとのこと。

当然と言えば当然の対応だった。それでは何か飲めるものをとお願いする。

 

また、待つ。

半時間ほどして、カップにスープを持ってきてくれた。

それを少しずつゆっくりと飲んだ。しばらく待ったが幸いにも吐き気は襲って来なかった。

腕に入れていたカニューレを外してもらい、ようやく帰っていいですという許可をもらった。

 

午前8時半に来て、病院を出られたのは午後5時半だった。

 

 

追記

病院からのMRIの連絡をひたすら待った。だが、待っても待っても何も連絡がない。そろそろ4週間という頃、病院に電話を入れた。事情を説明すると、ここからあそこと、様々な部署に回された。そして、わかったのは、私のMRI検査は4月半ばにキャンセルされていたということだった。

あきれ果てても仕方がなかった。

再予約をとるべくお願いした。



「そもそも救急車を呼ぼうとするときは」

https://ygjumi.livedoor.blog/archives/68893964.html


「最後かと思った‐2022年3月29日、30日」

https://ygjumi.livedoor.blog/archives/68895777.html

 



苦しかった。

辛かった。

痛いといういう言葉を通り越していた。

もう、これで終わりかな?死ぬかもしれないなという思いが頭を過った。

意識がなくなったら、それで最後かもしれない。

そう思った時、なんとしても言わなければという思いに突き動かされた。

「これで終わりだったら、今まで本当にありがとう」

痛みの間から絞り出すように息子と夫に言った。

emergency



胃のあたりに痛みを感じたのは、328日の夜だった。

腹痛は、2013年に受けた術後、ずっと悩まされてきた。

術後すぐは、何度となく、救急に行き、入院し・・

その後も、病院に行かずとも、痛みに苦しみ、幾日も食べられず、

時には救急搬送され・・・・

だから、その晩、痛みを感じた始めた時にも、思ったのは、あ、またか・・という思い。

とにかく体を休めようと早めに就寝した。が、ダメだった。


29日、明け方4時ごろ、痛みで目覚めた。そして、嘔吐が始まった。

寝ているダーリンを起こすのは忍びなく、一人階下に降り、痛みと嘔吐と格闘していた。

全部吐いてしまえば、それで楽になるのではないかと思ったが、嘔吐は止まらず、痛みは悪化していった。

このままどんどん具合が悪くなったら・・と不安になり、二階に上がり、寝ているダーリンに声をかけた。

朝、6時は回っていたと思う。


それから、


結局、その日の午後になっても、腹痛は続き、吐き続けた。

途中から、意識が朦朧とし始めてきた。体の芯が震え始め、冷や汗も出てきた。

「病院に行くか?」

「救急車を呼んだ方がいいか?」

繰り返し聞くダーリンの質問にも、答えられるような状態でもなく、決められるような状態でもなかった。

白濁するような意識の中で、これはだめかもしれないと思った。

そして、意識あるうちにと必死で言ったのが、最初に書いた言葉だった。

 

ダーリンが救急車を頼んだのは、午後6時頃だったと思う。

電話で容態を告げる声が聞こえていた。

「一時間ですか?」というダーリンの驚く声。

救急車は頼んだが、到着まで一時間かかるということだった。

正直、もう、楽になりたいと思った。

 

一時間、ただただ痛みに悶えていた。

ダーリンが待ちきれずに何度となく電話を入れていた。

救急車が着いたのは、やはり一時間後の7時ごろだった。

苦しくて横になっていたいのに、椅子に無理矢理座らされ、血圧や血中酸素濃度、体温などが測られた。


ようやく救急車内へとなったが、これも車椅子。

車内のベッドに移った時には、身を捩り、痛みに呻いていた。

再び、体温や酸素濃度の測定。

その後ようやく痛み止めの点滴をするためのカニューレが入れられた。

痛みを和らげるためのガスを渡される。それを必死で吸い込む。

やがて点滴が始まったが、痛み止めが効き始めるまでさらにしばらく時間がかかった。


ようやく、息ができると感じたのは、病院に着いた8時ごろではなかったかと思う。

「すぐに病院には入れないと思うのよね。この間は、7時間待ったし・・」と救急隊員が明るく言う。

まだ20代前半という若い救急隊員は、痛みに呻く患者など慣れたもので冗談を言い合っている。

痛み止めはどのくらい持つのだろうか。

どのぐらい車内で待たされるのだろうか?

しばらくすると痛みが戻ってきた。


「痛み始めました」と訴えると、すぐにガスが渡された。

「ちょっと待ってね。同じ痛み止めは打てないから・・・」

医師と連絡をとっているのか、15分ほど待たされた後、錠剤が渡された。それを必死で飲み込む。

錠剤の痛み止めはなかなか効いてきてくれなかった。

「今、何時ですか?」とふと尋ねる。

「今ね~、11時半」という答え。

病院に着いてから3時間半が経っていた。

時折、誰かが救急車のドアを開ける。その度に、やっとかな?と思いながら待った。


「あ、ようやく中に入れるみたい」という声で目を開けた。

再び車椅子に乗せられる。

痛いので足を降ろしたくない。車椅子の上で丸くなった。

「足を降ろさないと危ないから・・」と言われ、仕方なく降ろす。

車椅子を押されて連れていかれたのは、見覚えのある救急の待合室だった。ここには何度か車で来て知っていた。

「え、何でここなの?」と思う間もなく、車椅子は止められ、救急隊員は忙しそうに奥の部屋に入って言った。

車椅子の上で足を上げ丸くなって待つ。

10分か15分も待っただろうか?救急隊員が戻ってきた。

「じゃ、私たちはこれで行くから、ここで呼ばれるまで待ってね」

耳を疑った。

この痛みのある状態で、車椅子の上で、診察に呼ばれるまで待てと言うことなのか。

そう質問する間もなく、救急隊員は出口に向かっていた。


正直、途方に暮れた。途方に暮れても痛くて動くこともできない。ただひたすら小さな椅子の上で身を捩り、少しでも楽な姿勢を探した。

ふと思い、救急隊員が入って行った部屋を見ると、「トリアージ」と書かれていた。

ああ、そうなのか。私は生死に関わるわけではないから、ここに置かれたということなんだ。溜息も出てこなかった。

前を通った看護師さんに時間を聞く。とうに12時を過ぎていた。

身動きもできず、ただ、待った。痛み止めが効いてくれたのか、痛みは少しずつ和らいできてくれた。トイレに行こうと思い足元を見ると、靴を履いていなかった。

ジャケットのポケットに入っているのは、息子の携帯の番号が書かれた紙一枚。お金も一銭も持っていない。

ふらふらと立ち上がり、受付に向かった。

「すみません。家に連絡をしたいのですが、この番号にかけて頂けないでしょうか?」

紙を渡すと受付の方が、電話をかけてくれた。呼び出し音が鳴った時点で、受話器を手渡される。出てきたのは留守電の声だった。

何で、こんな時に留守電なのよ!!!と腹立つ思いを鎮めながら、今待合室にいることをメッセージに残した。

靴下のまま、待合室の中を歩き、トイレに行く。戻ってまた車椅子で丸くなった。


しばらくうとうとしたのかもしれない。何時だろうと思いながらもう一度受付に行き、電話を頼んだ。

今度は出てくれた。

現状を告げ、靴がないしお金も持っていない。待合室にはまだ人がたくさんおり、自分がいつ呼ばれることになるかわからないと告げた。

靴を持っていこうか?と言われるが、靴だけ持ってきてもらっても、付き添いが一緒にいられるわけでもないので、終わったらまた連絡をすると電話を切った。

既に2時半を過ぎていた。


車椅子に戻り、救急車内から持ってきた毛布にくるまる。どこに行きようもなく、待つしかなかった。

痛みが和らいで来た分、多少、周りにも目を向けられるようになった。部屋の中をぐるりと見まわしてみる。

入口を入って右側が待合室になっており、左側が向かうような形で受付になっている。

私は車椅子なので、椅子の並ぶ待合室内というより、待合室エリアにくっつくような形で、受付と待合室の間、人が行き来する場所にいた。

とにかく人で溢れていた。

待合室内に置かれた椅子や長椅子に体を横たえた人もいれば、ケガなのか、顔に流れる血をタオルか何かで押さえている人もいる。誰も、付き添いが許されないので、それぞれが一人だ。

一応みなマスクはしているようだった、咳き込んでいる方もおり、急に、コロナの不安が頭をもたげてきた。救急車内からずっとマスクは着用してはいるが、こんな状態で、ここに長時間いて感染したりしたら・・・と思うとすごく怖くなった。この状態で、コロナに感染なんかしたら、本当に死んでしまった方がいいと投げやりな思いになる。


「ゆみ・・」と呼ばれて目を開けると、ダーリンが立っていた。

「靴を持ってきたから。それからお水と、寒いと困るからフリースも。キンドルも持ってきたけれど・・・」と袋を車椅子の傍らに置く。

「ありがとう」と言いながらも、ダーリンの顔を見る。涙が出てきそうだった。

「一緒にいてあげたいけれど、付き添いは許されていないから、辛いだろうけれど、ゆみがしっかりしなくちゃならないんだよ。診察室に呼ばれたら、ちゃんと状況を説明して、次の診察なり検査に繋げるように医師を説得しなきゃならない。『もう大丈夫です』とか言っていちゃダメなんだからね。僕が代わりにやってあげられないんだから、ゆみが頑張るんだよ」

ダーリンに言われ、ただ頷く。

またか・・また、一人で頑張らなきゃならないんだ。

なんで私は、一番大変な時に限っていつも一人なんだろう?

スペインでがんの宣告を受けた時も、夜中にたった一人でスペイン人の医師と向かい合っていた。

過去の痛みまで追い打ちをかけるように襲ってくる。

「ゆみ、いい?わかった?」と念を押され、

「わかった」と答えた。

去っていくダーリンの後姿を見送り、また、目を閉じた。


診察に呼ばれたのは、29日朝、6時だった。

やっとという思いで診察室に行く。

「どうしましたか?」という質問に、なるべく手短に大事な点を漏らさず状況を説明した。

幸いにも聞く耳を持つ医師だった。

「わかりました。触診をするのでベッドに横になってください」と言われ横になる。

膨らんだお腹を触り、「ヘルニアじゃないかしら?」と言う。

「いずれにしても検査が必要だから、明日、エコー検査を予約するわ。今は痛みはひどくはないのね?」と言われ頷く。

「じゃ、今日はこれで帰っていいから、明日、検査に出直してちょうだい。予約を入れたら詳細を持っていくから待合室で待っていて」

よかった。とりあえず、検査に繋げられた。ほっと息を吐き、待合室に戻った。

431日の予約の詳細をもらい、ダーリンに迎えにきてもらったのは7時頃だった。



「そもそも救急車を呼ぼうとするときは」

https://ygjumi.livedoor.blog/archives/68893964.html


「CT検査、診察まで ー 3月31日、4月1日」







NHS


そもそも救急車を呼ぼうとする時は、一刻を争う時。

とにかくできるだけ早く医療者の元に辿り着き、

この惨状をどうにかしてほしいと思うからこその必死の行動。

なのに、その救急車がすぐ来なかったとしたら・・・


本人に意識があれば、拷問に等しいし、

見守る人にとっては居たたまれない時間だろう。


先日、2022328日、

このまま終わりになるのではないかと感じるほどの痛みに悶えながら、

救急車の到着を一時間待った。

ここで、私の病状は、伝えたいことの付属的問題に過ぎないので、必要最低限にとどめようと思う。

 

20203月のWHOのパンデミック宣言。

そこから始まったこのパンデミックも、

2022年に入り、世界的に、「はい、もうお終い」と、

感染者数がどうであろうが、どこもかしこも終息を決めたようで、

私の住むイングランドも早々とその仲間入り。


2月24日、全ての規制は撤廃され、規制があるかないかという意味では、

日常はパンデミック前に戻った。


じゃ、英国社会は、そのように機能しているのかというと、きっと・・・違うだろう。

私が知っているのは、半径何キロにも満たない狭い世界だ。

だから、これは、その地で、2022年の春に、私という個人に起こったことに過ぎず、

これをもって、イギリスの医療事情は・・・などと声高に言うつもりはない。


ただ、似たような状況で、2020年の10月にも救急搬送を経験している。

この時とは、今回は全く違った体験だった。


詳細には興味がない方も多いだろうと思うので、時系列で起こったことを記す。


 

【腹痛による救急車要請から診察検査までの記録】 2022329日、北イングランド


328 :夕食後、腹痛、早めに就寝


329

 4時:腹痛で目覚め、嘔吐開始、嘔吐腹痛継続

 18時:救急車要請

 19時:救急車到着

 20時:病院着、車内待機4時間

 24時:救急車から車椅子で病院の待合室


330

 6時:6時間待ちようやく診察、後、一時帰宅


331

 11時半:検査のため再院、血圧、酸素濃度などの検診

 20時:今日中には検査ができないため翌日の出直しを求められる。


41

 8時半:病院着

 9時半:検査

 16時半:7時間後診察開始

 17時半:診察了、更なる検査が必要とのことで病院からの連絡を待つように告げられる。



この間、私がどんな思いでいたのか・・・あまりにも長くなりそうなので、

ここは、この記録だけに留める。



「最後かと思った‐2022年3月29日、30日」

https://ygjumi.livedoor.blog/archives/68895777.html


「CT検査、診察まで ー 3月31日、4月1日」

https://ygjumi.livedoor.blog/archives/68896363.html








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子供の頃は貧しくて、クリスマスなどなんの関係もなかった。

サンタも最初から信じていなかった。

「サンタはいるの?」と聞いたこともなかったように思う。

そもそも、サンタはやって来たことがなかった。

それでも、街で売っているお菓子の入ったブーツは欲しくて、

いつも遠くから眺めていた。


両親が共に入院してしまい、祖母の家に預けられていた時に

クリスマスを迎えたことがあった。

その頃まだ20代だった叔母ちゃまが、

イヴの夜、お菓子の詰まったブーツと女の子の顔のバッグを買ってきてくれた。


もう寝ていた私と姉を起こして、

そのプレゼントをほんの少し開いた襖越しに手渡してくれた一瞬、

星が空から降り注いだようにプレゼントの周りがキラキラ輝いていた。


4つ?5つぐらいの頃のことだったと思う。

こんな年になっても忘れられない瞬間と光景。

ありがとう。おばちゃま


子供の頃の夢のような体験は、 一生を通じて、 その人を支えてくれると思う。

子供にはたくさんのたくさんの夢をみさせてあげてほしい




 



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20211122

父に電話。


ここに戻ってから定期的にしていること。

父は日本の施設にいる。

電話が受け付けに繋がり、それが、父のいる階に回される。

その階のスタッフのどなたかと話し、それから部屋にいる父を呼んでもらう。

父の部屋は建物の一番奥なので時間がかかる


「ちょっとお待ちくださいね」と言う声、受話器が置かれる音。

しばらく待つと遠くの足音が響いてくる。

それが少しずつ音量を増し、うっすら息の上がった父の声が聞こえる。


父は元気だった。

突然、「お父さんの将来のことだけれど・・」と切り出される。

「なあに?」と返す。

話し始めた父の口からでてきたのは、献体という言葉だった。


そうか、お父さん、考えたんだね。

なるべく私に迷惑をかけないように。

既に施設の方と話したという。

わかったよ。 私も調べるからね

 

お姉ちゃん

届くことのない呼びかけ

お父さんが死後献体したいって。

そう言っているよ。

聞かせてあげたかったな、お姉ちゃんに


父は、私の家族を宝だと言う。

そう思える家族を持てた幸運を心から感謝する。

恵まれなかった父の人生に、ほんの少しでも幸せを添えられただろうか。

 

お母さん

今は永遠の眠りの中にいるお母さん

伝えられる術があるのなら、伝えたいことがある。

お母さんが笑顔になれること。

 

母と父、姉、私の伴侶、息子のことに思いめぐらせながら、思う。

私の人生は、こうした極身近な家族と、ほんの少しの友人で成り立っているんだなと。

今は夫のご両親もその中に加わっている。 これが私の世界。

そして、その世界こそが、私が生きている「世界」に繋がっている。






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自分が精神的に健康とは言えないことを本当に申し訳ないと、家族に対して思ってきた。
息子には特に。
小さな頃から具合が悪くなると「ごめんね」とよく謝った。
「元気なママじゃなくてごめんね」と。
息子はいつも何も言わなかった。


先日もまた具合が悪くなり、おいおいと泣きながら、 ダーリンと息子に謝った。

「ごめんなさい。元気じゃなくてごめんなさい」と

息子がポツリと言った。

「ママ、僕によく謝ったけどね、僕、そんなこと全然思っていなかったから、いつも無視していた」


・・・違う涙が流れてきた。



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日々色々ある。
辛いことばかりの時もある。
でも、できれば、できるだけ、
笑って過ごしたい。
小さな笑いはあちこちに見つけられる。

スペインで入院していた時のこと。

辛いことばかりだったけれど 、若い看護師さんにとても慕われた。

私の血管は針が入りにくく、点滴もすぐに逆流したりしてしまい、
頻繁に看護師さんを呼ばなければならなかった。

私が呼ぶと飛んできてくれる息子のような年齢の看護師さんがいて、
いつも冗談を言い合っていた。


辛い入院生活がようやく終わるという連絡をもらった日。
その看護師さんが私のところにやってきた。

「ゆみ、退院決まったんだね。おめでとう。すごくすごく嬉しいよ。
でも、同時に、とっても悲しい。
僕ね、まだ新米だけど、ゆみに物凄く励まされたんだ。ありがとう」
と言ってくれた。


私は驚いて、
「え?だって、いつでも泣き言ばかり言ってたじゃない?」と言うと、

「ゆみはね、傍で見ていてもこんなに辛い状況なのに、笑うんだ。
そして冗談を返す。中々できないよ」

何も意識していなかっただけに嬉しかった。

「Gracias」 そう返すのがやっとだった。


退院前に一緒に写真をと請われた。

「こんな酷い状態で写真は嫌よ」と言うと、

「You are still very beautiful.」とにっこり。

その笑顔に勝てず、並んで写真におさまった。

髪も眉もなく、ガリガリの私が、
優しい笑顔の看護師さんと恥ずかしそうに笑っている。

ありがとう。
励まされたのはきっと私の方・・




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子供を持つのが怖かった。
本当に本当に怖かった。
そして、生涯持つ気は全くなかった。
だから、気をつけて気をつけて行動していた。
なのに、息子は私の中にやってきた。
妊娠したとわかった時点で、直ぐに堕胎を考えた。


一つには、その時、とても強い薬を飲んでおり、
それが胎児に与える影響が何もわかっていなかったから。

でも、それは言い訳に過ぎなかったのかもしれない。
ひたすら、母親になることを恐れた。

堕胎のための予約をし、その日に備えた。


そして、
予約をいれた当日の朝、
とてもできないと泣きじゃくった。

医師に断りの電話をするダーリンは、 私の気まぐれに腹を立てている医師の対応に平謝りだった。

自分の気持ちも不確かなまま、 子どもを産むことを決心した。


子どもを持つのを恐れたのは 家庭を築くことに恐れがあったから、
伴侶との関係も、子どもとの関係も、 健全に持てる自信が全くなかったから。
ただただひたすら、間違いを繰り返したくなかったから。

子供をこの手に抱いた時、誓った。
全身全霊で、負の連鎖を断ち切ろう。


もう人生の最終章を生きている。
私の行いがどうであったのかは、今までとこれからが決めることなのだろうと思う。

先日、思い切って息子に尋ねた。

「ママは、負の連鎖を繋げずに済んだかな?」

息子は答えた。

「それ、よくわかんないけど、僕は幸せだよ」

涙が流れて止まらなかった。


【追記】

2021年5月21日
さめざめと泣いた。
ごめんねダーリンズとその度に思う。
私は私の問題を心に抱えている。
恐らくそれは死ぬまで私と共にあるのだろうと思う。
できれば元気で何の問題もないママであり妻でありたいと心から願う。
なのにそうできない。 本当にごめんなさい

この日、私を慰めながら、

「ママ、いつもそう言うけどね、僕、他のママがよかったなんて思ったことないよ」

「もし、家族コンテストがあったら、家が間違いなく優勝でしょ」

と息子が言った。

何よりの、本当に何よりの贈り物だった。







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『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』
D'où venons-nous ? Que sommes-nous ? Où allons-nous ?


10年
あの日から10年
重い・・
本当にずしりと重い

この日を、こんな感染症が蔓延する世界で迎えることになるなんて・・

この10年
あの日を、
2011年3月11日 を
みんなそれぞれが
それぞれの場所で
それぞえの思いで
振り返ってきたのだろう。

あの日を境に世界が変わったという人
え?何が変わったの?という人

酷い震災だったよね。と過去形で終わる人
地震も津波も原発事故も歴史になった人

あの日から、生活が一変してしまった人
あの日に全てが失われたと感じる人

酷い災害と事故を受け止め先に進もうと歩き続ける人・・・

人、それぞれの思いでこの10年を過ごしてきたのだろうと思う。

そして、今、違った形の災厄に、今度は世界中の人が放り込まれた。

私たちはどこに向かうのだろう。






『壊れていく』 短編
放射能に汚染された世界。
認識の違いから生まれる家族の中の齟齬。
弧絶と絶望へと追いやられる母の姿。

英語圏の方にも読んで頂ければと思い、英訳を致しました。
日本語の後に英訳があります。

壊れていく



『涙』 織部ゆみ
少しでも安心して口にできるものを探しスーパーの中を歩く。
商品を手にしては、裏の原材料を凝視する。
正確な情報が得られないことへの苛立ちと
その苛立ちすら分かち合えないことへの怒りと悲しみ。


思いやり


医師の一言で、救われることがある。
なんやかんやと、医師と関わることの長い人生で、
最初にそのことを心から実感したのは、
一人暮らしをしていてやけどをした時。

夜中だったので、朝まで我慢し、皮膚科にかけつけた。
その時、診察に当たってくださった医師が、 私のやけどにそっと触れ、


「これは痛かったでしょう。夜中でもいいから来ればよかったのに・・辛かったね」
と言ってくださった。

私はほっとしたのとその優しさに思わず泣いてしまった。


そして、その反対は・・・

医師の言葉に打ちのめされたこと、
残念だけれど、数え切れないくらいある。








かつて、海外旅行というと必ず用意するべきものがあった。

トラベラーズチェック

旅行者用小切手

現金を持ち歩くと危険ということで、必ずそうするようにと推奨されていた。
というわけで、

その時、私もしっかりトラベラーズチェックなるものをお腹に閉めたベルトの中に仕込み、アメリカを旅していた。

 

あれはいつだったんだろう?

何となく初めてのアメリカ旅行のような気がしていたのだけれど、

その時には、NYには確か、行かなかった。

だから、二度目の時 ・・

ま、今となっては、どっちでもいいかと思う。

どっちであっても、よい思い出は、よい思い出。

 

そして、どっちにせよ、はるかに若かった。

だから、それはずっと昔のこと。

 

私たちは、マンハッタンを一日ぐるぐると回り、すっかりくたびれてお腹も空いてきてい

なにはともあれ腹ごしらえと、目に付いたスーパーに入った。

何かちょっとした飲み物とつまめるような何かを買ったのだと思う。

そしてレジに並んだ。


番が来て、お金を払う段になり、トラベラーズチェックをさしした。

レジのお姉さまは、それを乾いた眼差しで一瞥すると、そんなものは使えないと首を横に振った。


「え?どうして?」と戸惑いながら私たちは問いかけた。

でも、お姉さまは、にべもなく、

とにかく使えないので、現金をよこせと言い放った。


購入したものを払えるだけの現金は手元になかった。

今であれば、


「ざけんじゃねぇよ。マネージャー呼んでもらおうじゃないか」

でもなんとでも言えるが、その頃は、まだうら若き乙女。

ただひたすら困ってしまった。


「じゃ、返すしかないよね」

後に続くお客を気にしながら友と二人でぼそぼそと言っていると、どこからともなくその人は現れた。


青年は、レジのお姉さまに早口で何か言うと、お金を差し出した。

ええええ???

と思うまもなく、商品は私たちに手渡され、レジのお姉さまは次のお客の対応を始めた。


どう反応していいのかわからず、しばし呆然としていたんだと思う。


「どうしよう?お金返さなくちゃ」と思ったときには、

青年の姿は、ドアの向こうに消えてしまっていた。


必死で追いかけた。

Excuse me!」

二人で声をあげた。


青年は、私たちの声に歩みを緩め、後ろを振り返った。


「あの・・・ありがとうございます。お金をお返ししたいので、連絡先か何かを教えていただけないでしょうか?」


息を切らしながら、ようやくそう言った。


青年は、少し肩を上げ、く軽い息を吐いた。


「・・・いいんだ。お金は・・ただ、お願いだ。この経験で、NYに、アメリカに悪い印象を持たないでほしいんだ


「え?でも・・・」


お金を返すための算段を必死に取ろうとする私たちを彼はやんわりと制した。


「じゃ、よい旅を!」


そして、踵を返し、暮れ始めたNYの街に消えていった。

 

二人とも、しばらく、そこに佇んでいた。

そして、ぼそりと言った。


「忘れないね、絶対」

「うん。忘れない」

 

・・・


それから、ん十年

今も、忘れていない。

目を瞑るとあの時の光景が蘇る。


その人の顔は、落ちてきた陽を背にしていておりよく見えなかった。


でも、ものすごくかっこよかった。

 



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ここ最近、というか、たぶん、特に大病を患って以来(2013年)ぐらいからかもしれないが、
生きる気力が激しく失せてしまっている。

大体、人生のほとんどを精神障害と共に過ごしてきていて、それじゃなくても生きる気力は弱い。
大病の上に親の介護、ほとほと疲れてしまった。

私の精神障害は15の時からだ。
強迫性障害と鬱とは一生のおつきあい。

年齢もあるのだろう。
誰でも、日々、年を重ねる。
後どのぐらい生きられるのかな~?と、10年前には思わなかったことも思うようになる。

大病自体も堪えた。
以来、ちょっと具合が悪くなると「再発?」と思ってしまう。
そういうことにも疲れてしまった。

この10数年、介護、原発事故、自分自身の病、両親の移住、あちこちへの引越しと
本当に辛いことがたくさん重なった。

母の介護は、身体的にもだったが、精神的にすごく大変だった。
好きだった母が、別人のように変わってしまい、段々、母を厭い始めてしまうことが辛く。。。

姉のこと。これも、長く長く、辛い問題だった。
姉との問題に立ち向かおうとしない両親に代わって、いつも介在しなければならず・・・。
どうして私ばかり動かなきゃならないの?と思っていた。
ダーリンは、ゆみの家族では、ゆみが中心なんだから、それがゆみの役割なんだと。
頑張ったけれど、疲れた。

結局、姉は再び去った。
最初に去ったのは二度目の結婚をした後。そして曖昧な戻り方をした。
両親はその曖昧さを曖昧なまま受け入れ、その問題は結局、親の介護という問題で私にやってきた。すったもんだの挙句、最終的に再び姉が去ってくれた時には正直ほっとした。
最初から戻ってこなければよかったのにと思う。

そして、最後に、一番つきあいたくない父が残った。
父の最期が来るまで、私は父の面倒見なければならない。
後、どのぐらい?と思うと、溜息が出る。

疲れたんだろうなと思う。
このまま疲れが癒えないで終わりかな~とも。

「死」はあまり怖くない。
大した人生ではないが、懸命に生きてきた。
明日終ったとしても、悔いはない。
その時その時、自分ができる精一杯のことをして生きてきた。

今、辛いのは、何も楽しくないこと。
鬱症状の典型だ。
よくわかっている。
楽しみなことが何もない。
全てが面倒くさい。

この状況も何度も何度も繰り返してきた。
自分の問題だ。
問題を抱えることになった原因は他にあったとしても、
今抱えている問題をどうにかできるのは自分だけ。
それもわかっている。

例えば、もういいと命を絶ってしまう方の気持ちもわかる。
そうしようと思っているわけではない。
が、
生き続けること、時には、終わりにするより辛い。





もういや











鬱が悪化した兆候はいくつかありますが、「寒い」と感じるのもそのひとつかな?と思います。

そう感じたら、とにかく身体を温めてください。
できるのなら、お風呂に入る。
温かいものを飲む。


鬱と言っても人によって症状は色々です。
大体診断も難しい。
でも、辛いもんは辛いんです。
隣の鬱と比べる必要はありません。
自分が辛いと感じる症状から回復できるかどうかが大事なことです。
外野は関係ありません。

初めて「鬱」になった方が感じられるのは、恐らく、 自分は一体どうしちゃったんだろう?
という思いだろうと思います。

こんなはずじゃない。
その「こんな」は色々。

こんなにだらしなくない
こんなに怠け者じゃない
こんなにすぐ泣かない・・・
たくさんの負の「こんな」

そして、自分を責め始めます。
もっとちゃんとしなくちゃ。
何やっているの私? /何やってんだ俺?

今日も、○○ができなかった。
今日も、人を避けてしまった。
今日も、朝起きられなかった・・・
なんてダメなんだろう。

その思いが余計に気持ちを落ち込ませ、状態を悪化させる。
まさに悪循環の始まりです。

鬱になってしまったら、 決して自分を責めてはいけません。
「自分はダメだ」とか
「誰の役にも立っていない」とか
「きっとみんなの邪魔をしている」とか
「こんな簡単なこともできない」とか・・

まず、自身を判断することをやめてください。
鬱の状態にある時、誰も正しい判断などくだせません。

ではどうしたらいいのか。
きっと答えは一つではないと思います。
ただ、初めての経験であるのなら、一人で解決しようと思わない方がいいかもしれません。
家族に相談する。
友達に話してみる。
鬱を扱った本を読む。
病院に行く。
カウンセリングを受ける。

などなど、何か、外に助けを求めて下さい。




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人生のほとんどの時間を鬱と神経障害と共に生きてきています。
何か力になれることがあるかもしれません。

気軽に声をかけてください。^^











ふと思い出したこと。

私は高校生の頃から本当によく誤解された。
一人二人というのではなく、周りの方々のほとんどに。
結果、嫌われるという事態に多々発展した。

その原因についてはここではちょいと置いておいておく。

イギリスの大学にいた時もそうなった。
職場で四面楚歌のような状態になり、毎日溜息をついていた。

ある日、卒業を間近に控えた学生が、研究室のドアをノックした。
話を聞くと、私に留学先への推薦状を書いてほしいと言う。
もちろん快諾した。

が、ちょっと不思議に思い、最後に聞いてみた。

「ね、随分色んな噂が流れているはずよ。どうして私のところに頼みに来たの?」と。

彼は答えた。
「先生のことについて色々な噂は聞きました。でも、僕は、一度も先生からそのことについて説明は受けていません。今まで教えてくださったその姿勢をみて先生にお願いしようと思いました」

私はしばらく絶句し、
彼の顔をまじまじと見つめ、
「ありがとう」と深く頭を下げた。

その学生はクラスでも特に目立つような生徒ではなかった。
長い髪、スリムな体、音楽に没頭しているのかな?というようなタイプ。
それでも授業態度は真面目で、課題の提出もいつもきちんとしていた。

多くの学生が私の噂で態度が変わっていた。
当然だろうと、特に何も期待はしていなかった。

そんな中での彼の態度と言葉だった。

何より感心したのは、彼の考え方だった。

耳に入ってきた噂話をそのまま信じるのではなく、自分の目と感性で判断した。

私が彼のその判断に足る人物であったかどうかはわからない。

ただ、私も彼のようでありたいと心から思った。

人の言葉に惑わされることなく自分で判断する。
そういう人でありたいと。





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日本の学校での教育のあり方。
私にとってはそのほとんどが苦痛でしかなかった。
教えられ、 覚えさせられ、テストされ、
時間内に覚えた解答を書かされる。
そうすると良い点がとれる。
試験で試されるのは「反応」の速さであるような気がした。

私は考えたかった。
どうしてそういう問題があり、どういう答えを導くべきなのか。
私は知りたかった。
ひとつの問題から、答えを導くための様々な考え方を。
そうしたこと一つ一つを自分でしっかり模索したかった。

極端な言い方をすれば、私にとっては「答え」など、どうでもよかった。
正しく考えることを学べれば、答えは自ずと導かれる。
そして、それはいつも同じではないだろう。
学びたかったのは、考えを展開していくための様々な方法だった。

いつでもそのことにフラストレーションを感じていた。



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運動がからきしだめだった私は、体育の授業が大嫌いだった。
体育の授業は、運動が出来る子はより運動好きに、
運動が苦手な子はより運動嫌いにさせただけなのではないかと思う。

その昔、体育ですることは、
短距離/長距離走、跳び箱、鉄棒、球技、水泳、マット運動などなど、

運動神経の良い子は難なくこなし、そうでない子はいつでも難儀した。

教えてほしかったのは、どんな風に身体を動かすかだったなと今になって思う。
身体をどう使えば、どう育てられるのか。
どう動かし、どう力を入れれば、筋肉を育てられるのか。
けれど、そんな事教えてくれる先生はいなかった。

成長していから、いくつかのスポーツやダンスを学んだ。
決して、身体を動かすことが嫌いだったわけではなく、
競技の出来不出来だけを評価されることが嫌だったのだと知った。

思春期から心の病になり、健康を害した。
何とか「元気」になりたくて、ヨガをしてみたり、ストレッチをしてみたり、走ってみたり・・・。

きくち体操という体操に出遭ったのは、母を通してだった。
30を過ぎていた。
始めてもう20年以上になる。
この体操を続けることで、やっと身体を動かすことの喜びや大切さがわかるようになった。
どこをどう意識して、どう力をいれてどんな風に動かすか。
というとてもとても基本的なこと。

それによって、自分の身体をより知ることができた。
動くことで身体を育てられるようになるのだということを学んだ。

身体を育てるためには正しく息をして身体を隅々まで動かすことが大事だ。
心を育てるためには、正しく息をして脳をやはり隅々まで動かすことが大事だ。
そして双方は互いに働きかけている。

身体を動かすことは身体を育てることなのだと、 毎日、体操をしながら感じる。
身体の隅々まで、隈なく、心を込めて動かしてあげることが 身体を癒すことの助けとなる。
一つ一つの部分を意識して動かすことでその部分と脳が繋がる。
そして、脳が刺激を受け身体の細部によい信号を送ってくれる。

身体を脳をよく動かし続けることがよく生きることに繋がる。



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“頭の良い、行動力のある、自由奔放な強い人”
それが私のTN君に対する印象である。
この本を読みながら、私は一生懸命、彼と一緒に考えた。
どうしたら彼の言うような国にできるだろう?
全ての人が平等な、そして自由の権利を持つ国に。
どうしたらこの日本の腐った政治を改革できるだろう?
私の考えなど追いつく暇もなく、TN君は先の先まで未来を見通し、色々なことを私に教えてくれた。


1847年、TN君は、土佐、今の高知県に足軽の子として生まれる。

その時代の世界情勢を調べてみると、
1700年代の終わり、産業革命に入ったイギリスは、資源と市場を求めて海外への進出を始め、
インドの植民地化の後、清国を屈服させ、香港を占領していた。
国内的には、選挙法改正など自由を求める声が高まっている。
フランスでは、1848年、「二月革命」が起こり、その影響により、
ドイツ、オーストリアでは「三月革命」が起こる。
そして、現在の世の中にも大きな影響を及ぼしているマルクスの「共産党宣言」も
この時、出されたのである。

後に、19世紀後半には、イギリスに続き、産業革命に入ったヨーロッパ諸国、アメリカは、
こぞって市場と資源を求め、海外進出を始めるのである。
とにかく、一口に言って、世界の大きな転換期であった。

作者、なだいなだ氏は言う。
「この50年間(19世紀後半)は、長い歴史を持った人類が、大きく生き方を変えた、
曲がり角のような時代だ。今の僕たちの生きているこの時代の、いいところも、悪いところも、
この時代にその大部分の根があると言ってもよいだろう」と。

そして、そういった世界的な動きの中で、日本も大きな転換を迫られていた。
1853年、アメリカの使節ペリーの率いる軍艦が浦賀に姿を現し、日本に開国を求める。
1854年、「日米和親条約」を結び、日本は「開国」を決意する。
TN君、6歳の時である。
1858年、「日米修好通商条約」締結。
オランダ、イギリス、フランスとも先の条約と同様の条約を締結。いわゆる五カ国条約である。
しかし、これらはいずれも、不平等条約であり、そこに長期に渡り鎖国を続けてきた日本の外交上における「無知さ」があるように思う。
「井の中の蛙」ではなかっただろうか?

一方、日本国内ではこうした幕府の勝手な動きに対して、反抗者も現れ始めた。
その弾圧のために起こったのが、「安政の大獄」であり、
その反動により起こったのが、「桜田門外の変」である。
世界的な動きの中で、日本も少しづつ、変化してきたのである。変化せざる得なかったのである。

「幕府を倒さなければだめだ。政治のしくみを変えなければならぬ」
若者たちはそう叫び、老人たちは言った。
「世の中変わった」

TN君はそう言った声を聞きながら育っていった。
彼がそういう中で、それらのものにどれぐらいの影響を与えられたかは、私にはわからない。
が、少なくとも、TN君の将来進み行く方向に一つの大きな指針を与えたと言っても、
言い過ぎではないのではないだろうか。
それは、彼がどうあがいても決して変わることのない封建制において
下級武士である足軽の子として生まれたことにもあるかもしれない。

私は思う。
若者と言えば私たちのことである。私たちの年代を中心にした人々のことである。
けれど、私たちは、TN君の時代の若者のように「政治の改革」を叫ぶだろうか。
否。
私の知っている多くの人たちは、私も含めて、政治に無関心である。

今の世の中があまりにも幸福だから?
まさか!

なだいなだ氏は言う。
「青年はどんな時代でも政治的な関心を持っている。未来は彼らのものだし、未来の社会をどのようなものとするかを考え、実践する政治が彼らの関心を引かぬはずはない。もし、青年が政治に無関心だとすれば、彼らは未来に絶望しているか、未来を見る暇もないほど、現在の生活に追いまくられているかだ」と。

一部の人々は、勉強に追いまくられ、そして、一部の人々は、未来に対する絶望感を言う。
「どうやったって変わらないよ、この世の中」

未来への絶望も現在の生活に追いまくられることも、片方だけでは存在しない。
「うまくできているナ」と私は思う。

誰も政治に関心を持たず、誰も政治を変えようとしなければ、もちろん政治は変わらない。
この政治体制の中で莫大な利益を得る一部の人々は、永遠に利益を独占し続け、
そうでない大部分の人々は、常に貧困から逃れられない。
なだいなだ氏の言葉は、何も青年に限った言葉ではない。
貧しい人々は、日々の生活に追われ、明日どうやって食べるかに精一杯である。
誰も政治をどうこうなどと考え及ぶはずもない。
裕福な人々は、莫大な利益をもとに、これでもか、これでもかと貧乏人を搾取する。
ゆったりと珈琲をすすりながら考える。どうやったらもっと搾取できるだろうか?

悪循環である。

「おかしいナ?どうして働いても働いても貧乏なんだろう?どこかがおかしい」そう考え始め、
それを行動に表せば、彼の先に待つものは「死」でしかない。
彼など虫けらにしか思わない一部の人々に押し潰されて、抹殺されてしまうのである。

全ての人々が、世の中に、現在の状態に疑問を持ち、何とかしなければいけないと思った時、
みんなの手と手が大きな輪に結ばれた時、初めて、革命が起こるのであろう。

TN君は革命を望んでいた。

1865年、TN君は、土佐の藩学校で勉強し、長崎に留学する。
1869年、長崎での勉強に限界を感じ、江戸に出る。
TN君、19歳の時である。
彼はフランス語を学び、1871年、24歳の時、岩倉具視の遣欧使節団の留学生の一人として、
フランスに渡る。
その時日本は、既に新しい時代、明治に入っていた。

留学中、彼は、「ルソー」の多大な影響を受ける。彼の自然思想に共鳴し、パリに流れる。
日本には存在しない、自由を、その権利を求める空気に触れ感動を覚えると同時に、
日本の「後れ」を痛感させられる。

約二百年間の鎖国は、日本と西洋との間に二百年の隔たりを作ったように思う。
日本はそのことに気づいた時、新しい政治体制の下に新しい日本を作るという目的を、
ヨーロッパやアメリカに負けない力をつけるという目的にすり替えてしまった。

なぜ?

ヨーロッパやアメリカの先進諸国に占領されないため、日本を守るためであった。
仕方がなかったのかもしれない。そうしなければダメだったのかもしれない。
そして、彼らが守ってくれた日本はここにある。
どこかの国によって占領されることもなく、ここにある。

明治維新は、被支配者階級の革命ではなかった。
近代社会への転換を迫られた支配者階級が行なった改革だった。
彼らの頭に「国民」はない。
「国」のみが存在する。
「国」を守ることが何よりも先決だった。

だが待てよ。
国を守らなければ国民を守れない。
やっぱり仕方がなかったのだろうか?
両方を一緒にすることは不可能だったのだろうか?

明治政府成立以後の中央集権を目指す諸改革は、
1871年の廃藩置県、1873年の徴兵令の制定、地租改正条例の発布などなど、
どれも農民を苦しめるものであり、彼らの生活を向上させるなどということからはかけ離れていた。新政府に対する不満は、数多くの「一揆」という形で表れた。

一方、封建制の崩壊による士族の身分的特権の喪失、それによる生活の窮迫も、
明治政府に対する不満として爆発し、1876年、佐賀の乱、1877年、西南戦争が勃発する。

これらはいづれも、政府によって鎮圧されるが、
その時、西南戦争を起こした中心人物である西郷隆盛を批評した、TN君の言葉が印象に残る。

「いいかね、西郷が立ったのは仕方がない。彼は追い込まれたのだ。彼は機を見て行動する人間ではない。義のために行動する古い武士だ。それが彼の人望の支えになっている。機を見、行動する大久保には、人望がない。だが、義によって行動するものは、機を選べない。わかるかね。人間にはそうした二種類の人間がいる。西郷は失敗する。それは彼自身もわかっている。それを知りながら立ったのが西郷なのだ。そしてそれを知りながら加わっているのが、西郷軍の若者だ。だから成功は覚束ない。しかし、それが意味のないことだといったら間違いだ。彼は革命をしようとしているのではない。抵抗だ。抵抗には抵抗の意味がある。しかし、君が革命を考えているのだったら、それは、この後にしかこないだろう」

自由民権運動が活発化し、国会の開設を要求する。
民撰議院設立建白書が、板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らの手により政府に提出されたのは、1874年1月のことだった。広がる自由民権運動に対し、政府は直ちにその弾圧を始める。
新聞紙条例讒謗律の制定がそれである。

しかし、その弾圧をも超え、1880年、国会期成同盟となった愛国社(自由民権を主張する政治結社)は国会開設請願書を政府に提出する。
TN君がその論理的指導者として活躍し始めるのもこの頃である。
TN君は、新聞に、本に自由の主張を書きまくる。

国会の開設は約束される。そして、その約束通り、1890年、第一回帝国議会が開かれた。
しかし、それはTN君が望んだものとは違っていた。

結局、TN君の力は及ばなかった。
歴史の流れの中では、TN君の力はあまりにも小さかった。
それにもまして、体制は、長い歴史のなかで培われたきた精神は頑固だった。
そして、農民はあまりにも、世界に対して、政治に対して、無知だった。

革命は下から行なわれた時、初めて成功へと結びついて行く。
その時には、農民は無知であってはいけない。

全ての人々が政治を理解し、真の平和を求めて立ち上がるのはいつなのだろうか?
まだ、あまりにも私たちは無知である。





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辛かった。
悲しかった。

医師という職業がどれほどの力を持っているのか、
医学というものに携わる方はどうか自覚してほしい。
患者は不安を抱えて医師のもとに行く。
その患者を詰るかのように扱えば、震え上がるしかない。
セカンドオピニオンを求めて行った歯科医の言葉にとてもとても傷ついた。

「そんな態度だから、どこに行っても問題になるんだよ」

その歯科医師が放った言葉だ。

仮に私が物凄く酷い態度で、そして、失礼な言い方でその歯科医師に対していたのならこう言われても仕方がないのかもしれない。
でも、少なくとも私はそんな態度はしていなかったし、言い方でもなかったと思う。
というか、その前に、私の態度も言い方も、その歯科医師は見ることも聞くこともする前に私にそう言い放っていたと言ってもいい。


7月末、父の入院で急遽日本に来た。
半年に一度は行くようにしてきた歯科医の検診にいけないまま1年が過ぎてしまっていた。
検診とクリーニングに行こうと、近くの歯科医を訪れた。
そこで、いくつかの問題を指摘された。
その一つは以前から私が知っていたことなので驚きはしなかったが、他のいくつかは新しい問題だった。

別にその歯科医師を疑ったわけではない。
ただ、私はこの辺の歯科医の事情も、ここ最近の日本の歯科医の事情も全くわからない。
だから、不安だった。
歯には元々色々問題があり、たくさん治療をしてきた。
日本でした治療を、海外で、「これはする必要なかった」と言われたことも何度かあった。
そんな経験もあり、最初に行った歯科医師に言われた言葉そのままに治療を進めていいかどうか決断できなかった。

私がこの地域で知っている歯科医師は一人しかいない。
以前、母の介護で滞在していた時に、母が通い、私も診てもらっていた歯科医師だ。
そこに連絡をとり、今いる場所から通えそうな医師を紹介して頂いた。
予約を取り、たくさんの不安を抱えながら紹介された歯科医師のもとを訪れた。
その結果がこれだった。

初め診察室に通された後、医師に会う前にコーディネータのような女性が私の話を聞いて下さった。
包み隠さず事情を話した。

日本に来たばかりで、近くの歯科医に行ったこと。
そこでいくつかの問題を指摘されたこと。
その歯科医師に疑いを持っているとか言うわけではないが、念のためにセカンドオピニオンを頂きたいこと。
そして、信頼できる先生から紹介して頂いた先生なので、今住んでいるところからは少し遠いが、必要なら通いたいと思っていること。

診察台に上がって待っていると、医師が現れた。

「はい。セカンドオピニオンね。この歯のことね。この歯はね・・・」

と説明を始めた。そして、レントゲンを見ながら、
「何、ここは繋がっているの?」などと言い始め、
「ま、いいやとにかく歯を見るから口を開けて」と言われた。

見方も扱い方もとても乱暴だった。
まるで、初めから私を敵とでもみなしているかのようだった。
私が何が言おうとして口を開いてもすぐに遮り、最後まで言えなかった。
(じゃなくとも口を開いているから言いにくい)

最後にようやく、「この歯は虫歯だと言われたのですが、そうでしょうか?」と聞いた。

「僕はそんなことは言っていないよ。言った?向こうの歯医者でそう言われたんなら、そっちで治療して」という。

「では、こちらの歯も大丈夫なのでしょうか?」と聞くと、

「ちょっと鏡を持って」と鏡を渡された。

「自分で見て、これ、虫歯だと思う?え?虫歯に見える?」

「・・・いえ」とやっと答えた。

だが、私は歯科医師ではない。そんなことは判断できない。

そして、言われたのが、最初に書いた言葉。

「そんな態度だから、どこに行っても問題になるんだよ」

私はもう途中の段階で、この歯科医師に治療をお願いすることはできない思っていたので、
質問はそれ以上せずに、「ありがとうございました」と頭を下げた。
席を立つと、コーディネータの方が、何か質問はありますかと近寄ってきた。
私は彼女のデスクに戻り、声を低めて聞いてみた。

「私は何か失礼なことをしたのでしょうか?或いは、何か失礼なことを申し上げましたか?」

彼女は困惑した表情で「いえ、そんなことは・・・後で先生に言っておきますね」と応えた。

そう話している私たちの後ろから、医師がコーディネータの机の上にカルテを投げてよこした。

「はい。終了」

私のカルテである。

「この状態で、こちらに通えるとは思いませんので、これで失礼いたします。
ありがとうございました」

私はコーディネータの方に頭を下げて、診察室を出た。
涙を抑えられなくなってきていた。
どうして、こんな扱いを受けるのかわからなかった。
料金を払うまでの間、診察室でただただ下を向いていた。

帰途、流れそうになる涙を必死で堪え、サングラスをかけて電車に乗り、ようやく部屋に戻った。
ダーリンに話を聞いてもらいたく、PCを立ち上げているとスマホが鳴った。
電話番号を伝えている人は多くない。
緊急かと思い、急ぎ電話を受けると、さきほどの歯科医師だった。

「あ、○○です。泣きながら帰ったと聞いたので・・」

私は応える気にもなれなかった。

「私の言ったことはわかりましたか?」と言いながら、医師は説明を始めた。
私は聞き流し、「わざわざありがとうございました」と電話を切った。

その途端、滂沱の涙が流れてきた。
帰途、何とか自分の心を立ち直せようと努めてきた。

「たまたま運が悪かったのよ。気にすることない。このことは忘れて次を考えよう」
色んな言葉で自分を励まし、何とか部屋まで辿り着いた後だった。

声など二度と聞きたくなかった。





p01-01




















「お父様は障害者手帳をお持ちですか?」

「いえ、持っていません」

「となると、来て頂いて投票するしかないかと思います」

「でも、父は退院したばかりで、できればあまり動かしたくはないのですが・・・」

「・・・・・」


父が大動脈解離で入院したのは7月下旬だった。
退院は8月8日。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68734338.html

奇しくも翁長知事が旅立たれた日だった。

沖縄県知事選挙は、2018年9月13日に告示された。

何度か訪れる父の施設の部屋に選挙のハガキが届いていることに気づいた。

「お父さん、これ、投票のハガキだよね」

手にとって父に示した。

「ああ、でも、お父さん一人で行けないからどうしようもないんだ」

残念そうに父はそう言った。

私が知る限り、父は選挙に行かなかったことは一度もない。
棄権であっても、投票所に出向き、棄権の投票をしていた。

その父が選挙権を行使できない。

何とかしてあげたかった。

すぐに思ったのは、不在者投票があるのだから、郵送でできるのではないかということだった。

検索して調べてみると、郵送でもできる場合があると書いてあった。
施設に電話を入れ、父が不在者投票ができるようにしてあげてほしいとお願いした。
不在者投票の申請は施設がすると書いてあったからだった。

10分もせずに折り返し電話が来た。
郵送による不在者投票の申請は私がしなければならないとのことだった。

すぐに、父が住民票を置いている役場に電話をして聞いてみた。

それが、冒頭のやり取りだ。

不在者投票というのは、日本における事前投票制度の一つだ。
選挙または国民投票期日に投票所へ行けない人が、公示日または告示日の翌日から選挙または国民投票期日の前日までの期間に、不在者投票管理人の管理する場所および現在地で投票することができる制度である。

病院や施設にいる場合は、不在者投票ができる施設として選挙管理委員会により指定されている場合は、不在者投票をすることができる。

郵便投票に関しては、身体障害者・戦傷病者・要介護者で、障害の程度が重く投票所まで来るのが困難な者は、あらかじめ選挙管理委員会に申請して郵便で投票することができることになっている。

父のいる施設は、選挙管理委員会によって不在者投票ができる施設として指定されていない。

父は要介護者ではあるが、今回30日の投票までに、選挙管理委員会にその旨を申請して容認を得られるかどうかの審査を待つ余裕はなさそうだった。

結果、父は自ずから投票に出向くしかないということになった。


仕方がない。
私が車椅子に父を乗せてでタクシーを使って連れて行こう。
投票所は父のいる施設からタクシーで行けば遠くはない。
料金は往復で1400円弱だろう。

と思ったのだが、どうやら、投票日の30日は近づいている台風の影響で大荒れになりそうだった。
車椅子で大荒れの天気は辛い。

では、期日前投票にと思い場所を調べてみると、役場だった。
役場は投票所に指定されている場所より遠い。
それだけ時間もかかるし、料金もかかる。

その上、父の施設はタクシーのドライバーには大変わかりにくい場所らしく、
今までも何度となく運転手との間で問題になっていた。
恥ずかしい話だが、あまりの対応に、運転手と言い合いになったり、途中で下車したこともある。
さすがに役場までは無事着くだろうが、帰りにまたスムーズに到達できずに・・・
ということも十分に考えられた。

施設の方にお願いした方がいいだろうなと思った。
施設ならば、車椅子をそのまま載せられる車もある。

相談すると、付き添い、送迎の料金はかかるが連れて行ってくださるとのこと。
ほっとした。

私が今いる場所から施設に行くのにはゆいレールとタクシーを使う。
往復で約2000円だ。

私が施設に行き、父を期日前投票に連れていけば、計約4000円かかることになる。
施設にお願いすればそこまではかからないだろう。

ようやく、父に選挙権を行使させてあげることができるようでほっとした。
ほっとはしたが・・・

これ、なんかおかしくないか?
どうして社会的弱者であるものが権力を行使するのに、
これほど大変な思いをし、費用もかかるのか?

納得できない。




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朝、PCを立ち上げると、父がいる沖縄の施設からメールが入っていた。
(2018年7月25日 ポルトガル時間)

24日、朝方、父がいつもの背筋の運動をしている時、背中に「バキ」という音がして痛みが走り、
その後、冷や汗が出て具合が悪くなったということだった。

「本日、午前5時過ぎにお父様が腹筋、背筋を行っていた際、背骨から音がした後から痛みがあり気分不良、冷や汗もあるため病院受診を希望され整形外科を受診しましたが、背骨に関して骨折所見なし、内科受診し採血、心電図、胸部レントゲン検査実施しましたが、心電図では不整脈があり、心臓肥大などなし、採血はまだ検査結果がでていないため、はっきりとした診断はついていませんが、再度、心電図検査を行うよう平良先生から指示が出ましたので、明日、また心電図検査を実施します。
背中の痛みは良くなってきているが冷や汗がまだでるとお父様が仰っています。食事はきちんと食べれています。
明日、病院を再度、受診しましたら結果を報告致します。」

メールを読み、すぐにケアマネのMさんに電話を入れた。
その時の段階でわかることはメールの内容以上のことではなかった。
翌日の検査結果報告の連絡をお願いして電話を終えた。

翌朝、連絡を待っていたが何もなかった。
すぐにでも連絡を入れたかったが、時差もあるため、
朝に電話をするタイミングを逃すと、夜遅くまで待つしかない。

ポルトガル時間の27日朝、急ぎ電話を入れた。

電話口に出られたMさんはとても慌てていらっしゃった。
「メールを見てくださいましたか?」
開口一番そう仰られたが、私はメールを確かめるより先に電話を入れていた。
お話をしながら以下の2通のメールに目を通した。

「突然で申し訳ございませんが、至急を要するかもしれないと思い連絡しております。昨夜、お父様さんが背中の痛みを訴え痛みどめ服用したいと希望され、看護指示にて痛みどめを服用され、本日(7/27)午前8時15分頃、お父様さんより、背中の痛みがまだ継続しているので病院受診希望、看護師と共に午後13時頃より南部医療センターを受診されています。検査にて大動脈瘤があることがわかりました。本人承諾の上、造影剤検査を行っております。
検査結果によっては、入院になることもあると看護師より報告がありましたので、急ぎ連絡を入れております。
検査結果はまだ出ておりません。もし、入院になるようなことがありましたら連絡を致します」

「先程、病院付き添い看護師より連絡があり、大動脈瘤ではなく背中の太い血管が裂けていたと診断され入院となりました。
手術は行わず血圧を下げながら治療を行うことになりました。
入院になりお父様も不安だと思います。
できましたら、急ぎこちらにお越し願いたく連絡しております。」

背中の太い血管が裂けたというのはどういう状況であるのか確認してみたが、
Mさんもまだはっきりと状況を把握できていらっしゃらないらしく、
それ以上の言葉はもらえなかった。
こちらは今27日の早朝であるので、これから飛行機の手配をし、
到着時間がわかり次第連絡をしますとお返事し電話を切った。

急ぎ、出発の準備をし、28日午前1時ごろ家を出て空港へ向かった。
日本へ向かうフライトに乗ったのは早朝だった。

以下、父の状況を箇条書きにまとめる。

7月24日
6時、背筋の運動中に背骨にズキーンという痛みがあり、その後、冷や汗が出る。
2016年に圧迫骨折をしているので、まず骨折を疑い整形外科へ。
9時、整形外科受診。レントゲン撮影の結果、骨折の所見は認められず。
自覚症状から心臓疾患の可能性があるため内科の受診を勧められる。 
その足で、内科のある病院へ行き採血、心電図、胸部レントゲン撮影施行。
上室性期外収縮(不整脈)が認められた。

7月25日
朝、再度、病院にて心電図検査施行。

7月26日
夜半、背中の痛みを訴える。

7月27日
父本人の訴えにより、循環器での診察へ。
背中の違和感、便秘を訴える。
胸部レントゲン、採血、腹部エコー、血管造影CTにて背部の動脈の裂傷を認め入院、ICUへ。


私が日本に到着したのは、29日の夜だった。
二度の乗継。フライト間の待ち時間がひどく長く、その上、台風による遅延があったため、
ふらふらになり施設に辿り着いた。
翌日、父に会いに行った。
父は思いのほか落ち着いており、意識もはっきりしていた。
特に痛みや不快感があるわけではないとのことだったが、
自身の状況がわからないことをとても不安に感じていた。

病室に残されていた「入退院支援計画書」から父の病名がわかった。
B型大動脈解離。

直ぐにでも主治医の先生から詳しいお話を伺いたかったが、
その日のうちには無理であろうことはわかっていた。
急ぎ看護師に担当医師との面談をお願いした。

長時間のフライトの後で私自身もくたくただった。
これから父を診るのに私が倒れていてはしようがないので、
そうそうに病院を後にした。

買い物をして施設に戻ると病院から連絡が来た。
その日の夕方になら先生が話し合いのための時間が取れるということだったが、
再度伺う体力はなく、翌日にして頂いた。

翌日の先生との話し合いに備え、大動脈解離についてネットで検索した。



【大動脈解離】
心臓が絞り出した血液を全身に送り届けるパイプが動脈ですが、
この動脈の中で最も太い部分を大動脈と呼びます。
この大動脈は高い血圧(血液の圧力)に耐えるため3層構造となっており、
大変頑丈にできています(図1)。


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しかし諸々の理由で、この3層構造のうち、中膜(まん中の膜)と内膜(一番内側の膜)が弱くなり、
大動脈の内部を流れていた血液が内膜にできた裂け目(エントリー)を通り、
中膜層(内膜と外膜の間)に入り込むことがあります。
中膜層に入り込んだ血流は勢いが大変強いため、
大動脈の壁を縦方向(末梢方向=足側)に裂いて行きます(図1)。
これを医学用語で大動脈解離と呼びます。

多くは胸部の大動脈に裂け目が始まり、腹部大動脈まで拡がります。
骨盤レベルに達することもしばしばあります。

このように解離した大動脈は片側が外膜1層のみとなっているため、血圧に耐えられず、
途端に破れてしまう(大動脈破裂)ことがしばしばあります。

また、大動脈解離の裂け方によっては真腔(もともと流れていた腔)が偽腔(裂けてできた腔)に押されて血流が悪くなり、内臓や全身への血行障害を来たし、死亡することもあります。

大動脈解離は大動脈が裂ける場所によって2つに分類されます。
上行大動脈(心臓を出てすぐの大動脈)から裂けるタイプがスタンフォードA型(図2a)、
上行大動脈は裂けず、背中の大動脈(下行大動脈)から裂けるタイプがスタンフォードB型です(図2b)。


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とりあえずの知識を得、翌日担当のお医者様と面会した。
父の場合、内膜の亀裂が30cmほどあるということがわかった。
現段階では手術はせず薬で血圧を調整するとのこと。
定期的に検査をし、状況に応じて対処するとのことだった。
とりあえず、最悪のケースは避けられたようでほっとした。

退院まで何度かお見舞いに行き、8月8日退院になった。
次回の検査は約ひと月先の8月5日と伝えられた。


9月5日、再診。
驚いたことに父の症状は改善していた。
内膜を破り流れ出た血液は血栓となっていたが、その血栓が小さくなっており、
これはとてもよい兆候とのことだった。
このままの状態を保つようにしてくださいと言われ、次回の診察は3ヶ月先、12月の初めになった。


父は昭和2年生まれ、今年(2018年)91歳。
ものすごい回復力である。

2017年冬、大腿部頚部骨折をし手術をした。
元のように普通に歩けることはなく、恐らく、杖歩行になるだろうと言われたが、
父は元のように歩けるまでに回復した。
もちろん、父自身のリハビリの努力もあるだろう。

我が父ながらあっぱれである。








しばらく連絡を途絶えていた友人が、3年近くも前に亡くなっていることをたった今知った。
(2018年7月12日朝)

胃がんだったようだ。
享年60歳。
若すぎる。



亡くなられたのは2015年の9月末とのこと。
私は知らずにいた。
その頃、自分自身も大変な時期だった。

友より先、2013年の秋に癌の宣告を受け、手術、治療。
そして、まだ回復もままならぬうちに、両親の介護の問題が深刻になってきていた。

私が癌であることを告げたときの彼の言葉が蘇る。
「大丈夫。ゆみさんならきっと立ち直ります」

彼が病に倒れた時、同じ言葉を返してあげたかった。

彼との連絡を一時的に断ったのは、私と彼との間の何か問題が起きたからではなかった。
共通の知人、恐らく彼にとってはよき友と私との間に生じた問題ゆえだった。

私はそのまま彼と関わり続けることを躊躇った。
関わり続ける中で、何らかの形でその知人からまた罵倒を受け、これ以上傷つくことを怖れた。
彼とその友人との関係に問題を起こさせたくもなかった。
静かにしばらく距離を置くことがいいのではないかと判断した。
ただ、彼には告げなかった。
黙って、FBの友人関係を切った。

腹を割って話していればよかったのかもしれない。
でも、その時にはできなかった。
しなかった。
病と闘っていた私にはとてもそれに立ち向かうだけのエネルギーがなかった。
今となっては全ていいわけになってしまう。

そうした行動をとった私の心に、
「何よ、私をあんなに嫌っている人と仲良くして」
と言う彼を責める思いがなかったかと問われれば、否定はできない。

私は彼と距離を取り・・・。
そして、病に続き、両親の介護という自分の日常に、翻弄されるようになってしまった。

彼が病になり、あっという間に亡くなってしまったのは、その間のことだった。

亡くなったのは2015年の秋。
その夏、私は母の介護のために日本に飛んでいた。
私自身もまだふらふらだった。
その頃、彼は病床にあったわけだ。
そして私がなんとか母を、一般の病院から療養型病院に移し終えた頃、彼は亡くなってしまった。



ようやく、昨日、彼のFBを少しだけ遡る気持ちになり、過去の投稿を追った。
病に臥したのは、2014年の秋だったようだ。
癌の報告がなされていたのは、明けて2015年の初め。
そして、その年の秋には逝ってしまった。
速い。
そして、早過ぎる。


彼とはMixiを通じて知りあった。
初めての出会いは、彼のFBの投稿にもあるレストランだった。
よい友となり、 一時帰国する度に会う機会を作り、その度に共にグラスを傾けていた。

彼は、繊細な少年の心を持った紳士だった。
美しいものを愛し、日々の生活の小さな一つ一つを大切にしていた。

晴れた日に食べる朝食のメニュー、
眠るときに手に通すパジャマの生地、
桜を愛でるための歩き方、
秋の枯葉の踏みしめ方、
クリスマスの正しい過ごし方・・・・、

そんなこだわりがたくさんあり、それらを愛しみ楽しんでいらした。
そして、言葉をとても大切にしていた。

美しい女性をこよなく敬い愛してもいらした。
もちろん、彼の言う「美しさ」は目に見えるものだけを指すのではなく、
存在そのものを指していた。

一つ一つのこだわりを愛した心優しい美しい人だった。

彼から詩の翻訳を頼まれたことがあった。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/66731689.html
私の拙訳を褒め、とても喜んでくださった。

彼自身も文章を書く方だったので、作品を拝読させて頂いていたが、
私の拙い小説も読んでくださり、心温まる感想もくださっていた。
https://www.amazon.co.jp/dp/B00G0SGSFW
その感想も大切にとってある。
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68725515.html

思い出を振り返ると、季節の移ろいごとに交わしてきたあれやこれやが蘇る。
実際、同じ空間で時を過ごしたのはそれほど長い時間ではなかったのに、
交わした思いや言葉はたくさんたくさんそこにある。

彼への思いは尽きることがない。

今、伝えられる言葉があるとしたら、
「○○さん、ありがとう」
それだけだ。





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先がようやく見えてきていた
後少し頑張れば、明け渡しを終えることができそうだった。
両親が1981年10月10日から住まいとした家。
36年という月日がそこにあった。

11月13日、家の明け渡しの手続きのため、住宅供給公社の地域の窓口センターに行くことにした。
住宅返還届を提出すると、14日後に受理されることになっている。
午前中に家を出て、自転車を走らせた。
自転車は、友人が、滞在中使ってくださいと貸してくれたものだった。

手続き自体は簡単だった。
渡された書類に記入し、60年近くも前に渡された住宅使用許可書を提出する。
それ以外に、私の身分証明書、印鑑、父の委任状+父の印鑑。
必要なものはそれだけだった。

それまでも電話で何度となく方法を聞いていたので、要領はわかっているつもりだった。

「今日、返還届けを提出すると、二週間後に受理されるということですよね。
それまでに退去すればいいのですよね」
と確認をする。

「受理されるまでに二週間かかるのですが、退去は、それ以降であれば、
家賃を払って頂く限りいつでもいいです」

「え?二週間後には退去しなければいけないんではないですか?」

「いえ、あくまでも、受理に二週間かかるということです」

どこで誤解したのだろう?
対応してくれている係りの方を見つめながら思った。

確かに、何度も確認した。
返還届け提出の二週間後に退去と聞いたように思った。
と言っても今更、どうにもならない。
なんだ、それなら、退去届けは、もっと早くに提出しに来てもよかったんだと思い、気が抜けた。
二週間先には退去できるという目処が立たなければ、返還届けを提出できないとずっと思っていた。タイミングをすごく気にしていたのがばかみたいだった。
とにかく、返還届けを提出した。

「では、退去日はいつにしますか?」

改めて聞かれた。
退去日は自動的に28日になると思っていたので、それ以上は考えていなかったが、
ちょうど区切りもいいので、その月の最終日にした。
返還届けを無事、提出し終えた後、後片付けのことを尋ねた。

「いくつかお聞きしたいことがあるのですが・・・」

「はい」

「こちらのN氏と電話でお話をした際、減免措置を受けているので、
家の中に取り付けてあるものはそのままで構わないということだったのですが、
それでよろしいでしょうか?」

「・・・というのは?」

「例えば、風呂釜、浴槽、ウォッシュレット、エアコン、瞬間湯沸かし器、照明・・
と言ったようなものです」

対応していてくれた男性は、ちょっとお待ち下さいと席を立った。
戻ってくると、元の席に戻り、

「はい、結構です」と答えた。

あーよかった。

「では、後は、残ったもの、例えば、冷蔵庫や食器棚というようなものを処分すればいいんですね」

「はい、まぁ、そうです」

「わかりました」

そこまで話し終えると、男性は、もう一枚、書類を私の面前に置いた。

「これにもサインをお願いしたいのですが・・」

「これは何ですか?」

置かれた書面に目を落とす。
遺留品廃棄云々というタイトルが綴られていた。

「退去後、残っているものを廃棄しても構わないという承諾書です」

「例えばどんなものでしょうか?」
今度は私が質問する。

「例えば、家具とか、電化製品とか・・とにかく、残されたもの全てです」

「わかりました。ただ、例えば、冷蔵庫を処分しそびれて、残していった場合、
その処分にかかる費用はこちらに請求されるわけですよね」

「はい。最初に頂いた預かり金以上になった場合はそういうことになっていますが・・・
ただ、ですね・・・○○さんの場合、減免措置をうけているので、
仮に処分費用が最初の預かり金を越えても請求されることはありません」

「え???」

自分の耳が信じられなかった。
今まで、何度、お客さまセンターに連絡をしても、
『持ち込んだものは全て撤去してください』と何度も言われてきた。
『もし、撤去できずに残した場合はどうなるのでしょうか?』と聞くと、
その度に、『預かり金で賄えない分は、後ほどの請求になります』と言われてきてた。

ある方には、
『場合によっては、二桁では足りず、三桁の額になったということもあるので頑張ってくださいね』とまで言われた。

三桁。
100万円以上ということだ。
なので、取り付けてあるものはよしとしても、その他のものは全て処分すべく頑張ってきていた。
それが、これである。

「あの、では、仮に不要なものを全部残していっても構わないということでしょうか?」

「・・できれば、片付けて頂きたいですけれど、もし、残していっても、
預かり金以上の料金は発生しないということです」

絶句してしまった。
なんのことはない。
私は、実家から、必要とするものだけを持ち出し、
後は放り出して行ってもよかったということだった。

何でそれならそうと、最初から言ってくれなかったのですか!
と声を荒げることも可能だった。
が、そんなことをしたとしても、何もならないのはわかっていた。
今、私の目の前に座っている男性は、単に係りとしての仕事をしているに過ぎない。
男性にしてみれば、カウンターの向こうに座っている私は、
日々やってくる処分対象者の一人に過ぎないだろう。
恐らく、彼の中に、記憶にすら残らない、その他大勢の一人。

もちろん、このことを住宅供給公社に訴えることはできた。
理不尽な扱いを受けた場合にはいつもそうしてきた。
闘うことは厭わない。
必要であればいつでも声は上げる。
でも、行いは、いつでも何でもすればいいというわけではない。

「時」を考えること、
そのために費やされる「時間」や「エネルギー」を考えること、
「相手」を考えること、
その結果得られるものを考えること、が必要だった。

今はその「時」ではなかった。
しばし呆然とした頭の中を必死でとりまとめ、最後の鍵の返却について確認し、
オフィスを後にした。

気が抜けていた。

一体、今まで何をやっていたんだろうとも思った。

腹も立った。

何故早く教えてくれなかったんだろう?
でも、そんなことを今更、言ってもどうにもならなかった。
住宅供給公社のお客さまセンターは、たくさんいる居住者の退去に際し、
事務的に応じるだけのことだ。
彼らは彼らの仕事をした。

対応した相手に、その人の事情があり、家族があり、人生があるなどと、いちいち考えてはいない。
要するに、ああした組織を相手に、私がそこまで確認できなかったのが悪いのだ。
それでも、最後の最後にわかっただけでもよかった。

それに・・・
仮に、必要なものだけを取り出して、家を後にしていいと言われても、
わたしにはできなかったかもしれない。
終ったことは、振り返るまい。
私は、友人に借りた自転車を漕ぎ、家に向かった。


その日から、月末まで、淡々と仕事を続けた。
もう、ものの処分にやっきになることはなかったが、
欲しいと言う方がいればもらっていただきたかった。
嬉しいことに、両親が使っていたベッドにも貰い手が現れ、
ほとんどのものが誰かの元に去っていった。

残ったのは、取り付けてあるもの他は、冷蔵庫、食器棚、古い鏡台、調理代ぐらいだった。

最後の一週間ほどは、今まで、お世話になった人々へのご挨拶に費やした。
住んだことはない家だったが、両親のお陰で、多くの協力者が回りにいた。
たまに現れるだけの私にも、誰もがとてもよくしてくれた。
滞在中、めぐり歩いていた、いくつかの場所に顔を出し、幾人かのお宅に食事に呼ばれ・・・、
そんな風にして両親のこの地での最後の時間を過ごした。
家を後にする当日までも、顔を見に来てくださる方もいらっしゃった。

2017年11月30日朝

全てを終え、玄関で靴を履いた。
もう一度振り返り、部屋を眺めた。
重い扉を開け、廊下に出て鍵を閉める。
そして、家に向かって、深く深くお辞儀をした。
両親と、両親を守ってくれた家に敬意を込めて・・

顔を上げ、歩き出す。
今、私は片付けを終え、両親の家を後にする。

一つの歴史が静かに閉じられた。






母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html
親の人生の後片付け(私の場合) その2
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68696099.html
親の人生の後片付け(私の場合) その3
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68697367.html
親の人生の後片付け(私の場合) その4
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68701469.html
親の人生の後片付け(私の場合) その5
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68705612.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
両親の移住 その後3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68661586.html
両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html


母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html
母の最期 ⑤ - 海へ  http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68676140.html











介護保険を利用して取り付けてもらった手摺について、住宅供給公社に問い合わせていたのだが、
中々返事がもらえぬまま、日にちが経っていた。
私は痺れを切らし、地域のナーシングホームに連絡を取ることにした。
介護について色々、相談に乗ってもらってきていた相談員の方に聞いた方が早いのではないか
と思ったからだった。

「お久しぶりです。両親のことでは色々、お世話になりました」と挨拶から入り、

「あのね・・・」と事情を説明した。

IZさんとは、年も違わず、二人で話しをする時には、友達同士のように会話していた。

「え??手摺?外さなくていいんじゃないかな~?」

「え?外さなくていいの??」

「うん、そう思うよ。地域の窓口センターに聞いてみた?」

「ううん、そうしたいんだけど、電話で問い合わせはできないのよ。住宅供給公社に電話しても、
地域の窓口には回してくれないの」

「そうなの~?じゃ、私の方から聞いてあげる。個人じゃないから、直接連絡取れるから」

ということで、IZちゃんは早速連絡を取ってくれた。
折り返し、すぐに電話がかかってきた。

「あ、ゆみちゃん、やっぱり、いいってよ。そのままで構わないみたい。
あのね、そこの窓口のNさんがそう言っているから、直接話して聞いてみて。
住宅供給公社に電話をして、私の名前を出して、Nさんに連絡を取るように言われました。
と言えば大丈夫だから」

「ありがとう!!!」

私は早速、住宅供給公社のお客さまセンターに電話を入れた。
IZちゃんに言われた通りに告げると、地域の窓口に回してくれた。

おおお、初めてだ!
Nさんとお話をする。

「あ、はい、先ほど、連絡を受けました。○○さんですよね。×▽□号室の」

「はい。そうです」

「確か、減免を受けていましたよね」

「はい。しばらく前から受けています」

減免というのは、所得の低い場合や、退職等により収入が減少した場合に、
使用料(家賃)の減免を受けられる制度だ。

「でしたら、取り外さなくてもいいですね、たぶん。ちょっと待ってください、
確認してもう一度お電話します」

5分も待たずに折り返し連絡が来た。

「あ、Nです。やっぱりそうです。取り外さなくてもいいです。
それから、そこに取り付けてあるものですね。例えば、お風呂とか、エアコンとか、
そうしたものは、そのままでも結構です」

「え???外さなくていいんですか?でも、そうしたら、それを取り外すための料金が後でかかりますよね」

「はい、でも、減免の場合は、最初入居時に頂いた預かり金で賄うようにしますので、大丈夫です」

「でも、最終的な料金が、その預かり金より大きくなったらどうなるんでしょう?」

「それでも、料金は発生しません」

これは朗報だった。
私は、念のために外さなくてもいいものを確認した。
お風呂、トイレ、エアコン、瞬間ガス湯沸かし器、照明、ガス警報機、鏡などなど
礼を述べて電話を切り、ほっと大きく息を吐いた。

あーよかった。これで業者を頼まなくて済む。
でも、それならそうと、なんで早く教えてくれなかったんだろう???
文句もあったが、ま、いい。仕事が減ったことを喜ぼうと、片づけを進めた。



処分するものとは別に、父のいる施設に送らなければならないものもあった。
いくらかの父の衣類、鞄、そして、書類類・・

それから、
母が作り、軒下に置いておいた梅酒、梅サワー、梅酢、ラッキョウ汁・・・

母は、庭の梅を使って長い間、梅干、梅酒を作っていた。もちろん、311前まで。
元々、添加物や化学物質は徹底的に避けてきていたので、作る材料にも気を使っていた。
母の作る梅干、梅酒は最高だった。
梅干は早い段階で、持って行ってしまっていた。梅酒もそれほど残ってはいなかった。
ただ、お料理などにも使う梅サワー、梅酢、ラッキョウ汁は2ℓ入りのガラス製の保存容器に
まだいくつも残っていた。
一時は、みんなにもらってもらおうかとも思ったのだが、これは私が使いたかった。
母の手作りの品。最後の一滴までできれば私と家族の口に入れたかった。

最後に、アルバム。
これも結構な量があった。
アルバムから写真をはがし持っていくことも考えたが、それをしている時間がなかった。
仕方なく、そのまま段ボールに詰めた。
後は少しずつ、父の施設で整理するつもりだった。

郵便局でゆうパックを送る場合、箱のサイズは多々あるが、一箱の最大重量は30キロまでだ。
私はできるだけ個数を少なく、どの箱も最大重量ぎりぎりまで詰め込みたかった。
4つの箱を、近所のスーパーマーケットで集め、それぞれの重さを考慮しながら荷造りをした。

一応、体重計を使って量ってはみたのだが、大きな箱を体重計で量るのは結構難しい。
箱の蓋は封をせず、4箱、詰め終えた時点で、郵便局の集配に連絡をとった。

「重量がオーバーしてしまっているかどうか自信がないので、集配に来て頂いて、
もしオーバーしているようだったら、仕切り直したいのですが・・・」と伝えた。

東京から送るものなので、できるだけ、道中で余計な放射性物質を集めたくはなかった。
荷物はビニール袋にいれ、段ボールもビニール袋で包むようにした。
これは結構、大変だった。

集配に来てくれたのは、若いお兄ちゃんだった。
再度、事情を説明して、上の蓋は開いたままの段ボール箱を渡した。

一つ目。
持ち上げるなり、「あ、これはダメかな~」と言う。

「やっぱ、だめっすね~、オーバーです」

「わかりました。じゃ、次です」

次々に渡したが、全て重量オーバーだった。

「体重計で量ると大体、わかるんですけどね~」

「ええ、一応、量ってはみたんですが・・・だめですか・・・。わざわざ来て頂いたのに、
ごめんなさい」と頭を下げた。

「いえいえ、いいですよ」

「あの、申し訳ないのだけれど、もう一度載せて、どのぐらいオーバーしているのか
教えてくださいますか?」と頼んだ。

「あ、これ、ダメなんっすよ。30キロまでしか量れないんで」

「え!?」

30キロまでしか量れない???そりゃ、どういうことだ。
秤の役目を果たさないじゃないか!と思ったが、そんなことをお兄ちゃんに言っても仕方がない。

「わかりました。一つだけでもいいので、もう一度、箱を載せてくださいますか?
大丈夫なところまで中身を出してみます」

お願いして箱を載せ、中身を少しずつ引き出した。
何のことはない。ほんの少しだった。

とりあえず、お礼とお詫びを言い、また、依頼しなおしますので、よろしくお願いしますと頭を下げた。
というわけで、箱をもう一つ頂いてきて、詰め直しだった。

あーめんどくさい。

数日後、無事、5箱を送り出した。
残るのは、譲るか捨てるかのものだけになった。





母の移住
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父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
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再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
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母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html
母の最期 ⑤ - 海へ  http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68676140.html








家の中の物理的なモノの後片付けはもちろん、最大の仕事だったが、
東京に戻り、一番最初にしたのは、事務処理だった。

まず、母の死亡届を役所に提出し、戸籍、住民票、後期高齢者医療保険、介護保険、
年金などの手続きをしなければならなかった。
加えて、父の住民票も移動し、保険や年金のそれに応じた書き換えなども必要だった。

それらのことには金銭的な受け渡しが含まれるので、銀行の届出なども必要になる。
また、配偶者である父が手続きをとるのではないため、ことよっては父の委任状が必要となった。

煩雑ではあったが、東京に戻る前から、電話などで問い合わせをし、
必要な書類等を準備しておいたので、時間はかかったものの、徐々に片付けていくことはできた。
市役所に何度か赴き、年金機構に行き・・・としながら、仕事を進めていった。

ただ、東京を後にする日が決まってからではないとできない手続きなどもあり、
タイミングをはかる必要があるものも中にはあった。

その最たるものが、家の明け渡しだった。
家を明け渡すという旨を告げてから、出るまでに2週間と聞かされていた。
ということは、ここまでできたら、後2週間見れば大丈夫という時点で、
住宅供給公社(JKK)に手続きに行く必要があるということだった。
(と少なくとも、問い合わせの返答から理解していた。)

そのことを頭に置きながら、様々な仕事を進めた。
家を片付けながらも、何度となく、JKKには問い合わせをしていた。

いくつかわからないことがあるからだった。
① 設置されているものが、入居時からあったものなのか、後から持ち込んだものなのか。
② 入居後、設置されたものではあるが、それは取り外すべきものなのか否か。
③ 入居後の設置であることは間違いがないが残していった場合はどれぐらいの費用がかかるのか。
などということだった。

わからないものと遭遇するたびに連絡を入れた。
できれば、地域の窓口と直接話をしたかったが、いくらお願いしても回してくれなかった。
そして、地域の窓口に直接連絡を取る方法は、実際に、そこに赴く以外なかった。
要するに、電話連絡は不可だった。

様々なものを片付けながら、目に付いたものは外していった。
壁に打ち込まれている釘、取り付けられているコードやプラグ、
インターフォンなどの電気製品類などなど・・・

自分でもなんとかなりそうなものの中に、介護用の手摺があった。
要介護になった母のために、トイレ、風呂場、居間やキッチンのそこここに設置されたものだった。これらは介護保険を利用して取り付けてもらったものだったので、
外していいのかどうかわからなかった。

Jkkに問い合わせてみた。取り付けられている箇所を告げる。
と言っても、もちろん相手方も、それらが誰、或いは、どこがいつつけたもので、
取り外すべきかどうか即答できるものではない。
私の質問を受け、数日中にお返事するということで一旦電話は終った。

エアコンや、ガス瞬間湯沸かし器、鏡、照明器具などは業者に頼むつもりだった。
お風呂場は、入居時には、何もなかったということがわかっていた。
ということは、風呂釜も、浴槽も全て撤去しなければならない。
両親のお風呂は最新式のものではなかったが、全て自動で行なえる。
ボタンを押せば、お湯がはられ、準備ができたことを音声で知らせてくれる。
設置したばかりというわけではなかったが、まだまだ十分新しかった。
それを、全部撤去してしまうということにどうにも納得できず、私はまた、問い合わせをした。

結論から言えば、残しておけば、次に入る方たちにとって、公平にならないということなので
撤去してほしいということだった。
それはわかる。でも・・・と私は押した。

すると、
「あるタイプの風呂釜、浴槽の場合は残しておいてもいい場合があります」
ということを教えてくれた。

何で、最初からそれを教えてくれなかったのだろうかと思う。
いつでも、問いたださなければ、こうしたことは教えてもらえなかった。

どういうものであれば残してもいいのかということを詳細に聞き出した後、
風呂釜と浴槽の会社に連絡をし、それぞれが、残してもいい型のものであるかどうか問い合わせた。幸運にも、双方とも、残しておいてもいいものであることがわかった。

そのことを告げるために、再度、JKKに連絡を取った。
型がよいことはわかったが、それらを実際に検分し、十分に使用に耐えうるものかどうか見てから、そのまま残してもいいかどうか決めると言われた。

「それは、いつになるのですか?」
「そちらが、出られた後です」
「ということは、もし、仮に、私が残して行き、使用に耐えないとそちらが判断した場合は、
撤去料を請求されるということでしょうか?」
「はい、そうなります」

あほらしい。
そうは思ったが、取り外す手間と料金を考えると、賭けてみる価値があるのではと、
浴槽と風呂釜を眺めながら思い、それはそのままにすることにした。
ただ、ウォッシュレットは取り外さなければならず、それは業者に頼むしかなかった。

様々なモノを処分するのに、周りの人ばかりを当てにしてはいられないので、
業者へも働きかけてみようと思った。

これまで、本の処分、家電製品の処分、貴重品の処分には業者を当てにしてみていた。
本は状態の良い、売れるものであれば買取がある。
それは、家電製品も、洋服も、貴重品もしかりだ。
と言っても、両親の家に、それほど売れるような品物が残っているわけではない。

元々、それを元にいくらかでもお金にと欲張っていたわけではなかった。
使えるものは、ただ同然でも持っていってもらい、誰かの役に立てばという思いだった。

本は、段ボールを送ってもらい、そこに積めて送り返すと言う方法で、
いくらか売却することができた。
家電製品も、一つ二つ売れたものがあった。
ただ、ほとんど二束三文だった。

それでも、そうしたものを送る時に、例えば、売れないものはあちらで処分をしてくれる
というところもあり、重い本などをまとめてゴミ置き場に持っていくより、
段ボールに積める方が簡単だと思い、それらを利用した。

大量にある洋服、着物、それから、記念コイン類は業者が持っていってくれないだろうかと期待し、
査定に来てもらった。
繰り返し言うが、儲けを期待していたわけではない。
例え、洋服は、キロ単位でもよかったし、着物もただで持っていってもらっても構わなかった。

洋服も着物も中には新品のものもあったが、一つとして持って行ってはもらえなかった。
コイン類も同じ結果だった。

となれば、後は、処分するしかない。
コインは、使用できるものは、銀行に持っていき、使いやすいように変えてもらった。
洋服と着物は、知り合いに大々的に声をかけ始めた。
業者やお店に引き取ってもらうことは無理だとわかった以上、
積極的に処分のために動くしかなかった。

洗濯機と掃除機は貰い手が見つかっていた。
冷蔵庫は見つかりそうもないので、廃棄するための業者に連絡をし見積もりを頼んだ。
和箪笥、洋服箪笥、食器棚、ベッド、ガスコンロも見つけられそうもなかったので、
市の粗大ゴミを手配するつもりだった。

再び、シルバー人材センターや、リサイクルショップに連絡を取った。
バスタオルやシーツなどは、施設に寄付をした。
大量にあった文房具用品や雑貨類は地域の様々な公共の施設にもらってもらった。

キッチン用品、洋服やバッグ、ハンカチやスカーフ、アクセサリーなどは教会の人々の協力で、
バザーや寄付に回してもらえることになった。

人が生きていく上で、家の中に集めるものは、小さなものまで含めると、際限なく色々ある。
行き先を考えなければならないものはまだまだあった。

そうしたものを私は一つ一つ、処分していった。
それは、父と母の歴史の後片付けでもあった。





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ほんの少し体を休めた後、私は仕事に取り掛かった。

家具類はまだいくつも残っていた。
洋服箪笥、箪笥、ベッド2台、食器棚、鏡台、調理台、鏡、折り畳みテーブル、椅子2脚、数え切れないぐらいあるプラスチック製の衣装ケース。

家電製品でまだあるのは、冷蔵庫、洗濯機、ガスコンロ、ガス瞬間湯沸かし器、ガス風呂給湯器、エアコン2台、オイルヒーター、電気カーペット、掃除機、LED照明、ドアホンなど。

上記のものは、貰い手が見つからなければ、粗大ゴミで出すか、業者に頼まなければならないものがほとんどだった。
それ以外に粗大ゴミ扱いしなければならないものといえば、ポータブルトイレ、シルバーカー、ショッピングカートと脚立。

その他の品、調理器具、食器などのキッチン用品、洋服、装飾品類など日常生活に使用する様々なものなどは、誰かに譲ることができなくとも、ゴミとして出すことができた。

私はまず、箪笥と衣装ケースを空にしながら洋服を捨てるものと譲れるものに分けることから始めた。
これは大仕事だった。何しろ、母の服が半端じゃなく多い。
母の性格なのか、或いは、世代ということもあるのか、母はものすごく服を所有していた。

例えば、パジャマ。夏物、春秋物、冬物とそれぞれが20枚ぐらいずつあった。
下着にしても、シャツだけでも、袖のないもの、半袖のもの、薄地の長袖、厚地の長袖というように、箪笥の引き出しを二つぐらい占領していた。上だけでもそうなのだから、下も押して知るべしである。

ブラウス、Tシャツ、セーター、ズボン、コート、とにかく何をとっても数が多かった。
下着類、パジャマ類、靴下類は、譲るわけにはいかないので、そのまま全て処分した。
その他のものを、譲れるもの、捨てるものに分け始めたが、一日二日で終えられるような量では全くなかった。

同じことだけをしていると嫌になってしまうので、合間に他のものの整理も進めた。
何しろ、たった一人でやっており、長い介護で疲労も蓄積している。
一日にできる仕事は限られていた。
朝から晩まで、家で片付け物をしていたら気が滅入りそうだったので、日に一度は外に出るようにした。

以前にも触れたが、両親は、地域活動に長く携わってきていた。
私は、両親のためにも帰国の度にそこここに顔を出していたので、住んだことはないこの地にもある程度の知り合いはあった。

地域では居場所作りも盛んに行なわれていた。
私は、それらの場所を日替わりで訪問した。
単に気晴らしの目的もあったが、そこで、処分するものの行き先を見つけるためでもあった。

行き先は主に三つだった。
「居場所プロジェクト」により作られた、2箇所の「居場所」。
そして、地域の人材と建物を有効活用した上で、年間1千万円(テンミリオン)を上限とした市の補助を得て運営する近・小・軽の家「テンミリオンハウス」だった。

テンミリオンハウスは、介護保険制度導入を機に、高齢者の生活全般を地域において支援する新たな「公的介護」のしくみ作りが求められ、市では、地域における『共助』のしくみとして展開してきた事業だった。
それに加えて、地域にいくつかある「コミュニティセンター」にも時々、顔を出した。

新しくできた、テンミリオンハウスでは、前回、我が家で処分した家具や文房具類が既に使われていた。それらを見学するのも兼ねて、東京に着いて、10日ほどした頃、初めて顔を覗かせた。

私が知っている方は、一人しいらっしゃらなかったが、ほとんどの方が父を知っていた。
「○○の娘です。父が大変お世話になりました」と挨拶をすると、誰もが歓迎してくれた。これはありがたく、父に感謝した。

そこで、お目にかかった方々に、その他の居場所でもしているように、今、自分がしていること、家の明け渡しのため、不要品を処分していること、をお話しした。
それを知ると、それぞれの方が、ご自分の知識内で、色々なアドバイスをしてくださった。
地域のリサイクルセンターを教えてくださる方、洋服の買取業者やお店を教えてくださる方、家具などの大きな不要品を一手に引き受ける業者を紹介してくださる方。

それらの情報をありがたく頂きながら、お話を進めていると、

「11月の初めに教会でバザーがあるんですが、そこで今売る品物を集めているので、不要品を見にご自宅に伺ってもいいかしら?」

と初対面の方に声をかけられた。

「もちろんです。そうして頂けると助かります」

と答え、住所や電話番号など、連絡先を伝えた。

その方、T子さんから連絡を頂いたのは、2,3日後だったかと思う。

「よかったら、明日のお昼頃うかがって、不要のものを見せていただきたいのだけれど」
私は一にも二もなく承諾した。

「どうぞどうぞ、差し上げられるようなものがあるかどうかわかりませんが、いらして見てみてください」

翌日、約束の時間になると、総勢、4人の女性がいらっしゃった。
T子さんともう一人、お二人ぐらいでいらっしゃるのだろうと思っていたので、多少驚いたが、そんなことは関係なかった。不要品を持っていってくだされば助かる。皆さんを歓待した。

4人の女性は、みな、教会の信者の方だった。
中に、お一人だけ、「居場所」を通じてお目にかかったことがある方がいらした。
Y子さん。
この方とご主人のことは父からお話しもよく聞いていた。ご主人は、父が引退後、20年ほどしていた幼稚園での仕事を引き継いでいらした。

「あら、Y子さん」とご挨拶をすると、「T子さんが、ゆみさんが、不要品を処分したいと言っていると教えてくださって、みんなでおしかけました」と笑顔を向けてくださった。

女性達はまず、キッチンから攻め始めた。と言っても、キッチン用品だけで、かなりの品がある。
食器棚にある半分ほど、調理用品をいくらか、より分けるだけでもかなりの時間がかかった。
それだけではと思ったので、その他のものも仕分けして集めておいた押入れから出し、見て頂いた。

私は、ものを粗末にすることが好きではない。
どんなものでも、使用できるものは
、きれいにして使い続けたい。
特に、両親が使ってきた品物だ。
私はそれぞれの品を、極力、きれいにし、同じものは、ひとつに集め分類した。
また、状態のよいものは、一つ一つ、ビニール袋に入れたりして、見てもらう方に見栄えがいいように準備していた。私にとっては、「できるだけ」のことをしたに過ぎなかったのだが、これはとても好評で感謝された。

この日、もらっていってくださったものは、かなりのものになった。
食器、調理具類、スカーフ、風呂敷、バッグ類、キッチン小物、バスルーム用品、文房具類などなど・・・・。

大きなものでは、オイルヒーター、シルバーカー、ショッピングカートなどももらって頂いた。

この後も、教会の方には何度となく来て頂き、かなりのものを引き取ってもらった。

最終的に、最後、全てを引き受けてくださったのは、ほかならぬ、Y子さんご夫妻だった。





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2017年3月、父を移住させた後、落ち着いた時点で、すぐにでも東京に戻り家の明け渡しを済ませるつもりでいた。
だが、母の容態が安定せず、移住先を離れることが難しくなってしまった。
加えて、私自身も負傷したりしたため、タイミングを見計らっているうちに、夏を迎えていた。

蒸し暑い夏の東京で、明け渡しの仕事をするのはしんどい。
もう少し涼しくなったらと考え、少し時間を置くことにした。
この間、もちろん、家賃や光熱費の基本料金をは払い続けなければならなかった。

母の容態は、緩やかに下降線を描いていたが、先は全く読めない状態だった。
8月末の時点で、とりあえず、10月に東京に行くという計画を立てた。
もちろん、それは、母の容態次第では変更せざる得ないことは承知していた。


母は、容態が急変し、9月14日、旅立った。


結果、皮肉にも、予定していたとおり、私の東京行きは10月になった。

両親は私が生まれる前から、公社賃貸住宅に入居していた。
最初に入った住宅は建て替えになったため、途中、住居を移した。
今回明け渡しをすることになった住宅に越してきたのは、1981年10月10日。
今から36年前のことだった。

私自身は、ここに越して来た時には既に独立していたので、この家に暮らしたことはほとんどない。
3DKという狭い間取りであったが、「捨てられない世代」であったた両親の住まいはもので溢れていた。

私は、親の人生の後片付け (私の場合)その1に記したように、親が旅たった後のことを思い、荷物の整理を以前から少しずつ始めていた。
2017年3月に東京を離れた時点で、ある程度までは、処分を済ませてはいたが、それでも、残されたものはまだまだあった。

東京に戻ったのは、10月14日。
全てを片付けるのにひと月、或いは、それ以上かかるだろうと考えていた。

賃貸住宅を借りている以上、返還には条件がある。
そのことについては、随分以前から、両親に聞かされていた。
基本的には、『現状回復』が条件だった。

要するに、借りた時の状態に戻すということである。
言い換えれば、持ち込んだものは全て撤去する必要があるということだ。
36年の暮らしの中では、様々に変化が加えられる。
その中には、時代の変遷にも促されたものもあった。

窓には網戸が取り付けられ、当然、カーテンが下げられる。
照明器具は変えられ、それに伴うようにスイッチも変えられていた。
玄関にはインターフォンが設置され、各種の警報機器も付け加えられた。
トイレはウォッシュレットに、お風呂は音声で沸いたことを伝える全自動になり、もちろん、エアコンも設置されていた。
また、母は後年、要介護の状態でもあったため、各所に、手摺も設置されていた。
それらを全て取り除き、最初に借りた状態に戻して返す。それが、公社賃貸住宅の返還条件だった。
そのことについては、両親から、随分以前に聞かされていた。

明け渡しが具体的になった時点で、私は、住宅供給公社(JKK)に連絡を取り、詳細を確認した。
原状回復が条件であることは間違いがなかった。
唯一、劣化部分はそのままでOKということだけが救いだった。

だが、ここで一つ問題があった。私には入った時の『原状』がわからなことだった。
そのことをJKKサイドに伝えた。
明け渡しの準備過程で、度々、連絡を取り、指示を仰がなければならないと思うということを改めてお願いしておいた。

10月14日、夜、7ヶ月空けていた家に戻った。
(本来ならばこの間、長期不在届けというのを出しておかなければならなかったが、すぐに戻るつもりでいたため、提出を躊躇っているうちに時間が経過してしまっていた)

留守の間、時には風を通してほしいと知人にお願いしておいてはいたが、家の中は黴臭かった。
実際、冷蔵庫を開けてみると、中は黴だらけだった。
7ヶ月の間、掃除をしていない部屋に寝るわけにはいかない。私は疲れた身体を奮いたたせ、とりあえず、眠る場所だけでもと清掃した。

冷蔵庫もすぐに使用しなければならない。
全ては無理でも、ある程度のもを収納できる部分だけ掃除をした。

移住先で、1年以上住んでいたアパートを閉め、そこで使用していた荷物を、父の施設に置き、飛行機で到着したばかりの身には辛い仕事だった。

最低限のことを済ませ、何とか身体をベッドに横たえた時には15日になっていた。
こうして私の親の人生の最後の片付け家が始まった。





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両親の移住 その後3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68661586.html
両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html

母の最期 ① - 旅立ち http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68671440.html
母の最期 ② - 斎場へ http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68672614.html
母の最期 ③ - 死化粧 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68673702.html
母の最期 ④ - 荼毘に http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68675675.html
母の最期 ⑤ - 海へ  http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68676140.html




























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最後は海に流してほしい。
それが母の生前からの願いだった。

初めてそう聞いたのは、もうずっとずっと以前のこと。
その頃には、それが可能であるかどうかすら知らなかった。
洋画でそんなシーンを目にする以外、実際にそうした方のお話を周りで耳にすることもない頃だった。

母の最期が遠くないと思えるようになった時、「息を引き取った後のこと」を思った。
が、私はどうしても、残された母の身体をどうするのか、具体的なプランを立てることができなかった。

他の事に関しては、いつでも十分に調査をし、事前準備をする。
だが、このことについてだけは、まるで、心で遮断するかのように、目を背けていた。
考えたくなかったのだろう。

母が、お通夜もお葬式も、お経も戒名もいらないということは、生前から何度となく聞いていた。
そのことについては納得していた。
そこまでは何とか済ませることができた。

母を荼毘に付し、遺骨を胸に帰る途中、父が言った。

「ゆみ、この後、どうする?」

私はくたくたで、すぐにそんなことを考えられるような状態ではなく、

「お骨は置いておいても大丈夫なんだから、しばらく置いておいて、そのうち考える」

ぶっきらぼうにそう応えるのがやっとだった。


ブログに母の最期の様子を記してきていた。
時折、使い慣れない葬いにまつわる言葉の確認などを、この言葉はこれでよかったのかな?とネットでしたりしていた。
そんな折だった。
ふと「散骨」に関するサイトが目に留まった。

「え?できるの??」

以前、姉に、母が、最期は海に返りたいと言っていると告げたことがあった。
その時、姉は言った。

「日本ではそんなことできないのよ」

日本を長く離れている私は、あーそうなんだと思っていた。

調べ始めると海洋散骨も可能であり、それを請け負う業者もあることがわかった。
海洋散骨の方法はいくつかあった。合同で行なうもの、散骨自体を業者に依頼する委託代行散骨・・・。
できるのなら、私は自分の手で行いたかった。

小型船をチャーターし参加者で散骨を行なえるという個人貸切海洋散骨を提供している業者を見つけ、そこに依頼することにした。
散骨の日は、息子の21回目の誕生日である、2017年10月6日に決めた。

散骨と言っても骨をそのまま、撒くわけにはいかない。先に粉骨が必要である。
母の遺骨を事前に業者に送った。
チャーター便は日に3便。12時出港を選んだ。


2017年10月6日

11:30 港に集合
12:00 出港
12:20 散骨ポイント到着
12:30 海上にて散骨、黙祷
13:00 沖縄の海、景色を見ながらクルージング
13:30 帰港



朝、10時、父が、施設からタクシーで私達のところに到着。そのタクシーに乗り込み、みんなで港へと向かった。
予定より早く11時過ぎには着いてしまったが、依頼業者はそれに応じてスケジュールを早めてくださった。

天気は晴れ。
ただ、波が少し高く、通常より多少荒れて気味だった。

案内をしてくださるのは、W御夫妻。行程の説明を受け、ライフジャケットを着込むと出発だった。



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久しぶりの海だった。
2005年にイギリスを離れて以来、いつでも海の傍に住んできていた。
一週間と海を身近で見ない日はないという日々を過ごしてきていたが、この地に来てからは、遠目に目にすることはあっても、海風を感じられる距離までは中々来られずにいた。

船が走り出した。
風が身体を弄り始める。
思わず深呼吸をする。
気持ちがよかった。

海はそこここで、その地の色と表情を持つ。
この地の海もまた、他の海とは違った色合いと表情をみせてくれていた。

私は海面を波を、そして空をただ眺めた。

しばらくして、Wさんが、姿を変えた母の遺骨を出してきてくださった。
桐の薄い箱の中、母は白い紙の袋に入れられていた。
全部で6袋。
紙袋は水溶性なので、一緒に海に流して構わないと告げられた。



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沖合い2キロほどの散骨ポイントに到着。
散骨の仕方はご自由にと仰ってくださっていたが、一つだけ、注意を促してくださった。

「あまり高い位置から撒きますと、風に煽られて、戻ってきてしまい、目に入ったりしてしまいます。なので、なるべく低い位置から散らした方がいいかと思います」

なるほど。
ドラマチックに撒き散らすと、穏やかに海に着水できないかもしれないということだ。

まず、父から始めた。
小さく折り畳まれた袋の口を開き、海へと向けた。
さらさらと白い粉となった母が風に乗り、海に浮かび、静かに溶け込んでいった。
きれいだった。



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父の口からも、私の口からも、たった一つの言葉が自然と漏れていた。

「ありがとう。ありがとう。お母さん、本当にありがとう」

父と私はその言葉を何度も何度も繰り返した。

父に続き、私、ダーリン、息子と順に母を海に送った。



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最後の2袋は父と私で流した。


Wさんが、二つの籠に盛られた切花を手渡してくれた。
献花。
色とりどりの花を一つ一つ、海に投げる。
風に舞い、波に舞い、花々が、海面を彩っていった。
美しい景色だった。



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黙祷。

母は海に返った。

これからは、海は母の眠る場所。

「お母さん、これで世界中どこへ行っても一緒だね」
私はそっと呟いた。



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港に戻り、帰途のタクシーに乗り込んだ途端、雨が落ちてきた。
空と海が雨で繋がったかのように感じた。





母の移住
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2017年9月16日
AM8:00 集合、出棺式
AM8:30 出棺
火葬場へ
AM10:00 火入れ
AM11:50頃 収骨




私にとっての初めての「死」は祖父だった。
祖父は59歳という若さで、膵臓癌で亡くなった。
私はまだ、5歳にもなっていなかった。
母の実家の6畳の間に、祖父の棺は斜めに置かれていた。その周りを親族が囲み、皆が振り絞るような声で、祖父を呼んでいた。
若い母も泣いていた。

「ゆみちゃん、ほら、触って御覧なさい、おじいちゃん、こんなに冷たくなっちゃった」

そう言いながら、私の手を祖父の額に持って行った。
指先でそっと触れた祖父の額は氷のように冷たかった。

祖父の身体は火葬場に運ばれ、皆の涙と共に送られた。
母が空を見上げ立ち上る煙を指差した。

「ほら、ゆみちゃん、見てご覧!おじいちゃんが煙になってお空に上っていくから」

そして、祖父は骨になった。

「お父さんが骨になっちゃったよ~」まだ若い母の妹たちは泣きじゃくっていた。

祖父の骨を皆で拾った。長い箸から箸に骨が渡された。私も母の手に手を添えて一緒に拾った。

5歳の私の中で、それが、死の最期だった。
いつの日にか、大人になり、思うようになった。
両親の骨を拾うこと、それは私がしなければならないことなのだと。



空に上る母のために晴れた空をと望んだが、まだ台風の影響が残っており、天気は荒れ模様だった。
風が強く、時折雨がばらついていた。

8時少し前に斎場につき、母が置かれた部屋に行った。
母はとても美しく化粧を施していただいていた。

「ああ、お母さん、とってもきれい。よかったね。最期まで美人だね」

私は母に声をかけ、顔を覗きこんだ。
母の口の端から、体液がほんの少しこぼれていた。
ちょうど部屋にいらしたM氏にそのことを告げると、棺の蓋を全て外しその部分をきれいにし始めた。

母の体が白いサテンのような布の下に現れた。
M氏が母をきれいにしてくださっている間、私はもう一度、その布の上から母の身体を触った。
肩、胸、腹部、そして、手足をゆっくりと撫で、

「お母さんの体、本当に長い間ありがとう。お母さん、ありがとう」と呟いた。

M氏は、一度部屋を出られると、棺に入れる花を持っていらした。

息子とダーリンと三人で母の顔の周りを花で飾った。
ダーリンが、カメラを掲げて、どうする?と聞いた。
私が頷くと、息子と二人、花に囲まれた母の姿を写しはじめた。

出棺の時間になった。
母の棺は、いわゆる霊柩車ではなく、普通の車に載せられた。
後部扉が閉ざされると、運んできてくださったスタッフが深々と頭を下げた。
私とダーリンは、後部座席で母の傍らに腰を降ろした。
「では、出発します」という運転手の方の声と共に、車が動き出した。
M氏が、車の外で、深く低頭された。その姿を見つめ、私も、頭を下げた。
頭を下げると人の行為に、「敬意」を強く感じた。

火葬場までは、一時間弱の道のりだった。あちらで父と合流することになっていた。
土曜日で道が空いており、予定時刻より早く到着した。前の順番の方がまだ、終わられていないということで、しばらく車の中で待つことになった。

火葬場は、近代的に美しい建物だった。半世紀以上前、祖父を送った火葬場とは、似ても似つかなかった。
台風の残りの風と雨が空気を大きく動かしていた。建物の入り口近くにあるガジュマルの樹が枝を大きく揺らしていた。

ほどなくして、施設の方が父を連れてきてくださった。と直ぐに、私達の番になり、建物の中へと案内された。
必要な手続きを済ませた後、母の棺が安置された大きな部屋に通された。
普通は、故人の写真が飾られ、多くの親族が集い、最後の別れをする場所だった。
私達家族にとっては、母と父、ダーリンと息子と私で過ごす最後の場所だった。
そして、父にとっては、この短い時間が、65年という長い月日を共に過ごした、母の死に顔との対面であり、別れだった。

「○子、長い間、本当にありがとう。私はお前と一緒になったことを一度も後悔していない」

父は母にそう語りかけていた。

係りの方の「それでは・・」と言う声に、私達は振り向いた。

「ご遺族の方でご一緒に、そこにある白い布をお顔にかけてさしあげてください」

父と私とでその小さな白い布を持ち、母の顔の上にそっと置いた。

「それではこれから棺の蓋を閉めますので、皆さんご一緒に、蓋を持ち、静かに降ろしてください」

4人の手で、母の棺の蓋を降ろした。

「それでは出発いたします」

母の棺が動き出し、私達はその後に続いた。
火葬炉に母の棺が納められると、間違いがないようにと番号札を渡された。
扉が閉められた。

「では点火ボタンのロックを解除いたします。このボタンを押しますと、火葬が始まります。ボタンははどなたかが押されますか?」

「お父さん・・」私は父を促した。

少し背中が曲がり始めた父の右手が上がり、点火の赤いボタンを力強く押した。ライトがつき、母の火葬が始まった。
約2時間弱ということだった。

建物に設置してある控え室で、時間を過ごした。
私は本を読み、ダーリンズと父は、喫茶店で購入した食べものを食べ終えると、横になって寝入っていた。
皆疲れていた。

アナウンスで名前が呼ばれ、係りの方が迎えにきた。

ここで、私は大きなミスをしていた。
ダーリンは以前から、箸の使い方のマナーにおいて、箸から箸へ食べものを渡してはいけないということを知っていた。そして、その禁忌が骨上げの際、死者の骨を拾うときにする作法に由来としていることも理解していた。なので、てっきり、ダーリンは骨上げのことを知っているとばかり思っていた。

が・・・
ダーリンはそれは特殊な宗教関係の方々がすることだと思っていたらしい。一般の人々の火葬においても、骨を拾うことになるとは、考えてもなかった。

係りの方に連れていかれ、部屋に案内され、火葬の済んだ母の姿を見たときの二人の驚愕はかなりのものだった(であろうと思う)。
私は、母の姿とこれからしなければならないことに心が向いており、二人の動揺に気づけなかった。
呆然としているような二人を横に、父と私は、必死になって母の骨を拾った。
この期に及んでと思うが、後がつかえているのであろう。係りの方がやんわりとでもしっかりと先を急がせた。

事前に、「箸渡し」のことを聞かれていたが、人数が少ないこともあり、父は断っていた。
ダーリンズにも手伝ってと声をかけたが、二人は、躊躇いがちに箸を伸ばししていた。その時には、どうしたのだろう?ぐらいにしか思わなかったのだが、当然の反応だったのだと後になって納得した。

ダーリンズ、ごめんなさい。。゜゜(´□`。)°゜。

私は心配だった。
母の身体が火葬炉に送られ点火する時、火葬された母の姿を見る時、私は自分が冷静ではいられないのではないかと。取り乱し、泣き叫んでしまうのではないかと。
が、私は冷静だった。もう一人の自分が自分の行いを見ているかのような思いで、するべきことを淡々と行なうことができた。

そうできたことに心から感謝している。

母の骨を足から骨壷に入れ、残った細かな砕片を箒と塵取りちのような道具で集め終えると、収骨が終了した。
父が骨壷の蓋をし、壷が桐の箱に収められた。係りの方が、丁寧に、手際よく白い布で箱を包んだ。

「こちらが前になります。こういう風に持ってください」

手渡された白い布で包まれた母の遺骨を私は胸に抱いた。

「お母さん、ここまでちゃんとできたよ。」

子どものように、私は母にそう報告した。





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2017年9月15日(母の死の翌日)

なるべく睡眠をとらなければと思ったのだが、最低限の用事を済ませて、ベッドに横になっても眠ることができなかった。結局、一時間ほどまどろむと起きる時間になってしまった。

朝一番で市役所に赴いた。
火葬許可証を申請できるのは、故人が亡くなった場所の役所か、或いは、届出人の住民票が置かれている役所だという。
普通は娘である私が届出人になるのだが、私の住民票はまだ東京にあるため、こちらに住民登録をしているダーリンに代わりを務めてもらうことになった。

ダーリンには印鑑がないので、多少ごたごたするかな?と懸念したのだが、何とかスムーズに手続きが済んだ。ダーリンは、盛んに指を振り回して拇印アピールをし、係りの方を笑わせていた。

火葬許可証を頂き、タクシーで斎場に着いたのは、10時ごろだったと思う。
もう火葬場の予約は取れていた。許可証を渡し、翌日の火葬までの手順を説明をして頂いた。


2017年9月16日
AM8:00 集合、出棺式
AM8:30 出棺
火葬場へ
AM10:00 火入れ
AM11:50頃 収骨



費用についてなどのその他の必要事項を伺った後、母に会わせて頂けますか?とお願いした。
担当してくださっているM氏がお部屋へと再び案内してくださった。

母が安置されたお部屋は、畳のお部屋も併設されており、希望があれば、宿泊も可能だということだった。
部屋に入ると、母の傍に跪いている方がいらっしゃった。死化粧をしてくださっていた。

「あ、お母さん、きれいにしてもらっているのね」と声をかけた。

振り向いた女性に「ありがとうございます」と頭を下げる。

「見せていただいていいですか?」と少し傍に寄った。

女性が聞いてきた。
「どのぐらいなさりたいですか?ここのところにを消すようにすると、少し厚塗りになってしまうかな?とも思うのですが、どうなさいますか?」

母の頬にある赤っぽくなっている部分を指し示しながら尋ねる。

「母は、生前、死化粧は、きれいにしてほしいと申しておりました。目いっぱい、きれいにしてあげてください」とお願いした。

ダーリンと二人、しばらく女性の仕事を眺めていた。

ダーリンがふと、「どうしてこの仕事をしようと思ったんだろう?」と英語で呟いた。(以後、英語のやりとり)

「そうだね・・・」

「普通さ、子供の頃に、将来の夢は何ですか?と問われて、亡くなった人のお化粧をする人とか言うのって、ないよね。いつ、どうして、この仕事につこうと思ったんだろう?」

「うん、ほんとだね・・。聞いてみれば?」

「ね、ゆみ、聞いてよ。僕は気分を害さないように上手く聞けないと思うから、ね、聞いてみて・・」

私は一呼吸置いた後、言葉を選んで質問してみた。

女性は答えた。
「若い頃から、この仕事がしたかったんです。人はこの世に生を受ける時には、たくさんの祝福を受け、多くの人々に歓迎されます。でも、去る時には、決してそうではない。でも私はその時もまた大切な時であり、十分なお世話をして送ってさしあげたいと思ってきました」

女性は続けた。
「私の若い頃には女性にはこの仕事が許されていませんでした。一度は諦めざる得なかったのですが、その後、子育ても終え、もう一度、挑戦したいと思った時、女性も可能になったことがわかりました。それで・・・
この仕事を始めて5年になります」

私は応えた。
「そんな風に考えていらっしゃる方に、死化粧をしていただけるなんて、母も、そして私も本当に幸せです。母は生前、最後の死化粧はきれいにしてほしいと申しておりました。どうぞ、きれいに化粧を施してあげてください」

私とダーリンは女性に深々と頭を下げた。


同席されていたM氏にも同じ質問をしてみた。

M氏は答えた。
「実はこの仕事に入る前は、17年間パチンコ業界にいました。20歳で結婚しましたので、お金も必要でした。この地では、パチンコ屋は一番給料がいいんです。子供達を育て上げた頃、大切な友を送りました。その時に、この仕事をしたいと思いました。心を込めて人生の最期を送る仕事をしたいと・・・」

M氏は、母の遺体を丁寧に丁寧に扱ってくださっていた。
お仕事だからされているのだろうなと、思っていたその行いに血が通った一瞬だった。

「そんな方に最期のお世話をしてもらえる母は幸せです。私たちからも感謝の言葉を述べさせていただきます」

私とダーリンはM氏にもまた深く頭を下げた。

最後に私は女性の名前を伺った。
私達は、お二人を名前で呼びかけ、もう一度丁寧に頭を下げて斎場を後にした。





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お通夜もお葬式も、お経も戒名もいらない。
荼毘に付し、そして遺骨は、それが叶うなら、海に流してほしい。

それが母の希望だった。

死後のことについては、随分以前から話し合っていた。


息を引き取った後、遺体をどうするかと尋ねられた時、母が火葬だけを望んでいたことを告げた。

「それであっても、とにかく葬儀社にお任せするのが一番いいと思います。どこか、頼もうと決めていらっしゃる葬儀社はありますか?」と主治医に聞かれた。

全く知識も情報もなかった。

「病院では、葬儀社を紹介するということはできないので、検索するか、新聞を見るなどして決めてください」

「わかりました」

母のいた施設の方に力を借りようと思った。

「これから、ご遺体を清めて、故人が望んでいらっしゃったお洋服などがあれば、それに着替えさせて差し上げようと思いますが、お洋服はお持ちですか?」
と看護師が問うてきた。

母が最期にと望んでいた洋服は持ってきてはいたが、施設に置いたままだった。
そのことを告げると、

「それでは、一度戻って、お洋服をとってきてくださいますか?そして、葬儀社にご連絡がついたら知らせてください」と言われた。

母の遺体を清めて頂いている間に、再びタクシーに乗り、母がいた施設に向かった。
タクシーの中で電話を入れ、これからの用向きを伝え、助力を請うた。
お世話になった看護師の方は、「葬儀社は新聞で探しておきます」と仰ってくださった。

施設に着き、母の洋服を用意した後、教えて頂いた葬儀社に電話をした。
何から伝えたらいいのかもわからず、最初に口にしたのは、「最初に何をお伝えすればいいでしょうか?」だった。

故人の名前、依頼者である私の名前と連絡先、病院名を告げた後、お通夜、葬儀は必要なく、法律的に必要な処置だけお願いしたいと伝えた。
遺体はご自宅に置かれますか?と問われたが、とても引き取れるようなスペースはない。

「では、こちらでお預かりいたします。お支度が整いました頃、病院にお迎えにあがります」と告げられた。

話の中で、東京出身だということがわかると、では、ご遺体は、内地に送られるのでしょうか?と聞かれ、ああ、そうなのか、普通は、そうするのだろうなとぼんやりと思った。

母の死出の洋服を手に病院に戻ったのが、11時近かっただろうか?
葬儀社は12時にお迎えに来るとのことだった。

母は看護師さん方の手で、きれいに整えられていた。
葬儀社が迎えに来るまでの間、母の傍に腰を降ろし、まだ、少し温かみのある母の身体に触れながら語りかけた。

葬儀社の到着を電話で受け、母を霊安室に移動した。
そこで、簡単なお焼香をして頂いた。主治医の先生、看護師さんも手を合わせてくださった。

車で20分ほどの斎場に着き、母を安置した後、今後の話し合いが行なわれた。
最初にしなければならないことは、火葬許可証を役所から取ることだった。
通常は、葬儀社がしてくださるのだが、我が家の場合、住民票をここに置いているのがダーリンのため、葬儀社の方は首を傾げた。

「あの~、印鑑が必要なのですが、ご主人様の印鑑はございますか?」

ダーリンは、指を持ち上げて見せた。

「となりますと、私どもが参るわけには参りませんので、大変、申し訳ないのですが、明日、あ、もう今日ですね。なるべく早く市役所に行き、火葬許可証を頂いてきてくださいませんでしょうか?それを持って、遅くとも午後3時までに、こちらに来てください。そうしましたら、火葬場の手続きを進めたいと思います」とのことだった。

母が亡くなったのは、木曜日。金曜日に役所で火葬許可証を頂けなければ、週明けになってしまう。
その上、この週末は敬老の日が入り、3連休だった。

「わかりました。では、明日、朝一番で市役所に行き、火葬許可証を頂いた後、こちらに参ります」とお答えし、その他、費用等のことなどを話し合った後、自宅まで送って頂いた。

家に帰りついたのは、午前3時近かったのではないかと思う。



ノウゼンカズラ2

母が好きだった花のひとつ ノウゼンカズラ




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2017年9月14日20時35分、母が旅立った。

85年という歳月をりっぱに生き抜いた。

お母さん、本当にありがとう。


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母を父のいる施設に入所させることができないとわかった日(2017年9月11日)、私はかなりショックを受けていた。ひとしきり泣いた後、それでも、夜には思い始めた。
「よし、そらならそれで、次の方法を考えよう」

だが、母は、翌々日、14日、逝ってしまった。

9月12日午後、歯の定期健診があった。その後、病院の最終のシャトルバスに乗り、母の元に行った。
着いたのは、4時過ぎ頃だった。母は、特に大きな変化もなく、ベッドに横になっていた。

知ったばかりの残念な知らせ伝える気持ちにはなれず、心の中で呟いた。
「ごめんね、でも、また、何かよい方法を考えるからね」

母がヨーグルトか何か冷たいものが食べたいと言うので、冷蔵庫にいれておいたリンゴジュースを開けてあげた。
母は美味しそうにゴクゴクと喉を鳴らしてジュースを飲んだ。
詰まると困るからゆっくりねと言葉をかけながら何度か口にストローを含ませた。

持ってきた三つパックのリンゴジュースを冷蔵庫に入れ、洗濯物を回収し、ベッド周りや戸棚の中を整えた。
ティッシュの予備が十分にあるかどうか確かめると、残り一箱しかなかった。

母がオムツ交換を頼み、看護師さんが病室にやってきた。
オムツ交換、着替えが終わり、シーツ交換になった段階で、「ティッシュを買いに行ってきます」と声をかけ病室を出た。

8月分の入院費の請求書も届いていたので、先に2階の支払い窓口に寄った。
カードで払うつもりでいたが、使用限度額を超えてしまっており、支払いができなかった。
どうせまたすぐ来るのだからと思い、次回来た時に現金で払いますと伝え、一階のコンビニに降りた。

ティッシュを手に病室に戻ると、母は、静かにベッドに横たわっていた。
傍に行くと眠ってはいなかった。
残っていたジュースを口に含ませ、「また台風が来ているのよ」と話しかけたりした。
ジュースを飲み終えると、少し落ち着いたのか、いつものようにまどろみ始めた。

閉じていく母の瞼を見つめながら、額から頭部へ、髪をそっと繰り返し撫で上げた。
少しでも安心して眠れるようにと、しばらくそうして傍にいた。

母の顔が、眠りへと誘われたのを確認した後、荷物を手に取り、部屋の入り口に向かった。
病室を出る前に、振り返った。
もう一度、戻ってキスをしようか?そうと思いながら、母の顔を眺め、そのまま辞した。
それが生きた母を見た最後になってしまった。

日本列島に台風が近づいていた。

9月14日、朝から、天気は荒れ模様だった。
ここ最近、一日置きか、二日置きに母の見舞いに行っていた。
その日も、朝から、行こうか行くまいか何度となく逡巡していた。

迷うのは、体が疲れている証拠なのだろうなと思いながらも、行った方がいいのではないだろうかと繰り返し自分に問いかけていた。
疲れてもいたのだろう。気づくと眠ってしまっていた。
目覚めるとやはり外は雨が降っており、シャトルバスも最終に何とか間に合うかどうか?という時刻だった。

今日はやめて明日いこうとようやく思い切り、午後の時間を過ごした。
病院から電話が入ったのは18時半頃だった。

「お母様の具合があまり芳しくないので、主治医の先生がお話をしたいとおっしゃられています。明日、12時にいらっしゃれますか?」という連絡だった。

「何か、緊急でしょうか?」と聞くと、そういうわけではないという。

「わかりました。明日、必ず、12時前に病院に到着しているように致します」とお答えして電話を切った。

母は、2015年の夏から、危ないと言われ続けてきた。
2015年の夏の時点で、後半年。それが、また、半年延び、2016年の夏に、この地に来た時にも、恐らく、この年を越えられるかどうかでしょうと言われていた。
2017年の春先には、夏ぐらいを目処に考えましょうと言われ、この日まで来ていた。

6時半の連絡を受けた時点では、来るべき時がやがて来るのだろうなと覚悟を新たにしたぐらいだった。

午後8時頃、再び、病院から電話が入った。
今回の電話は、切迫していた。

「すぐに来られますか?血圧も下がり、心拍数も・・・」

看護師さんの言葉がちゃんと耳に入らなかった。
とにかく、「すぐに行きます」と電話を切り、身支度を整え、タクシーを呼ぶために電話をした。
どれもスムーズにはできなかった。
全身が震え、スマホの操作も何度も間違えた。

タクシーに飛び乗り、急いでくださいと行き先を告げた後、父のいる施設に連絡をした。
それでも、その時には、これが最期だとはまだ思っていなかった。

父は休んでいる時間であることはわかっていたので、施設の方に事情を説明し、病院についてから今一度連絡をしますと伝えた。

タクシーが赤信号で止まる度に、赤いランプが恨めしかった。
ようやく病院の建物が見え始めた時、スマホが鳴った。
主治医からだった。

「心臓が止まり、呼吸も止まっています」

「母は、母は、もう逝ってしまったのですか?」

理性的に考えれば当然の結論であるはずなのに、私はそう叫んでいた。

タクシーを降り、エレベータに乗ると、同乗者がいた。
その方は、5階のボタンを点灯した。
何で、こんな時にという身勝手な思いが心を過ぎった。
5階につき、ドアが開き、その方が降り、再びドアが閉まってエレベータが動き始めるまでの時間が果てしなく長く感じられた。
エレベータが9階に到着し、ドアが開いた途端、私は駆け出した。

病室に入ると、主治医が沈痛な面持ちで母の枕元に佇んでいた。

「母はもう・・・」
主治医は首を横に振った

「苦しんだでしょうか?」
主治医は再び首を振った。

それからの主治医の言葉や、自分自身の行動は、思い返しても順序が定かではない。

「しばらく前までは、私ともちゃんとお話をされていたんです。午後、一度、吐かれたそうなのですね、その後、急激に・・・」
そのようなことを仰られていた。

その時の私にとって一番の問題は、母が苦しんだかどうかだった。

私は母の顔と身体全体を何度も何度も撫でた。
顔を撫ぜ、足を擦り、手を握り、お腹に触り、そうしながら母に声をかけ続けた。

「お母さん、ありがとう。ありがとう。よく頑張ったね、本当に頑張って生きたね。
りっぱだったよ。とっても偉かったよ。もうどこも痛くないよね、痒くもないね。もう何にも苦しいこともないね」

繰り返し繰り返し同じ言葉で母に話しかけた。
自分が泣いているのかどうかさえわからなかった。

母の最後の息を見届けてあげることができなかった。
そのことには、悔いが残る。

でも、私は、私のできる力を全て使い、母を最後まで、最期の瞬間まで守った。
それだけは自信を持って言える。

それで、ゆるしてね。お母さん。

お母さん、心から心から愛しています。

本当に本当にありがとう。





母の移住
その1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68569298.html
その2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68570443.html
その3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68580827.html
その4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68581056.html

父の移住 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68631491.html

親の人生の後片付け(私の場合) その1
http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68633076.html

再会 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636968.html

両親の移住 その後1 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68636747.html
両親の移住 その後2 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68644765.html
両親の移住 その後3 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68661586.html
両親の移住 その後4 http://blog.livedoor.jp/ygjumi/archives/68670482.html



追記
病院から翌日の話し合いをと連絡を受けた: 18:35
すぐに来てくださいと電話をもらった: 20:03
タクシーを呼んだ:20:07
タクシーの中で父の施設に連絡をした:20:19
タクシーの中で医師から母の心臓と呼吸が止まったことを告げられた:20:27
父に母の死を知らせた: 20:41




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