思いがめぐる

カテゴリ: 沖縄


沖縄戦に駆り出された子供たちには、【学徒隊】と、

そして、

秘密裡に組織された【護郷隊】があったということは、前回で触れた。

http://ygjumi.livedoor.blog/archives/68772408.html

『沖縄戦 ― 戦場に駆り出された子供たち ①』

 

第二次世界大戦末期、沖縄には、21の男女中等学校があった。

女子校は9校。

その9校により、9つの学徒隊が組織された。


【女子学徒隊】

女子生徒たちは、日本軍が中心となって行った看護訓練を受け、主に陸軍病院等で看護活動にあたった。

①ひめゆり学徒隊(沖縄師範学校女子部/沖縄県立第一高等女学校)

②白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

③なごらん学徒隊(沖縄県立第三高等女学校)

④瑞泉学徒隊(沖縄県立首里高等女学校)

⑤積徳学徒隊(沖縄積徳高等女学校) ふじ学徒隊

⑥悌梧学徒隊(昭和高等女学校)

⑦宮古高女学徒隊(沖縄県立宮古高等女学校)

⑧八重山高女学徒隊(沖縄県立八重山高等女学校)

⑨八重農学徒隊(沖縄県立八重山農学校)



最も知られているのは「ひめゆり学徒隊」であろう。

以下、それぞれの部隊について極々基本的な情報


①ひめゆり学徒隊沖縄師範学校女子部/沖縄県立第一高等女学校)

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米軍の沖縄上陸を目前に控えた1945(昭和20)年323日の深夜、沖縄師範学校女子部と県立第一高等女学校の生徒222名は、18名の教師に引率され、南風原の沖縄陸軍病院に向かった。

生徒たちが動員された沖縄陸軍病院は、那覇市の南東5キロにある南風原のなだらかな丘に設置されていた。丘の斜面に40近くの横穴が掘られ、その中のむき出しの土壁に沿って粗末な二段ベッドがあるだけの施設だった。生徒たちはここで各壕に分かれて働くことになる。


41日、米軍が沖縄本島に上陸。

前線から負傷兵が次々と送られてくるようになり、生徒たちは寝る間もほとんどないまま、昼も夜も働き続けることになる。

病院壕の中は血と膿と排泄物の悪臭が充満し、負傷兵のうめき声と怒鳴り声が絶えなかった。

生徒たちの仕事は、負傷兵の看護のほかに、水くみや食糧の運搬、伝令、死体埋葬などもあった。

それらの仕事は弾の飛び交う壕の外に出て行かなければならず、危険を伴う任務だった。

5月下旬、米軍は日本軍司令部のある首里に迫る。

日本軍は米軍の本土上陸を遅らせるための持久作戦をとり、本島南部への撤退を始める。


525日、陸軍病院にも撤退命令が出された。

各病院壕では、歩けない重症患者には毒薬などが与えられた。

重症を負った2人の学友は動かすことができず、南風原に残さざるをえなかった。

生徒たちは歩ける患者を連れ、傷ついた友人を担架で運び、薬品や書類を背負って、砲弾の中を本島南部へと急いだ。連日の爆撃と降り続く雨で、泥沼と化した本島南部への道は避難する住民や兵士があふれ、無数の死体が転がり、手足のない重傷者たちが泥の中をはいずり回るという有様だった。


南風原の陸軍病院や各分室から移動してきた教師や生徒は、沖縄本島南部の伊原周辺に集まってきていた。この辺りには沖縄の言葉で「ガマ」と呼ばれる自然洞窟がたくさんあった。その中に住民が避難していたが、住民たちは軍によってガマから追い出され、そこに軍や陸軍病院などが入った。


そのころの陸軍病院は、医療器具も医薬品もほとんどなく、病院としての機能を失っていた。

負傷兵を収容するのに十分な壕もなく、学徒たちは砲弾の中、伝令や水くみ、食糧確保などに当たった。


敗色濃厚となった618日の夜半、陸軍病院では学徒に「解散命令」が言い渡された。

米軍が目の前に迫り砲弾が飛び交う中、生徒たちは壕を出て、自分の判断で行動しなければならなくなる。翌日619を始めとする約1週間の間に多数の犠牲を出すことに。(死亡者のうち実に80%がこの間に集中)。


6月下旬、沖縄守備軍壊滅状態のなか、牛島司令官は、生き残った全将兵に対して降伏を許さず、最後まで戦うことを命じ自決する。司令官の自決以降も、米軍の攻撃から逃れることができず、多くの住民、兵士が亡くなっていった。


3月の動員から解散命令を受けるまでの約90日間のひめゆり学徒の犠牲者は19名である。

それに対し、解散命令後のわずか数日で100名あまりが亡くなった。


解散命令を受けて壕を脱出した生徒たちは入る壕もなく、昼間はソテツやアダンの茂みに身をひそめながら、攻撃が弱まる夜間になると海岸へと向かった。傷ついた体を引きずりながら逃げる者、負傷した学友を助けて歩いていく者、重傷で動けずにその場に倒れる者、砲弾に吹き飛ばされていく者、海岸で大波にのまれる者など、行き場を失い、父母の名を叫びながら死んでいく生徒が続出した。生徒たちは米軍に捕まることをもっとも恐れ、手榴弾で自決した人もいた。


620日から23日の間には多くの生徒が米軍に収容されたが、なかには2カ月以上も逃げ回り、日本の降伏も知らずに822日になって収容された生徒もいた


最終的には教師・学徒240人のうち、陸軍病院に動員されて亡くなった生徒と教師は136名、動員以外で沖縄戦で亡くなった教師と生徒91名、その内の10人(教師の平良松四郎と9名の生徒)は荒崎海岸で集団自決。また隣の洞窟でも米軍の銃乱射で3名が死亡、3名が重傷を負った。

合わせて227名が沖縄戦で命を落とした



②白梅学徒隊(沖縄県立第二高等女学校)

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19452月、4年生の看護教育が始まる。

3656名の4年生が従軍補助看護婦として、東風平国民学校に本部を置く24師団衛生看護教育隊に入隊。


324米軍の攻撃が激化し、看護教育は打ち切られ、八重瀬岳中腹にある第24師団第一野戦病院(山3486部隊)に配属(25日に3名、27日に9名が除隊となり、46名の生徒が入隊)。


64、米軍の猛攻により第24師団第一野戦病院は南部へ後退することに決まり、「白梅学徒隊」は解散。


46名の生徒たちは数名ずつに分かれて南部へと逃げる。

この逃避行中に多くの犠牲者を出し、国吉に後退した第24師団第一野戦病院壕に迎えられて勤務を続けていた生徒たちも621日から22日にかけての米軍の猛攻によって犠牲となる。

46名の生徒のうち22名が戦死。



③なごらん学徒隊沖縄県立第三高等女学校)

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「何の前触れもなしに軍隊が学園に入ってきた」

校舎は軍の通信部隊が占拠、寄宿舎は負傷兵の収容所となり、本格的な看護教育が始まった。


1945年1月、戦況の悪化に伴い、三高女から八重岳に野戦病院が移動。

当時、なごらん学徒たちは名護の学校から10人ずつ、この病院に派遣され、交代で看護実習を受けていた。


「小屋に全部入らないくらい。道にも寝かしていた。上から2番目が治療室だったが、ここに行く前に命を落とした兵士がたくさんいた」


伊江島が占領された4月16日の夜、全滅を恐れた部隊は撤退。

野戦病院も歩ける患者だけを連れて山を降りることを決める。

「歩けない患者さんの枕元には手榴弾と乾パンを配らないといけない。患者さんはもうわかっているんですね。自分たちは置き去りにされると」


学徒隊が去ると、病室から聞こえてきたのは「海行かば」の合唱

後ろ髪を引かれる思いで野戦病院を後にした。


10人中1人が犠牲となった。



瑞泉学徒隊沖縄県立首里高等女学校

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1945125日、私立沖縄昭和高等女学校(梯梧学徒)とともに首里赤田の民家に寄宿しながら第62師団野戦病院による看護訓練が始まる。

3月下旬、南風原村新川の第62師団野戦病院(通称ナゲーラ壕)に昭和高女生とともに配置。

訓練に参加した生徒61名全員が入隊する。

入隊後生徒たちは負傷兵の看護や手術の手伝い、水くみ、飯上げ、排泄物の処理、死体埋葬、伝令などに従事。


327日にナゲーラ壕の前で卒業式が行なわれた後、4月中旬頃沖縄中部戦線に於ける負傷者の激増に伴い、浦添村仲間に仲間分室が、首里高等女学校内の壕にも分室が開設。

首里石嶺や平良からナゲーラ壕までの負傷者の搬送にも携わる。


423日には患者を収容するために仲間分室壕を出た生徒1名が砲弾の破片を受け死亡。

これが瑞泉学徒隊初の生徒の犠牲者となる。

424日には最前線にあった仲間分室壕の生徒はナゲーラ壕と首里高女内の分室壕へ撤退。

この時期の浦添は日々一進一退の激戦が繰り広げられており、文字通り最前線に送られた〝初めての学徒隊〟という表現がまさに当てはまる。

5月中旬には第32軍司令部が置かれていた首里が戦場となりつつあったことから、首里高等女学校内分室の生徒もナゲーラ壕へ一旦撤退。

その後軍命により520日~29日に南部への撤退が出され、生徒たちは歩ける負傷兵を武富へ護送するが、この際に重症患者には〝処置〟をされたとの記録がある。


そして61日には米須の石部隊の壕へと到着するも、既に壕内は患者と兵隊であふれかえっている状態だったため、生徒達は伊原の崖下の岩間に入る。

67日には伊原の岩間が直撃弾を受け落盤が起こり、学徒1名が戦死。

南部地区が砲弾の飛び交う戦場の最前線となった610日には第一回目の解散命令が下されるが、今まで行動を共にしてきた学徒隊達からの不満が相次いだことにより撤回。


619日、米須の壕に再び呼び出されて第二回目の解散命令が下されたものの、壕を出るにも砲弾が飛び交って〝出るに出られぬ〟状況に陥り、再び壕内へと戻ってくる。

623日、米須の壕が米軍の馬乗り攻撃の標的となり、火炎放射器で燻り出されるかのように壕を出るか、そのまま壕に残るかの究極の選択を強いられることになり、結果この馬乗り攻撃によって25名の学徒が戦死。残った僅かの学徒が米軍の捕虜収容所に収監される。

学徒として動員された61名のうち33名が戦死や自決によって短い命を終えた。








「ひめゆり」

と言う言葉を耳にして、最初に思い浮かべる言葉は、今の方ならなんなのだろう?

「ひめゆりの塔」だろうか?
それとも、
「ひめゆり部隊」だろうか?

沖縄戦のことをそれほど知らずとも、このどちらかの言葉を耳にした方は多いのではないかと思う。
それはたぶんに、小説や、その映画化やドラマ化されたものを目にしたり耳にしたことによるのではないだろうか。

私の理解も最初はそこ止まりだった。
沖縄戦で、負傷した兵士を看護した若き乙女たち。
その中で、戦死したり、最後は自決したりしたかわいそうな女子学生たち。


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第二次大戦末期、沖縄では地上戦が繰り広げられた。
その頃には、日本の敗戦を予期していた方も、きっと軍部にもいたのだろうと思う。
が、表向きは、最後の一人に至るまで決して降伏はしないと無謀な戦いは続行された。


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そして、沖縄は捨て石にされた。
沖縄の人々も無論、捨て石だった。
いや、捨て石ですらなかったのではないか。
とりあえずの時間稼ぎに使われたと言ってもいいのではないだろうか。
本土に迫り来る連合軍の進行を遅らせるための駒。


投降



10代の子供達も、その駒に使われた。
「ひめゆり学徒隊」はその一部である。



大戦末期の1945(昭和20)年の4月、沖縄に米軍が上陸、熾烈な地上戦が展開され始める。
兵力は足りない。それなら、子供もと、大人たちは考えた。

当時沖縄にあった22の男女中等学校から生徒たちが動員され、戦場に送られた。
それが「学徒隊」である。

「女子学徒隊」と「男子学徒隊」がある。

男女合わせて22の学校から約2千人、その半数ほどが戦死した。
およその数で、男子が1500人、女子が500人だ。
(男子1787人以上、921人以上戦死。女子735人中、296人が犠牲、という資料もある)


女子学徒は、15歳から19歳、看護活動、遺体の埋葬などを、
男子は、14歳から16歳、物資運搬、立哨、炊事、食糧確保、負傷兵の看護や搬送、陣地構築、攻撃、伝令などの任務を担った。
※防衛召集は17歳以上の男子が召集対象
上級生は「鉄血勤皇隊」、下級生は「通信隊」と呼ばれた。


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そして、もう一つ、忘れてはならないのが「護郷隊」である。
1944年9月26日発出の大本営勅令によって、14歳から17歳の少年らで編成された。
陸軍中野学校出身の村上治夫大尉および岩波壽大尉を隊長に組織された遊撃隊(ゲリラ部隊)で、任務秘匿のために「護郷隊」と呼ばれた。
ゲリラ戦を専門とする少年兵の部隊は日本軍史上類を見ない。
第一と第二の部隊からなり、総勢約1000人、死者約160人


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以上、それぞれについて、少しずつまとめたいと思う。




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