思いがめぐる

カテゴリ: 日本

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忘れられない作品。









“想定外の奇襲”とされてきた広島・長崎への原爆投下の動きを、日本軍は事前に察知していた。
被爆から66年。初めて明らかになる真実に迫る。


“想定外の奇襲”とされてきた広島・長崎への原爆投下。実は、日本軍は米軍の動きをつかんでいたことが明らかになってきた。当時の資料や当事者の証言などから、国民の生命の安全よりも、国の担当者の事情やメンツを優先させた驚くべき実態が浮かび上がる。
情報をつかみながら、なぜ多くの人々が無防備のまま亡くならなければならなかったのか。
原爆投下から66年、その問いに初めて迫る調査報道である。

【収録内容】
広島・長崎あわせて20万を超える人々の命を奪った原子爆弾。これまで日本は、アメリカが原爆攻撃の準備をしていることを知らないまま、“想定外”の奇襲を受けたとしてきた。しかし実際は、原爆投下に向けた米軍の動きを事前に察知していたことが、新たな証言と資料から明らかになってきた。
日本軍の諜報部隊が追跡していたのは、テニアン島を拠点に活動する部隊。不審なコールサインで交信するこの部隊を、「ある任務を負った特殊部隊」とみて警戒していたのだ。
8月6日、コールサインを傍受した軍は、特殊部隊が広島に迫っていることを察知。しかし、空襲警報さえ出されないまま、原爆は人々の頭上で炸裂した。そして、9日未明にも再び同じコールサインを傍受、情報は軍上層部に伝えられたが、長崎の悲劇も防ぐことはできなかった。

〈以上、上記リンク先からのコピーです。〉





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英語のタイトルになっていますが、ほぼ全編日本語です。

『孤独死』
他人事のように思われるかもしれませんが、
決してそんなことはないのではと思わざる得ません。
45分の時を費やすだけの価値あるドキュメンタリーだと思います。

このドキュメンタリーを見ていて、何より悲しかったのは、孤独死をされた方の関係者(親族等)が、死後の始末についてできるだけ関わりたくないというスタンスであることだった。
その方達が冷たいとか非情だとかそういうことでは全くない。

そこにはそれだけの事情があるのであろうし、当然の対処の仕方であったのかもしれない。
ただ、人というものが、ある種の条件が揃うと、これほどまでに孤独になり、
死後何日も発見されないほど、周りと切り離されてしまうのだという、そのことが胸に堪えた。

もう一つ、心に残ったのは、亡くなられた方の隣人と管理人の方の反応。
亡くなられた方への同情を示しながらも自己弁護に懸命だった。
それを非難するつもりは毛頭ない。
ただ彼らのその言葉の裏に世間が彼らに向けてくるかもしれない責めに対する防御を感じて切なかった。

そして、最後に思ったこと。
こうして孤独死した方々にも、 『自己責任』という言葉が投げかけられるのだろうか?




日本を離れたのは1993年。
それから何度となく帰国し、時には、1~2年の長期に渡っての滞在もあった。
それでも、日本を知っているとは全く言えなくなった。


と感じている。
なので、
私のこの思いは、全く、見当外れなのかもしれない。

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どうして?と思うほど、日本人は公共の場で手を貸してくれない。
決して不親切な国民ではないはずなのに、このことだけは謎。

例をあげればきりがない。
例えば、 子連れで帰国し、重いスーツケースとバギーに一人で悪戦苦闘。
でも、手を貸してくれるのは、いつでも、外国人だった。


訪れた店内の床が雨で濡れており、派手に滑って転倒した。
腰をしたたか打ち、痛みですぐに立ち上がれずにいると、
「大丈夫ですか?」と手を差し伸べてくれた方がいた。
外国人だった。


車椅子の母と下りエレベータを待っていた。
扉が開くたびに満員。
一台、二台とやり過ごした。
三台目が満員だった時、たまらず声を上げた。
「すみません。どなたか、降りて場所を空けてくださいませんでしょうか?」
驚いたような人々の顔を載せたまま、エレベータの扉が閉まった。


その時、山のような荷物と共に、乳飲み子の息子を抱いていた。
息子は熱があり、バギーに乗せておくことができなかった。

ある地方都市の駅のホーム。
東京へ向かう電車を待っていた。
ダーリンは傍らに立ち、来た電車に荷物を載せるべく待機していた。

やってきた電車に息子を抱いて乗り込んだ。
ダーリンは、電車に荷物を一つ一つ載せていた。
ようやく全ての荷物を載せ終えたとき、電車の扉が閉まった。
ダーリンは閉まってしまった扉の向こう、ホームの上。
扉を叩くダーリン。
それでも電車は発車した。
次の駅で降りると閉じた扉の向こうから合図を送り、一駅をやり過ごした。
次の駅。
電車が止まり降りようとしたが、一度に全ては降ろせない。
でも誰も手を貸してくれず・・・


人種によって優しさの度合いが違うとは思えない。
人としての思いやりというのは人類に共通してあるものなのではないかと思う。
ただ、その思いの表し方が、文化によって違ってくるのかもしれない。
つまり、 どんな人に、どんな風に、どんな時に、何に対して表すのかということ。

日本は、

どうしてなんだろう??







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日本は世界の一国に過ぎず、
日本人は特別ではなく、
日本文化は多くの文化の一つで、
日本語はたくさんの言語の一言語でしかなく、
日本にはカミカゼも吹かず、
みんなただの人間なんだ っていう事に、
早く目覚めた方がいいと思う。


日本や日本文化や日本語を特別視する考え方にどうしても馴染めない。
日本を離れて長い。
いくつかの国で暮らして来た。
私の経験からの言葉だが、日本は別に特別ではない。
世界の中の一つの国だ。
特別視には、劣等感か優越感のどちらかが潜んでいる。
そして、どちらも根は同じだ。


日本、或いは、日本人は、
世界の中で、 自分たちは、
先進国と肩を並べる国、国民と自負しているのかもしれないけれど、
世界は、決してそうは見ていない。
アジアの小国の、非白人でしかない。





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私にとって、日本にいることで感じる窮屈さは何なのだろう?と考えてみた。
日本に戻ると、いつも降り立った途端、自分の立ち位置を見極めていかなければならないような気持ちにさせられる。

年齢での立ち位置
性別での立ち位置
社会での立ち位置

そして、例えば、知人と会えば
その人との関係での位置


まず「私」が存在する以前に、自分がその場においてのどの位置にいる「私」なのかを考える必要がある。
そして、
それに見合った行動をしなければ摩擦が起きる可能性があるという意識を常に保持していかなければならない。
それが私にとってはたまらなく窮屈だ。


日本では、自分が社会のどの辺りに位置しているかを認識し、
関わる相手のそれをきちんと見極めて、自分の立ち位置と相手の立ち位置を考慮し、
話し方、態度を決める、というのは人付き合いの基本になっているように思う。
ずっと昔から・・

英語の授業


特に何の思いもなく、日本で英語教育を受け始めたら、
英語が好きになれなくても当然という気がする。
今現在、どんな英語教育が日本で行われているのかはわからないけれど、
私の頃は、まさに「英語学」。
言葉というより、一つの科目の勉強対象であって、目的はテストでいい点を取ることだった。

学校の勉強を通してずっと感じてきたのは、どの科目もまるでゲームだなということ。
それぞれに細かなルールがあって、それを覚え、テストでそのルールにあっているかどうか正否を問われる。
考えるということより、より早く反応することを求められているような気がした。

私はいつでもゆっくり深く考えたくて、新たな疑問にぶつかると、
それを自分で調べたりしたかった。
でも、そんなことをしていると次のルールと答えが覚えられない。
いつでもものすごいフラストレーションだった。

「君は今の受験制度に向いてないね」と先生に何度も言われた。

話がずれてしまった。
英語。

日本の英語教育が、もし、私が知っている英語教育のままであるならば、
英語を教科として学ぶ目的を今一度考えてみた方がいいと思う。

①英語を学問として学ぶのか?
②英語をコミュニケーションとして学ぶのか?

目的によって教え方も、取り組み方も当然変わってくる。

ただ、正直な思いを言えば、
何より、本当に、思考を深め、広める「教育」に力を入れてもらいたい。


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